それでも羊が欲しかった
幼い頃に動物を飼いたがるなんて経験は誰でもしてきたと思う。
それが犬や猫だったらまだ可愛いもので、爬虫類や昆虫が欲しいと親を困らせた子供だってたくさんいる。
子供の目に映るいきものというのは世話の面倒だとか金銭的負担を持っていない。
ただひたすらに好奇心と期待を溢れさせて心をきらきらにしてくれる、そういうもの。
私は数ある動物の中でも羊が欲しかった。
タオルケットのように柔らかくてふわふわで、少し甘い香りがしていて、何よりも私を包んでくれる気がしたからだ。
ついぞ、その願いが叶うことは無かったが。
ずっと行きたくて、駄々をこねてまで連れてきてもらった動物園で私は母の横顔ばかり見ていた。
「キリンさんがいるよ。餌やる?」
「おかあさんといっしょにみてる」
いつもと同じ笑顔で、キリンやゾウを指さして私の視線を誘導しようとしていたが、私は全くその気になれなかった。
今わたしが母から目を離せばこれが永遠の別れになってしまうような気がして。
繋いだ手にすがるようにギュッと力を込めていた。
「ジュースを買ってきてあげる。ここで待っていて」
いよいよその言葉が出てきたと思った。
わたしは頭を振って意思を示してみせたが、母は私の両肩に手を添えて、お願いだから良い子に待っていて、と震える声で言った。
「じゃあ行ってくるね」
「うん。おかあさん、バイバイ」
あの時どうして「バイバイ」なんて言葉が出てきたのだろう。
幼心に分かっていたのだろうか。
母は一度も振り返らなかった。
園内はやがてポツポツと人が減っていき、わたしの前で一瞬立ち止まって、また通り過ぎていく親子連れをぼうっと眺めていた。
父親と母親と子供。
当たり前のものがわたしにはなかった。
父親は私が生まれる前に他所へ女を連れて出ていったからだ。
母がいればそれでいい。影では嫌なことを言う大人も子供もいたが、そんなのは関係なく、わたしと母で家族だ。
そう思っていたわたしだったが、現実は残酷で、夕方になる頃には家族が無くなっていた。
父も優しいが厳しい母も、そして当然両親がいなくなったのだから、わたしという子供もいなくなった。
残ったのは物事を達観して考えるようになった、可愛げのない孤児だけだった。
つまり、私は動物園で母に捨てられた。
夕暮れになるころ、ずっとベンチに座っている私を不審に思った係員が声をかけてきた。
「ねえ、あなた、お母さんとお父さんはどうしたの?はぐれちゃった?」
「お母さんが、戻って、こないの」
もう戻ってこないことを幼心に分かっていたが、それでも涙と嗚咽が止まらなかった。
迷子センターに保護されたが、それから何時間か経ってもわたしを迎えに来る母親がいないと分かると、流石に動物園の係員も絶句していた。
「お腹へったね?なにか食べたいものはある?」
「いらないの」
「本を読む?テレビも見ていいわよ」
「ううん……」
わたしを気遣い係員の優しさは涙を呼ぶばかりで、とても痛かった。
「今日はたくさん動物みれたかな?」
「あんまり見れなかった」
「何を見たかったの?」
「羊が触りたかったの」
「ああ、ふれあいコーナーのね」
係員は納得して頭を撫でてくれた。
それから、羊の話をいくつかしてくれたが、今はもう覚えていない。
「羊、触りに行く?」
「うん」
わたしを哀れに思ったのか、係員はわたしを連れて既に誰もいなくなった触れ合いコーナーへと連れていくと、一頭の羊を手招きして呼び寄せた。
その光景がわたしには不思議でしかたなかった。
餌もないのに羊は呼べば来るのか、と。
「この子はおとなしいから触っても大丈夫。背中から優しく撫でてあげてね」
恐る恐る手を伸ばした羊の背はとても柔らかくて独特の匂いがした。
「羊が欲しいの」
「羊が好きなの?」
「うん。大きくなったら羊が飼えるかな?」
「そうねえ。あなたがちゃんと大人になって、幸せならきっと飼えるわ」
「羊を絶対に飼うの」
わたしは羊の背に顔を埋めた。
恐怖は無かった。ただ少し、係員に怒られるかもしれないとは思っていたが。
ふわふわとした毛は顔に触れると少し固く感じた。
だがその下で呼吸をする度に動く温かい体がたまらなく愛おしかった。
羊はジッとしていた。
まるでわたしの心の内を分かって、なぐさめてくれるかのように。
「この子は子供を産んでいるから、優しいのよ」
「おかあさんなのね」
係員が説明をしながらやんわりとわたしを羊から引き離す。
羊は相変わらず動かず、まどろんでいるような表情をしている。
優しい羊の子供はどこはどこへ行ってしまったんだろう。
園内にはいるのだろうか。きっと、いるんだろう。
「もういいの?」
羊から距離を取った私に係員が声を掛ける。
「うん、羊さんももう子供のとこに帰りたいよね」
「……あなたは、優しくて良い子ね」
わたしはその言葉を遮るように、またあれこれと羊を飼うための話をせがんだ。
そんな会話をしながら時間はすぎ、柵から出ると、わたしを迎えに来た警察官が手招きをしていた。
わたしは二度と家に帰ることも、母に会うことも、この動物園に来ることもなかった。
そうしてわたしはいつの間にか大人になった。
穏やかな昼下がり。
窓から差し込む光で暖をとっていたら、つい、昔のことを思い出してぼうっとしてしまっていた。
最近は寝不足だから仕方ないのだろう。
ふと、柔らかな香りが鼻を誘った。
視線を下ろした先、1つの命として腕の中で無防備に眠る柔らかくて頼りない存在を見た。
生まれる前から私と一緒だった我が子の匂いを初めて嗅ぎ分けてしまったことに驚き、私は無性に寂しくなった。
小さな指に無理やり自分の指を絡ませて、胸の奥から湧き上がってくる何十年物の、行き場のない感情を必死で圧し殺す。
私は良き羊になれるだろうか。