結婚式だけど父親来ないし、雨が降って最悪です
透明なガラスに小さな雨粒がいくつも張り付いてくる。梅雨のそぼ降る雨が、窓の外から見える赤いヴァージンロードの色をにじませる。
夕子は椅子に腰かけて窓辺に肘を置いて恨めしそうに雨を見続け、ため息を一つついていた。裾が広がる目立たないような薄い色がついた白のウェディングドレスを着ているが、まだ肩までかかるその長い髪をまとめておらず、準備を整えていなかった。
「どうして梅雨の季節がジューンブライドなんだろう」
ポツリと独り言ちて夕子はつぶやく。結婚式は夕子の幼き頃よりの憧れであった。伝統的な日本式の家に生まれ育った夕子は、彼女が生まれたと同時にできたこのチャペルから催される結婚式に思いがけず覗いたとき、幼い子供特有の大きな黒い目にその様子が克明に記録された。
黒のタキシードを着た花婿と純白なウェディングドレスに身を包んだ花嫁、幸せそうな表情で多くの人の前でお互いにキスをする。夕子は日本式の厳かな雰囲気の中で行われた日本式の結婚式を見たことがあったが、西洋式の華やかさ――特にウエディングドレスの中に刺しゅうされた花びらの紋様など白一色の白無垢と比べ、夕子は西洋へのあこがれを抱いた。
いつか自分もあの二人のような結婚式を上げたいという羨望の思いが胸いっぱいに、ある種の野望として膨れ上がっていた。
夕子はその日以降、そのチャペルの結婚式を覗きに行っては自分の頭の中で理想の結婚式をイメージし続けた。純白な白のドレスを着飾り、家族みんなに祝福されながら素敵な旦那様とバージンロードを歩く姿を。
たびたびチャペル訪れる夕子の姿は、従業員にも知られるようになっていた。
そしてある日、運命的なことが夕子の身に訪れた。彼女が結婚式に出られるというのだ。
もちろん主役ではない、ベールガールという花嫁の長いベールを幼い子供が持つという役割だ。衣装も純白ではなく幼い夕子に似合うピンクのドレスで入る。花嫁以外が白を着るのは式場の方針としてできないことであった。しかし、夕子は一歩を踏み出せたと心の中でピョンピョンと跳びはねた。
その日は六月の良く晴れた日だった。純白のドレスを着た花嫁が幼い夕子に六月に結婚すると幸せになれるんだよと教えてくれた。それがジューンブライドだと知ったのはそう時間がかからなかった。
そして花嫁のベールを持ち上げながら、夕子は新郎新婦と共に真っ赤なヴァージンロードを共に歩んだ。
さんさんと輝く太陽の真下、真っ赤なバージンロードは太陽の光に当てられて一層その朱を映えさせた。その両脇に並んだ親戚一同が何かを一斉に空高く舞い上げる。六月なのにまるで雪がこの二人の間だけに降ったかと錯覚するほど雨飛するライスシャワーが降り注ぐ様、夕子の真っ黒な髪にそれが白の色味を添える。
夕子は前を歩く花嫁を見て、自分もこの時期にこのチャペルで、赤い絨毯の上で家族にライスシャワーを浴びせられながら祝福され西洋式の結婚式を挙げるのだと、あやふやなイメージだったものが固定化された。
あれから数十年が経ち、もう彼女の待望は目の前まであった。大好きな恋人と結婚を約束し、幼き頃よりのあこがれだったこのチャペルでの式も確約した。しかし、その前を梅雨の雨が障壁のように降りたった。
チャペルに入場したときに、どんよりとした曇天から冷たい水が鼻に当たったとき嫌な予感が夕子にはした。そしてドレスに着替えが終える寸前で、チャペルの外はざんざんと水の粒が彼女の理想の結婚式を遮ってしまったのだ。
今、従業員が式の内容変更にてんやわんやしている。だが彼女のため息の理由はそれだけではなかった。
ドアが軽く三回ノックする音が聞こえる。扉の向こうの男の声に聞き覚えがあり、夕子は入って来るように椅子に座りながら伝える。
入ってきた男は、黒のタキシードに同じ色の蝶ネクタイを付けていた。
「気分はどう夕子?」
「…………少し憂鬱」
花婿の陽平が尋ねると、夕子は少し間をおいて不満げな声で返事をする。
「お義父さんが来ないからか? それとも雨でヴァージンロードが歩けないからか?」
「両方」
その質問に対しても夕子はそっけなく返した。もう一つ彼女のままならないこと、それは家族に祝福されながらという理想が未踏であるということだ。
陽平が膝を曲げて、夕子のお腹のあたりを優しく擦りながら、夕子を心配する。
「あまり無理すんなよ。梅雨の時期なんだから体調崩しやすいし、結婚式でも体力使うからお腹の子に響くし」
「分かっているわよ。だからあんまり動かないようにしているし。まあでも、お父さんの頭が固いのは今に始まったことじゃないしね。来ないことはわかっていたわ」
夕子のおなかには陽平との愛の結晶が宿っていた。結婚前に子を宿すことは、今ではそんなに珍しくもないのであるが、父雲我はそれを許しはできなかった。
すると、従業員の一人が陽平を呼ぶと、陽平は花嫁の部屋から立ち去っていく。
雲我は、よく言えば伝統を重んじ、悪く言えば古い価値観に固視し新しい価値観を受け入れにくかった。陽平との関係はそんなに悪くなかった。たびたび陽平は夕子の家に挨拶に来て、何度も顔を合わせていたほどであった。
しかし、その良好な関係が災いしたのか緊張の糸が緩んだのか、夕子と洋平は一線を超えてしまった。きっと大丈夫だろうという甘い認識が二人の奥底にあった。
子が授かったことに対して、雲我は激高した。式場には入らないという宣言までされてしまった。夕子の望んでいた家族に祝福されながらという理想がこの時崩れ去ってしまった。
雲我は特に日本的なものにずいぶんとこだわり、夕子の結婚式も西洋式でなく日本式を何度も推し進めていた。一生に一度の晴れ舞台なのであるから自分の好きなようにさせてと一喝したことを夕子は鮮明に覚えている。
あこがれの西洋式の結婚式をやりたかった。だが、障害として初めに立ち上がってきたのが、親で何度煩わしく思ったのかきりがなかった。
未だ薄暗い外を見続ける夕子、反射した窓に夕子の顔のほかに夕子の母親の姿が映っていた。
開いたままのドアを夕子の母がノックして入ってくる。母親は、和服姿で来ていた。母親も雲我と同じく日本式を好んでいたものの、固視しているわけではなかった。
「雨もうすぐやみそうよ良かったわね」
「うん」
夕子は空返事をするだけであった。雨が止みそうだといっても空は未だに暗雲で夢見ていた快晴の下の式ではない。憂鬱な顔をしている夕子の姿を見て母親は昔のことを振り返り言葉にした。
「夕子は洋物が好きだったからね。小さい頃からドレス風の洋服を買ってもらうように駄々をこねて」
だが、夕子は返事もせずじっと窓の外を見続けていた。母親は気にせず話を続けた。
「お父さんね。夕子の結婚式は日本式が良いって言ってたけどね」
「私のやりたいようにしたいの、前に話したでしょ私がたまたま式場の人にベールガールやらせてもらった時の話。西洋式の結婚式は子供の時からの夢だったの」
「あれね、今まで黙っていたけど。お父さんが頼んだことなのよ」
それを聞いて夕子はようやく窓から顔を外した。母親は「やっと話を聞くようになったわね」と袖で口元を隠しながら微笑む。
「ホントなの?」
「ええ、夕子がよくここでの結婚式を覗いていたのをお父さん知っていてね。何とか夕子に結婚式の雰囲気を味わせてもらえないかと頼んだのよ」
夕子はどうして父自らの口から自分の結婚式の方式を応援していると言ってくれなかったのかと問い詰めると、母親は呆れた顔つきでそれに答える。
「お父さんあれで意地っ張りでね。自分が日本式が良いって言ったからには後には引けないのよ。だからずっと夕子には日本式が良いって言い続けたのよ。まあ流石に式を挙げる前に子供ができたのはあの人の頭の処理が追い付かなくなったけどね」
夕子は手を握り締め、爪が手のひらに食い込む。障害と思っていた父がまさか自分を応援してくれていたとは思わなかった。思えばずっと父は口では反対とか言い続けたが、それを実際に行動に移すことはしなかった。むしろこの結婚式の段取りとかを丁寧にしてくれていた。そんなことを忘れ、障害だと決めつけていたことに夕子は恥ずかしかった。
母親は、夕子の背中に回り込み慣れた手つきで夕子の髪をくしで梳き始める。
「さあさあ、もうすぐ結婚式でしょ。ちゃんと髪を整えて晴れ舞台に臨まないと」
夕子は陽平と唇を合わせる。結婚式の最大の盛り上がりである口づけも終え、いよいよヴァージンロードを二人で歩む。
チャペルの扉が勢いよく開く。空調が利いた中とは異なり、梅雨特有のまとわりつく湿気が襲ってくる。雨に濡れていたヴァージンロードは雨が止み終えて新しいものに変えられていた。しかし、雨が降ってしまった影響で、ライスシャワーが撒けなくなり、あの夏の白い雪が降り注ぐことができなかった。
夕子は陽平のごつごつとした手をしっかりと握りしめ、ヴァージンロードを一歩づつ歩み進める。例え、ライスシャワーがなくても、空が快晴でなくても、自分が憧れたヴァージンロードだけは歩み進めるんだと。それが父雲我が、ひそかに夕子に西洋式結婚式を魅了させてくれたことへの恩返しだからだ。
水がぽたりと結婚指輪に滴り落ちる。手のひらを天に向けて広げると大小の雨粒が再び降り始めてきた。
「最悪ね。せっかくの晴れ舞台だってのに」
夕子は忌々しそうに空を見上げる。顔を上げてしまえば雨で化粧が崩れてしまいかねなかったが、目の奥から出そうなものを抑えているにはこれしかなかった。
ジューンブライド――六月に結婚すると生涯幸せになるという。だがこの梅雨の中それを思うことができなかった。この雨が今の夕子の心境を現わしているようで仕方がなかった。夕子の思い描いていた理想の結婚式は、この雨で流れてしまった。
陽平が夕子を濡れさせないように自分の上着を夕子にかけさせようとした時であった。両脇の列から一人の顎ひげをたっぷり蓄えた男が、明らかにその場に似つかわしくない番傘を夕子と洋平に差してやった。
赤い番傘の布と黒の骨組みが夕子の目に入ると、傘をさしてもらった男に目を向ける。その男は夕子の父だった。
「まりああーじゅ、ぶりゅう゛ぃうー、まりあーじゅ、うるー」
舌足らずで慣れていない口調で雲我は呪文のような言葉を二人に投げかける。どういう意味だろうかと、夕子は陽平の顔を見つめるが陽平も知らないようである。
「雨の日の結婚式は幸福をもたらすという欧米の言葉だ。三人とも結婚おめでとう」
三人という言葉に新郎新婦は再び戸惑う。
両肩が雨に濡れながらも、雲我は普段は見せない柔らかな目で二人を見る。
「お腹の子も結婚式に出ているだろ。一生に一度の娘と孫の晴れ舞台だ。風邪をひかせるわけにはいかんだろ」
夕子の思い描いていた理想の結婚式とは異なっていた。されども、そこには幸がある。
ライスシャワーの代わりに、六月の温かなシャワーが傘に当たり、続けて落ちる雨音が万雷の拍手のように聞こえる。それは天からも夕子と陽平の結婚を祝福しているかのようであった。
仮題名『梅雨のジューンブライド』