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第二の錯覚

作者:

空が見える。

茫洋とした草原の上には、同じく茫洋とした空が広がっている。

吸い込まれそうな青に魅せられて、僕はただ上を見上げ、東西の区別、ともすると左右の区別さえつかない草原を歩いていた。


どこから来てどこへ行くのか。


確かに始まりはあったはずで、確かに目的はあったはずだ。

けれど僕は今、そよぐ草木を踏みしめ、前に向かうということに集中していて、あったはずのものに思いを巡らせようなどとは、微塵も思っていなかった。


先へ先へ。

指標のない世界で、ここに時間があり空間があり、僕がいるということ確かめるすべは、僕自身が動くことしかなかったので、その過程という目的のために、ただひたすら歩き続けていた。




そう、指標がない。標がない。



ただ茫洋として、普遍的で、途方もなく。

そして僕は独りだった。




はるかかなたの地平を見るよりは一点の曇りもない空を見上げる方が、幾ばくか焦燥感が薄れるような気がして、僕は上を見上げて歩いていた。




「あ」




だから足下に柔らかい感触を覚えるまで、そこに人がいたことに気が付かなかった。



自分の声を聞いたのは久々で、「ああ僕はこんな声だったかな」と薄ぼんやり考えた後に、ようやっと自分が何をしたのかということに思い至る。



「あいたたた」


草原にぺったりと腰を下ろしたその人は、投げ出した足をさすりながら僕を見上げこう言った。



「よかった、壊れなくて」


何が? 足が? と一瞬思ったけれども、彼の見つめる先は別だった。


その人の手の中には、10センチ四方程度の小さな箱があった。

白く細長い指の狭間から覗くその黒い箱は、玉虫色の光沢を放って鈍く光っている。


時折きらりと瞬くような光を放つ度、僅かだが空気が震えるような気配がした。



なんだろう、と気にはなったがそれよりも僕は、久しぶりに見る自分以外の他人に驚いてしまい、魚のように口を開いたり閉じたりするしかなかった。


しばしの間が辺りを満たす。

独りでは決して感じることのない空気だった。


いち、に、さん。


「あなたは」

「驚いたな、僕の世界に辿りつくなんて」



やっとのことで絞り出した言葉は、無下にも遮られる。

カラカラと嬉しそうに笑う声は男とも女ともつかない不思議な声で、耳の奥で共鳴するように僕の頭を刺激した。

鈴虫みたいだ。どこで鳴いているのかわからない。


屈託なく笑う様子は、精悍な顔つきを幾らか年若く見せ、親近感を抱かせたが、同時にどこか、得体の知れなさも覚えさせた。




ひとしきり笑い終えると、その青年は手に持っていた黒い箱をそっと地べたに置き、ひょいひょいと手招きして、僕にその箱を覗くよう促した。

言われるままに覗きこんだ箱は、ただの箱ではなかった。

それは思いの外深く、地をゆうに突き抜けて、数100メートル下の景色を浮かび上がらせていたのだ。


不思議な感覚だった。


そこに広がるのは、人や馬が次々と切り殺される風景。

いつか映画で見た、中世ヨーロッパの戦争のようだった。

まるで箱庭のようなその様子は、おおよそ現実感の乏しいものだったが、時折漏れ聞こえる雄たけびと舞い上がる血しぶきは、確かに現実のものであるように見える。



「これは?」


「世界だよ。人の世界」



事態がよく呑み込めていない僕に、青年は柔らかく微笑んで答えた。



「ほら」


これを、そう言うと、彼は一輪の小さな花を差し出し、僕の手を取ってそれを握らせた。

白く小さな、名前も知らない花。

思わず受け取ってしまい戸惑う僕を尻目に、彼は花を手に取ると、地に置かれた箱の前にそっとそれを添えた。まるで献花のように。

そうして、僕にもそうするよう、無言で促した。


僕がためらっていると、

「ほら」

とやや急かすような、それでいて穏やかな声が繰り返された。


それでもなかなか僕の身体は動かない。動こうとしない。

心は落ち着きなく、揺らぎ、ざわつき、まるで冷たくてどろりとした液体が、心臓に満ちているようだった。



「どうして? さよならをしてあげようよ」


彼は、きっと青ざめているであろう僕を見て、訝しげに小首をかしげた。



僕は気が付いていた。



黒い小箱は一つではなく、見渡す限り、草原を埋め尽くように置かれていることに。

最初からそうだったのか、いつからそうだったのか、皆目思い出せなかったが、この広い草原をさまよう間、たくさんの小箱を踏み潰していたのではないだろうかという罪悪感だけが、やたら鮮明にあった。



「さあ、ちゃんと、さよならをしてあげよう」


何に? 小箱に? 彼の言葉を借りるならば世界に? 

それとも、この罪悪感に?


「僕はもうたくさん、たくさん、さよならをしたよ。

でも誰かと一緒にさよならができるのは初めてだ。ねえ、君は?」



伸ばされた彼の腕は力強く、有無を言わせぬ力で僕の手首を掴み、地に花を置かせた。



満足げな彼とは裏腹に僕の心は枯渇していた。

心臓を満たしていた冷たい水は跡形もなく消え失せ、空っぽになった器を響かせるものは何もなかった。不安は消えていた。



世界に手向けた花は、そこにあるべきものであって、それが正しい形であると、僕は確信した。


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