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11、夜のワッチ

 伊佐は夕食をとり、しばしの休憩のあと夜八時から午前零時までの当直勤務にはいった。

 昼間と違い夜の勤務は緊張する。船が灯火したあかりだけで、その船の進行方向やスピードを判断しなければならない。

 海上保安庁は自分の船だけでなく、漁船や旅客船、コンテナ船などの動向に注意をしなければならないのだ。

 伊佐は艦橋を出て先頭の甲板に立ち、双眼鏡で周囲を監視した。国際航路でもあるため多くの船舶が往来する。その隙間を縫うように、漁船が通る。


「お疲れ様です」

「お疲れ様です。変わったことはないですか」

「はい、今のところ」

「交代までよろしくお願いします」

「はい!」


 大型巡視船では甲板に立って周囲の警戒にあたる人員は多い。それでも一人が担当する範囲は狭くない。


 海の海上交通ルールは世界共通となっている。

 すれ違うとき、追い越すとき、方向転換するときにはそれに従う。船舶の大きさで優先度が変わることもある。自船がどの位置にあり、能力はどれほどなのかきちんと把握することが何よりも大事なのだ。


「おい、舷灯(げんとう)の光があやしい船があるぞ。整備不良か?」

「ブリッジに連絡しろ」

「了解」


 夜間の船舶の航行には定められたルールがある。船が灯火するあかりもそのひとつだ。

 船のマストには白色の灯火を、右舷は緑色、左舷は紅色、船尾は白色。この色を見て、船の形や進行方向、自船からの距離を判断する。

 その灯火した光の範囲(角度)まで細かく決められているのだ。


 光が弱ったり、電球が切れていると衝突事故の恐れが出てくる。海上保安官はそういった事故を防ぐために、事前に船舶に連絡を取る。


『こちらは海上保安庁、PLH88です。うきつき丸船長さん、応答願います』

『うきつき丸です。ごくろうさんです』

『船長さん、左舷灯が点いたり消えたりしています。電球の交換できますか』

『ああすみません。すぐに交換します』

『あります? 電球』

『あります、あります。ありがとうございます』

『ではよろしくお願いしますね。大漁ですか?』

『え? あはは。これからですかね』

『そうですか、お気をつけて』


 ボーー、ボーー、ボー

(あなたの船を右側から追い越します)


 巡視船かみしまは、漁船うきつき丸との距離をしっかりとたもって追い越した。大型船が小型船を追い越す時は十分に気をつけなればならない。大型船が作り出す波で、小型船を煽ったり最悪は転覆もありうるからだ。


 伊佐は黙って彼らの働きを見ていた。海の警察官とはいえ威圧的であってはならない。事件や犯罪を疑うことも必要だが、そうではないケースの見極めはもっと必要だ。

 うっかり電球が切れていたり、漁に忙しく自船の位置を失念してしまうこともある。人間がやることにミスはつきものだ。それに早く気づいて未然に防ぐのも、海上保安庁の仕事だ。


 巡視船かみしまの乗務員は地元からの採用を重視している。地域の住民とのコミュニケーションが取れることが、海上保安庁の仕事への理解にも繋がるからだ。


「うちの若い連中はどうですかね。伊佐船長補佐」


 伊佐に声をかけてきたのは機関長の佐々木だった。佐々木も伊佐と同じ時間の当直勤務だったのだ。


「機関長、お疲れ様です」

「優しい連中ばかりでね。この水域を守れるものだろうかと、初めは心配したんですよ」

「そうなんですか。判断も早いし、思いやりがあってよいと思うのですが」

「でもそれが、弱点になることもあるんですよ」

「弱点に……ですか」


 近年、国際的犯罪が増える中、海上においてもそれは同じであった。コンテナ船だけではない。どこから見ても日本の漁船なのに、蓋を開けてみると麻薬や武器が大量に積まれてあったりする。麻薬だけではない、冷凍保存された人間の遺体が出てくることもあった。


「まだ、悪い人間にあったことない連中なんです。地元漁船のように根は善い人ばかりじゃないって、頭では分かってるでしょうがね。まだ、本当の悪を知らない。あなたも同じでしょう。もともと人は善い人なのだ。魔が差して悪いことをしたのだと、考えませんか」

「それは性善説、ですよね。確かに私たちはそういうふうに教育されてきたと思います。悪を憎んで人を憎むな。それは、海上保安庁でも同じではないかと」

「理想はそうだね」


 機関長の佐々木はじっと海を見ていた。海の深い底まで見えているような目だ。この海の闇を知っている。そんな目だ。

 あと数年で定年退職を迎える佐々木は、これまでどんな経験を積んだのだろう。


「人はもともと悪い生き物なのでしょうか。自然界からしたら、悪い奴なのかもしれませんが」

「さあて、そうはいったものの私にも分からんよ。私にわかるのは船の能力くらいだ。機関科一筋だからね。さて、機関室に戻ります。あとはよろしく」


 伊佐は佐々木を敬礼で見送った。その佐々木の背中は確かに他の保安官とは違う。たくさんの事案を見てきた男の背中だ。


(佐々木機関長、あなたはやはりこの船に必要な人だ)


 最新のシステムを搭載した巡視船かみしまには、当初ベテランはいらないという話があった。全てデジタル化された操舵室、秒単位で刻まれる周辺情報。タッチパネルで操作する教育をベテランにするのは時間の無駄。人員不足もあり、新しい船には若手を投入しろと言われていた。

 しかし、船長である松平はそれを嫌った。そのシステムは完璧なのか、誤操作は起きないのか、全てをオートマチックして何が残るのかと。


 そのシステムを運用するのは人なのだ。


 船のシステムダウンが起きた時、海図室に走ってそれに航路を引けるのか。引けなければこの広い海原で、恥ずかしくも遭難してしまう。救助する立場の者たちが、システムダウンを理由に白旗を上げてはならない。


 それが船長の言い分だった。

 伊佐はまた違う考えも持っていた。


「感覚が大事なんだ。何かおかしい……それを察知するのは経験しかない。佐々木さんにはそれがある」


 佐々木はこの巡視船かみしまのコンパスなのだ。

 少なくとも伊佐にとってはそういう存在だ。この巡視船の道しるべとなる。伊佐はそう思っていた。



 ◇



 それはいつも突然やってくる。


『救難信号を確認した』

『位置確認して』

『船体かくにーん』

『エンジン止まってる?』

『エンジン止まってます』


 救難信号をキャッチした巡視船かみしまの船橋は慌ただしくなった。甲板で見張りに立つ保安官と無線でやり取りをした。救難信号を発したのは日本国藉の小型クルーザーだった。

 この時間の船橋での当直勤務は、伊佐ほか主任航海士の首里洋平(しゅりようへい)、通信長の江口元武ほか、それぞれの部下たちだ。船長と航海長は当直外である。

 これくらいのことならば、船長を呼ぶ必要はない。全員がそういう認識で一致した。


 伊佐は通信長の江口に指示を出し、甲板にいる職員と無線で連絡を取った。


「江口通信長、近くにいる巡視艇呼んでください」

「了解です」


 クルーザーの故障か急病かわからないが、港までひく船がいるからだ。


「ボートおろして、接舷して確認できますか。人いる?」

「警備隊乗せます」

「よろしくお願いします」


 かみしまは大型船であるため、近づきすぎると小さな船は転覆の恐れがある。そのためボートをおろして警備隊員に救難信号を出した船の確認をしてもらう。

 夜の海でのトラブルは大変危険なため、慎重な行動が求められる。


「監理官、十分ほどで巡視艇ちゅらが到着します」

「ありがとうございます」


 海上保安庁の船は基本的に単独一隻で任務にあたるが、同じ管区を他の船艇も巡回している。必要に応じて応援にあたることも可能だ。


「警務隊よりコンタクト。乗員に異常なし、電気系統の故障により操舵不能とのこと」


 報告を聞いた伊佐は無線をとって指示を出した。


「了解。巡視艇ちゅらに引き継ぎます。到着まで待機し、安全確認お願いします。あと七分で着きます」

「了解」


 今回は船体の故障だけで済んでよかった。そして、救難信号をきちんと発することができてよかった。

 万が一、他の船や大型船から衝突されたら沈没だけでは終わらない。闇に包まれた夜の海は、人の命がどれほど儚いものかを笑いながら見ている。

 そんな恐怖が、ある。


「こちら巡視艇ちゅら。当該船との接続完了。只今より港へ戻ります」

「よろしくお願いします」


 故障したクルーザーを無事に巡視艇ちゅらに引き継いだ。ひとまずこれで安心だ。

 ふっと息を吐いて、窓を見た。夜の海を淡く照らす月が見える。


「月が綺麗ですね」

「おい、その言い方はやめてくれ。歌川だろ」


 伊佐は呆れた顔のまま振り返った。


「僕が女性ならよかったでしょうか? そろそろ交代ですよ伊佐さん。業務連絡さっさとして寝てください」


 平然とした表情で歌川は眼鏡のふちを押し上げた。


「まったく……」


 愛の囁きはいつ訪れることやら。この船はロマンチックな豪華客船でないのだ。惚れた晴れたの話題は足を(すく)う。


「あとはよろしく」


 伊佐は引継ぎを終わらせて、制帽をとるとブリッジから静かに退室した。


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