この孤独な世界で 4
身を隠すように走り続ける。雨が上がったが未だに曇り空の天気は、心の不安を映し出しているようだ。
ギィー鳴き声を出す虫が足下に居り、耳障りだったのでぐちゃぁっと体重を乗せて、ピチンと小さい音で踏み潰す。
少しの距離を移動してきたが、まだ奴には見つかっていないと思う。……いや、どうだろうな。
俺は建物の影に隠れて、目の前の様子を伺っていた。
するとどうだろうか。少し離れた前方の方にあった草木がガサガサと左右に揺れて、鋭くまるで怒っているかのような眼光で俺のことを見つめている、真っ黒な存在がこちらを見つめていた。
ゾワゾワっと震え上がる俺の背筋。どくどくと鼓動が早くなっていく俺の心臓音。リュックから一本のガソリンのペットボトルを取り出して、地面にとくとくと3メートルほどの線を描いていく。
黒いやつが警戒して、こちらに来ていないことを確認しながら、俺は線の先にガソリンのペットボトルのキャップを全て開けて、全部を同じ場所に垂れ流した。
俺が5本目のペットボトルを開けた瞬間黒い奴が走りだした。まるでライオンのメスが狩りをするような速度で走ってくる。
まるで、公道を走ってくる乗用車くらいの速度で、目で追えないわけでもないが、俺が逃げきれるわけでもない。
ほとばしる血液と、緩くならない心臓の鼓動を必死に押さえつけながら、ここまで来るのを待った。
俺がやろうとしてるのは至極単純なことだ。持ってきたチャッカマンで、ガソリンの線に着火し、その先に置いた4本と半分のガソリンが入ったリュックを奴にぶち当てるということだ。チャンスは一度きり。外したら俺の人生の終わり。まあ、当てても終わりじゃあ無いかもしれないが。
近づいてくるその存在が怖くて未だに吐きそうだ。近づいてくる憤怒の表情。やっぱり怒ってるじゃあないか。たぶん、俺の罠に嵌められたことがプライドを傷つけたんだろうか。まあ、真意は本人しかわからないが。
ああ、近づいてきやがる。できれば、ずっと遠くに居て欲しいし、近づいて来ないで欲しい。わがままを言うならば、その憤怒の表情を戻して、俺を優しく自愛の思いで舐めて降伏の意を示して欲しい。
あと約50メートル。40メートル、30メートル……ここだ!!俺はすかさずチャッカマンのトリガーを引いて火を着けた。
俺はそのまま、向かってくる黒いロケットに背を向けて、思い切り走り出した。それはもう死にものぐるいで。
ガソリンから数メートル程しか離れてないから、鬼の様な形相で後ろに走らなければいけない。そして、そこまで距離は進んでいないが、俺は後ろから迫ってきた衝撃に耐え切れずに、地面へと唇がハジけるような濃厚で二度としたくないキスをした。
起き上がってガソリンを撒いた場所を見ると、運が良いのか悪いのかわからないが、小さい爆発が起きたんだろうと思う。草の生えた地面が焦げており、トースターでパンを焦がした時のような臭いが漂ってくる。
ハッとして、黒い奴がどこに言ったかと視界を360ど回転させたところ、火に包まれて転げまわっているのが見えた。
これは好機だ。相手が弱っているかもしれないが、俺にとどめを刺す力もなければ武器もない。焦げた臭いとガソリンの臭いが立ち込めている今、遠くへと逃げ去るしか無いのだ。
踵を返して精一杯のダッシュを、今まで生きてきた中で最速であろう、箱根駅伝の選手もその速さにびっくりするんじゃないかと勝手に思った、ガチのダッシュで逃げた。
逃げ出した約10秒後。本日、最も強い衝撃を受けた。3メートルはふっとんだと思う。空中を少し舞った時、雲の切れ目に出来た青い空が凄く綺麗だなと思った。
ともかくだ。俺は、骨が折れるんじゃあないかっていうくらい吹っとばされた。
「ッッッ……ぅうぁぁぁあ」
唾液とともに、とても情けないうめき声が口からこぼれた。横隔膜が圧迫されたのか、カフゥっと苦しい呼吸を強いられた。
自分でも分かるくらい怯えた目で、衝撃が会った方向を向いてみると、牙をむき出して、ところどころがちりちり焼けた、未だに身体から煙が出ている、ダメージを負った、黒い奴が低く低く唸って、俺を見下していた。
あ、だめだこれ。俺…死んだわ。そう頭の中で、迫ってくる死に対しての余裕を持たせてはみるものの、心のなかは恐怖でいっぱいで、口ががたがたと震える。結局は俺は弱い人間なのだ。
牙がだんだんと上に開いていき、深淵を思わせるようなどんよりした口内が見えた。どろりとした唾液がとても臭い。にんにくを食べまくって、そのあと忙しくて2日歯磨きが出来なかった時の、俺の口臭に似ている。
その身体は俺をいたぶるように、俺に痛みを与えるのが目的かのように、本気じゃあない噛みつきをしていた。
このくらいの大きい動物なら、俺は一瞬で噛みちぎられていただろう。
腹に牙がズブリと突き刺さる。俺が少し避けたおかげで、多分内蔵には突き刺さらなかったんだろう。
「ぅぅあ゛あ゛あああああああぁぁぁぁぁぁ」
じんわりと襲ってくる痛みに、俺はじたばたと暴れるが、そのたびに牙が突き刺さって、痛みで過呼吸状態になる。
倉庫の中で、死んでもいいかなと一瞬でも思ってしまったことに悲しみを覚える。
こんなにも、怖くて痛くて辛い、でも、死を間近にしてしまうともっと生きたいと思った。
「ああああああああくそがぁぁぁぁぁああ」
普段使わないような汚い言葉が口から溢れる。生きたいという思いが心のなかで反芻し、怨みと怒りの篭った目をあいてにぶつける。笑っているかのような黒い奴の表情は俺をさらに苛立たせた。
俺はとりあえず、適当な思いで渾身の力で右足を蹴り上げた。その行動は吉だった。
蹴りあげた足は、黒い奴の睾丸にクリティカルヒットをし、ギャインと悶絶の声を上げた。
牙が俺の腹から離れた。俺はその場に立ち上がって、次は弄ばずに確実に俺を殺しにかかるであろう、その存在に向けて構えた。
黒いやつも痛みを我慢しているのか、よろよろっと立ち上がって、お互い睨み会う状態ができた。
そして変化が現れたのはその時だった。