第4話 魔剣術師2
レインが戻ってこない。
野営地の自分専用の天幕の中で、ニースが任務交代のために出ていったオルフェスからそれを聞いたのは、夜も更けた深夜近くだった。
オルフェスは筋骨隆々とした巨漢を、申し訳なさそうに小さくしている。
「まずいわね……」
魔剣術師は気配に敏感だ。だからこそ、追跡は一人にして着かず離れずを保っていた。
二人以上だとどうしても気配が散らばり、結果的に気付かれてしまう。
バラバラ殺人と同じようなものだ、一見見つかりにくそうだがその実、複数の部位が異なる場所に点在するために見つかる可能性が跳ね上がる。
「彼の居場所は?」
「はっ、街道沿いから少しそれた森の中で野営を行っているようです。ですが……」
オルフェスは困惑を隠しきれず、ニースを見つめる。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」
ニースはそんなオルフェスに、温度を感じさせない口調で告げる。
「ジン……という輩にレインが不覚を取るとはどうしても思えないのですが……」
なにせ空腹に耐えかねて噴水の水を飲むような男だ、とはさすがにオルフェスにも続けられなかった。
なぜならば、上官であるニースがジンという青年に執着していることは、よく理解している。
「魔剣術師を甘く見無い事よ。まず、彼らは自らを偽る。さも自分や役立たずであるかのように振る舞う。そうしているうちに油断しきった相手を、最小限の力で仕留める。それが彼らのやり方だと、言ったでしょう?」
忌々しそうにニースは吐き捨て、腰のあたりまで伸びた艶やかな赤い髪をかき上げた。
――豪奢な女、とでも言うべきなのか。
切れ長の双眸とつんと高い鼻。また、その唇も血潮のように赤く、ぷるんとしている。
一七〇cmほどの身長はスレンダーではあったが、二つの双丘のボリュームが簡素な上着を押し上げていた。
「なんにせよ、ジンに捕まったのなら早いところ助け出さないと……魔剣術師は敵と認識したものには容赦はしない」
オルフェスも魔剣術師の徹底的なやり口は良く知っていた。
彼らは暗部なのだ。
この大陸がまだ、マルクチア統一帝国と呼ばれていた頃に生まれた闇。
強さだけを求めた、ある魔剣士の執念が生み出した、人の範疇を大きく逸脱した存在。
魔人に敗れるまでは、大陸最強を誇った戦闘集団。あまりにも大きくなったその名は、民間伝承として表世界の人間にまで轟き、ある種の畏怖をもって語られていた。
それでも、危険な魔剣術師と、幼女に養われていたダメ男が繋がらない。
「切り替えなさい、オルフェス。彼は、少なくともレインとあなたが同時にかかったところで、傷一つ負わせることは出来ないわ。だから必要以上に近づかなくていい、と言ったのだけどね」
「わかりました、隊長。しかし、そんな凶悪な種類の人間ならば、まだレインは生きているのでしょうか?」
オルフェスから漂っていた戸惑いが抜け、代わりに軍人として引き締まった顔が出てくる。
「今はまだ生きているわ。ただ……私たちの情報を得ようと拷問にかけてはいるでしょうけどね……はっきり言って、レインはもう使い物にならくなっていると覚悟しておくべきね……」
オルフェスの力強い瞳が見開き、瞬時に怒りに染まる。
「冷静になりなさい、オルフェス。まだそうと決まったわけでもない。ジンの事だから……あの子は本当は優しい子だから、そんなことはしていないかもしれない」
ニースは自分で言ったことが半ば願望じみていることを自覚している。
オルフェスのために紡いだ言葉ではあったが、部下を死地へと追いやってしまった自責の念からの逃避でもあった。
そして――
「前から聞きたかったのですが、お知り合いなのですか?」
「ええ。私の――弟よ」
アズラエルによって作り変えられてしまった彼が、どうか姉と弟という関係になったころのままでいてほしいという、姉としての儚い祈りの言葉でもあった。
「さあ、オルフェス。全員に戦闘準備するよう伝えて。我らファフニール・ニール隊は現時点をもって同志レインの救出と魔剣術師ジンの制圧を開始する!」
その宣言から三分後、各々の魔剣を装備した五名の連盟騎士が出撃した。
☆
レインが目を覚ました時に、感じたことは股間の不快感だった。
ぐっしょりと濡れ、自らがやってしまった失態に絶望的な気持ちになる。
そんなはずはない、と手でまさぐり、しかしその湿った感触に現実を突きつけられる。
「気付いたか?」
と、そこで、レインは男の姿を視界に収め、そして瞬時に思い出した。
右耳に走る灼熱の痛み。
「ひあぁぁぁぁっ! み、みみ、あた、あたし、あたしのみみみぃぃぃ……っ!」
あの瞬間を思い出し、震える手で右耳を触る。
「あ……ああ……ああ? あ、ある? みみ、ある? い、いたく、いたくない?」
千切られ無理やり食わされたはずの右耳が、確かに存在した。
そして痛みも治まっている。健康体そのものだ。
「な、なんで……」
茫然とした面持ちでジンに問いかける。
「まあ、落ち着け」
ジンは微笑み、レインの頭に手を当てた。
「ひぃっ」
確かに、右耳を千切られたことを覚えている精神と体が反射的に身を竦める。
体の震えが止まらなくなり、呼吸が浅くなる。
ジンはそんなレインの頭を、やさしく撫でると、そのまま今度は左耳まで滑らせていく。
ちろちろとまるで愛撫をするかのように耳たぶを指先で撫で、恐怖に戦き震えているレインの瞳を覗き込んだ。
そしてにっこりと笑う。
その優しげな表情にレインは、耳を引きちぎられたことが間違いだったのではないのだろうか、と思い始める。
なぜならば、ちゃんと耳はあるし、物凄く優しい顔をしている。
理由はわからないが、自分は調子を崩して倒れていたのではなかろうか、心身に重大な障害が発生し、行き倒れたのではなかろうか。
そうであれば、お漏らししてしまっていることも説明がつく。
(そうだ、私はなんらかの原因で倒れ、ジンに介抱してもらっていたのだ)
左耳を撫でるジンの指は暖かい。血の通った、れっきとした人の指だ。
この優しい指が、あんな乱暴な事をするはずがない。
よく見ればジンは地味ながらも整った顔をしているようにも思える。
そんな人が、やさしく微笑みながらレインの瞳を覗き込んでいる。
左耳から伝わる彼の温もりが心地よく、なぜだが頬が赤く染まり、いつしか身体の震えはおさおまっていた。
レインを支配していた恐怖が急速に収まっていく。
(そういえば、ファフニールに入隊する前は優しい人と結婚して、可愛いお嫁さんになるのが夢だった……)
この世界の治安を守るための組織に所属した以上、自らの幸せを追うことは許されない。
剣に命をささげ、大陸の平和を守るためには性別など邪魔なだけなのだ。
厳密にはそこまで厳しい規則ではなかったが、魔人がもたらした混乱で極度に治安が乱れている現在、ファフニールの仕事は激務を極める。
広大な大陸全土の治安を守るには、いまだに人手が少ない。ある程度の成果を見せて信頼と名声が高まっているからこそ、手が抜けないような状況なのだ。
だから、レインは連盟騎士である以上は女としての幸せを捨てていた。
だが、ジンのこの慈しむかのような温もりは、体の芯をじんじんとしびれさせ、体が、精神が女であることを思い出していく。
「ジ、ジンさん……」
とろけ始めた思考の中で、レインがそう呟いた瞬間、
「ああ、やっぱり俺の名前を知ってたんだ」
それまでしびれるような心地よさを感じていた身体に、まるで冷や水を浴びせるかのような声色がレインの耳朶に響いた。
背筋があわ立ち、全身の産毛が逆立つ。
そして――
びりっ、とレインの頭の中に音が響き――灼熱の痛みが体中を蹂躙した。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁああぁぁっ!」
レインは左耳――が生えていた場所を抑える。
それまで感じていた温もりは、ただ激痛を伴う灼熱に支配され、彼女はのたうち回る。
ちょろちょろと流れ始めた二度目の失禁を自覚する間もなく――いつの間にかジンが握りしめていた短剣が、彼女の心臓を刺し貫いていた。
彼女がかすれ行く視界の中、ぼんやりと映ったジンは、ただただ微笑みを浮かべて彼女を見下ろしていた。
あの、左耳を愛撫していた時のような、やさしい微笑みを――