第2話 潮時
ジンは夜明けのうすぼんやりとしたまどろみの中で、ある光景を幻視していた。
眠りと目覚めの狭間にいつも見る――後悔。
今から五年前の第三次魔人討伐遠征の断片。
「遅かった……なにもかもが」
少し赤味かかって、くすんだような金髪の女が茫然と呟いた。
黒いボディスーツに胸と肘、膝を守るためのプロテクターをつけている。
彼女の周りには、いくつもの死体が転がっている。
むせ返るような血の匂いの中で、女はその悪夢と呼ぶべき光景を作り出した男を焦点の合わなくなった瞳で見つめていた。
――魔人アルフレッド。
一見すると、二十歳そこそこのどこにでもいるような男だった。
ひょろっと細長い体躯に、褐色の肌。
勝気な瞳を輝かせ、唇の端を釣り上げて笑っている。
その右腕には、血塗れた黒い刀身の剣をだらっと下げていた。
「お前、名は何だ?」
――それは、かつて見た光景。
強くなったと勘違いした自分が、弱さを突きつけられた瞬間の光景。
「アズラエル……」
女は呟くようにその名を告げ、はっと我に返ったように目を見開いた。
そして、
「私の名はアズラエル! キャニオンが第一席・グロリア・ハーレィ<栄光の血路を開くもの>の魔剣術師、アズラエル・マーリーン!」
自らを鼓舞するように声を張り上げる。
その瞬間、彼女の体中に力が漲り、死んでいた瞳がよみがえる。
けれど、ジンは知っていた。
この後、彼女の辿る結末。
何もかもが、遅すぎたのだ。
勝機を逃した以上、人は魔人には勝てない。それは凡そ人と呼べる範疇を大きく逸脱した魔剣術師でさえも。
いつも、その幻視の中でジンはあがく。
敬愛する彼女を助けようと。
けれどそれは過去。もうすでに起きてしまった事は覆すことができず。
ただ、茫然とアズラエルが魔人の黒き剣により二つに分かれる瞬間を見ることしかできない。
彼女が魔人ではなくジンに使ったグロリア・ハーレィの力の本流の中で。
自らの魔剣を開放する暇すら与えられず、ただ切り裂かれた彼女を見ることしかできない。
――遅かったのだ、なにもかもが。
理性を獲得した魔人に人は勝つことができない。
第一次魔人討伐遠征が失敗した瞬間に、人類の敗北は決定していたのだ。
その時に、魔剣術師が戦地投入されていたのならば、違ったのかもしれない。
魔人と遭遇し、あっという間に魔人討伐遠征に参加したキャニオンの魔剣術師は屠られた。
大陸最高峰の武力を持つ、魔剣術師たちがなす術もなく地に倒れていく。
その光景を、ジンは光の中から見つめていた。
仲間たちが絶命していく姿を、空間が断裂してすべての事象に干渉することができなくなった、安全圏から。
仲間たちが闘う姿を、見ていることしかできなかった。
――娘がね、いるのよ。
いつか、タウンリカリスに行くことがあったら、可愛がってあげてね。
私に似て素直ないい子だから、絶対ジンイチローも気に入ると思うわ。
ミズキちゃん、見つかるといいわね。
私たちの事情に巻き込んでしまって、ごめんなさい。
あなたはこれ以上付き合うことはないわ。
今更だけど、好きに生きて。
それが、魔人と遭遇し、戦闘に入る前の僅かな間に死を覚悟した彼女と最後に交わした言葉だった。
そして一方的な虐殺が始まり、彼女が二つに裂かれた瞬間、ジンの意識は途切れる。
グロリア・ハーレィの大魔剣術。空間転移により、ジンは魔人とは遠く離れた地に飛ばされたのだった。
それは、五年前の出来事。
それから、仁一郎はジンと名乗るようになる。
☆
幻視からの目覚めは常に頭痛に襲われる。
あれから5年もたつが、決してなれることはない。
ジンはタウンリカリスへと続く街道の脇で、寝ている間にすっかり消えてしまった火種を見てため息をついた。
バグとマールギアの一件から、すでに二日が経過している。
ジンは魔剣術を教えてくれとせがむマールギアから逃げるようにして、タウンリカリスを後にした。
長居しすぎたのだ。
敬愛する人の忘れ形見。
キャニオンの魔剣術師の全滅、という大敗北から五年。
思えばジンにとって安住の地はなかった。
どこへ行ってもあの時の悪夢を思い出し、眠れぬ日々が続く。
当然、仕事もおぼつかずに金を稼ぐことができない。
それは呪いのようなものだ、とジンは自嘲する。
あの日、一人だけ生き残ってしまったことに対する、仲間からの恨み。
アズラエルの魔剣術の恩恵に一人だけ預かったことに対する怒り。
ふとした拍子に聞こえてくる、キャニオンでの仲間たちの笑い声。
しかし、それがいつしか罵声へと変わるのだ。
なぜ、一人だけ生き延びた、と。
なぜ、お前だけ生きている、と。
なぜ、一緒に戦ってくれなかった、と。
ふとした拍子に、アズラエルとマールギアの仕草が重なる。
それを見ると、ジンはまるでアズラエルから責められているかのような心地になるのだ。
だが、それは贖罪だと思った。
マールギアのそばで生き、責められ続けるのが自分に課せられた罰だと思った。
それが心地よく、まるで安住の地を見つけたかのような気持ちになった。
だから、つい長居してしまったのだ。
――そして、マールギアは魔剣術師になることを願った。
☆
「ダメだ」
魔剣術を教えてくれ、というマールギアに対し思いのほか冷たい声が出たのを自覚した。
「何でよ!」
マールギアは信じられない、と言わんばかりに目を見開く。
「お前には才能がない」
適当な理由ではあった。
だが、魔剣術師になるには条件があるのもまた事実。嘘は言っていない。
「ふふん、そういえばまだ言ってなかったかしらね。私のママは――」
「アズラエル・マーリーンだろう?」
と、そこで唖然として固まっていたバグが再起動し、口を挟んだ。
「知っていたのか!?」
「ああ。彼女は俺の師だ。一目でわかったよ。よく似ている」
「じゃあ、いいじゃない! なんでダメなのよ!」
ジンはマールギアに冷たい眼差しを送る。
そしてもう一度「才能がない」と言った。
マールギアの瞳が吊り上がり、唇が震える。
ジンは、ああ、これは本気で怒る前兆だ、よく似ているな、と懐かしくなる。
マールギアはじっとジンを睨む。そんなところまでアズラエルにそっくりだった。
「というか、お前本当に魔剣術師なのか? 五年前の遠征で全滅したと聞いたが……」
その沈黙を破るようにバグが言った。
「唯一の生き残りだよ。死地から一人無傷で生還してしまった、クソ野郎さ」
言外に、逃げたと自嘲する。
バグは何かを察したのか、それ以上の言及を裂けるように黙りこくった。
その隙間に、言葉を滑らせるように、ジンは告げる。
「今日の内に出ていく。今まで世話になった。家賃の件は、その、本当にすまないと思っている。だが、今は本当に手持ちがないんだ。いつか必ず払うから、今は許してほしい」
そういって何か考え込んでいるバグの返事を待たずに、部屋の中に荷物をまとめる為に踵を返す。
「バカッ!」
少しくぐもった、湿った声の罵声が投げつけられたのだった。
それを背中で受け止めながら、ジンはふと部屋の外にバグとマールギア以外の気配があることに気づき、深々とため息をつき、
「潮時なんだよな、いろいろと」
力なくつぶやいたのだった。
次回は魔剣術師について説明したい。