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回想

作者: 竹白恵

回想


 ハンドルを切った瞬間、まずいな、とボクは思った。

 雨だった。

 どうやら水溜まりに足を取られたらしく、車体が右にすっ飛んでいくのを感じたボクは、ぐいっとハンドルを左に回した。――の直後、ボクはハンドルを回し過ぎたことに気がついたのだ。

 右。

 まずい。

 左。

 まずい。

 右。

 ぐしゃっ、――あっ、標識? これ以上ハンドル回すのはやばゴガガガガ、グワッシャンッ!

 ――だ。

 事故の瞬間に車のどこに何が当たってどうなったのかなんて、判るわけがないじゃないか? とボクは今でも思う。

 一瞬きょとんとしたあと、しかしやや混乱したまま、アクセルを踏んだらこのままなんとか持ち直すんじゃないか? あっ全然駄目だ。ふむん、どうやら事故を起こしたらしい。というのをようやく実感したボクは、自分の身体が車ごと九十度真横になっているのに気がついた。

 ボクは車のエンジンを切る。

 ?

 切れない。

 ああ、ボクが真横になっているから、鍵を回すのにいつもよりも九十度多めに回さないといけないのか。人間の平衡感覚って不思議だ。

 ボクはエンジンを切った。

 事故となれば、警察と保険屋さんに電話しなくては。とボクは携帯を探す。

 どうしてそんなとっさに冷静に警察のことが出てきたかというと、実を言えば事故に遭うのは初めてではないからだ。というのは内緒だ。

 まさか雪の日に縁石にタイヤが乗り上げて大騒ぎして保険屋さんにレッカーを呼んでもらおうとしたものの、保険屋さんもレッカー業者も忙しくて、結局警察の人たちに人力で車を押してもらって、保険を使わずに自力で脱出した、なんていう恥ずかしい出来事は口が裂けても言えない。

 ちなみに雪で自分が事故に遭う日というのはたいてい他人も事故を起こしているから、保険屋さんに連絡してもたっぷり十分くらいは「順番に対応しますので」うんたらかんたらという自動音声を聞いていなくてはならないが――。


 ……いや、それは今はどうでもいい。

 携帯が見当たらない。

 それもそのはず、助手席に置いておいたはずの鞄はボクの右側の割れた窓の上に落っこちているし、どうもボクの短い腕では鞄に手が届かない。

 ボクはシートベルトを外す。

 身体が重力で引っ張られているせいで、シートベルトが外しにくい、というのは大発見だ。

「誰かいますかあ」

 これはボクの声ではない。

「誰かいる?」

「はい、はい、います、います」

 ボクは返事をした。

「あ、人いる!」

 近所の奥さんがフロントガラス越しに見えた。

 その後ろには黒っぽい青年。

「大丈夫ー? 出られる?」

「ええっと」

 出ようにも、車は横転しているから、ドアは下と上だ。

 ボクはとっさに下を見て出られないかと考えてみるが、ドアはたぶん開かないし、割れた窓の隙間から脱出するのもどうやら無理だった。

「鍵は開いてますか」

「あ、はい開いてます」

 いつもドアの鍵を掛けずに運転しているボクは反射的にそう答えたが、しかしそういえば先ほどエンジンを切るときにがチャリと鍵の音がしたような気がしないでもない。

 案の定、ドアを開けようとするが開かずに、青年は不思議そうな顔になった。

 ボクは鍵を開けてドアを開ける。――というか、上げる。

 ロボットアニメに出てくるパイロットがハッチから脱出するときにはきっとこんな感じなんだろうとボクは思ったが、ドアは今にも倒れて来そうだし、足場は悪いし、こんなところから出るのは少々……いやかなり不安になる。

「あー、……危ないので、閉めていいですか」

 ボクは申し訳なくもそう言った。

「台か何かあったほうがいいかしら」

「脚立持って来る」

 奥さんと青年が親切にもそう言って探しに行ってくれるが、車の中に台を設置するのは難しいような気もする。

 ふとボクは後ろの黒い窓が盛大に割れていることに気が付く。

 そういえばぶつかった覚えがないのに、フロントガラスにも大きな罅が入っているが、どうしてなのだろう? 不思議だ。

 ――いやまあ、それはひとまず後回しにして、ボクは一人きりになったので、携帯電話を探す作業に戻る。

 一一〇番に電話。

『はい警察署です。事件ですか、事故ですか』

 お決まりの受付に、ボクはすぐさま「事故です」と返事をする。

『救急車は必要ですか』とか、『車は通行の妨げにならない安全な場所にありますか』だとか、『事故の状況は』うんぬんかんぬん。

 聞かれた通りに事故の報告をしていると、奥さんと青年が傘と脚立を持って戻ってきて、「あ、電話中みたいねえ」と話し合っているのが耳に入ってくる。

『車から出ることはできますか?』

「ええっと」

 ボクは思わず青年と脚立と自分の上に塞がっているドアを見て、やはり難しそうだな、と一瞬で思い、きょろきょろと見回して、後ろに目を向ける。

 ボクは小柄だから、窓から出られる気がした。

「はい、出られます」

 言いつつ、出た。

 あっさりだ。

「あ、出られた? 良かった良かった」

 奥さんがそう言って喜んでくれるが、ボクは電話の受け答えで必死なので返事ができず、やや申し訳なく思う。

『その場所の住所は分かりますか』

「ええっと」

『目印になる建物などはありますか』

「近くに交番があります。ダムの近くで、小学校を過ぎたあたりの――」

 住所の話をしているのに気がついた奥さんが親切にひそひそと住所を耳打ちしてくれる。

『看板に住所が記載されていませんか、読み上げてください』

 ……のだが、警察の声とかぶって混乱する。

 ボクは警察の声を遮って言う。

「ちょっと待ってください。今、近所の方がいらしてるので、近所の方に代わって住所を言ってもらっていいですか」

 奥さんに電話を渡し、住所を言ってもらう。

『では今から三十分くらいでそちらへ向かいますので、安全な場所で待っていてください』

 電話を返してもらうと、そう言われて通話が終了した。

 交番が目と鼻の先にあるのに、別の場所から応援に来るらしい。

「濡れちゃうから傘差して?」

「あ、大丈夫です、持ってます、ありがとうございます、大丈夫です」

 奥さんが傘を渡してくれようとするので、ボクは慌てて鞄から折り畳み傘を取り出した。

 傘にタグが付いたままなのは、買ったばかりで一度も使ったことがなかったからだ。おニューの傘をこんな場面で使う羽目になるとは不本意だ、とボクは心が沈んだ。

「でも、怪我がなくて良かったわねえ」

 奥さんがそう言う。

 その通り。実を言えばボクは無傷だ。

 車はフロントガラスに罅が入り、何故だか天井がへこんでいるし、エンジンルームの金属もめくれあがり、サイドはミラーが二つともへし折れ、バックは何故だかガラスが二、三メートル後ろに吹っ飛ばされてひしゃげているし、バックライトも壊れて懐中電灯の中身みたいなやつがぶらんとぶら下がっているし……で満身創痍なのだが。

「はい」

 ボクは言った。

 奥さんの名前を聞いておいて、しっかりお礼をすべきだったなあ、と今でも思うが、後の祭だ。


 この後は、ボクが保険屋さんに電話しているうちに警察が来て、事情聴取のようなものがあって、なんだかぞろぞろと警察の人が集まってきて、保険屋さんの手配したレッカーが五十分後くらいに到着して、なんでこんなに警察が来たんだろうと思ってたら実は交通誘導のためで、レッカーにがりがりとボクの車が引き摺られていくのを「痛てて」と内心ひやひやしつつ見つめて、その後、年金生活を送っている戦中生まれの父に年甲斐もなく頼って迎えに来てもらい、四時間かけて何も得るものもなく消沈しつつ、家へと帰った。

 ちなみに、警察の人の見解とボクの記憶を合わせて分析すると、「ぐしゃっ」で右の前輪で標識を踏み倒し、「ゴガガガガ」で左サイドのドアを民家の石垣を擦りつつ段々車体が浮いてきて、「グワッシャンッ!」で転倒、だ。

 ボクは自損事故では車の修理費が出ない保険に入っていたから、車屋さんから「修理に百万かかるから廃車か乗り換えにしたほうがいい」と言われた。

 この車は中古で、五十万円で買ったものだったから、ああ、ボクの愛車は五十万円の鉄塊になってしまったんだなあと思った。

 よく無傷だったな、とボクは思う。

 人生って、何が起こるか分からないものだ。

 一週間後の今、ボクは歯医者に来ていて、虫歯が思いのほかひどくて、「神経まで到達してたら」どうのこうので麻酔をかけてもらうことになり――。

「チクッとしますよー」

 先生にそう言われた。

 実際、結構痛かったとおもう。

 針が歯茎にぶずりと刺さった瞬間、心臓がバクバクと跳ね上がり、あ、これは危険だ。と思ったのも束の間、ボクはそのままポックリと還らぬ人になってしまったから。

 まあ、仕方がない。

 ――以上がボクの回想だ。


(完)

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