最後の転機
あれだけ良い天気だったのに、昼ごろから降り出した雨は夕方になっても衰えを見せなかった。ロッカーの奥に眠っていた折り畳みの傘をさして校門を出ると、歩きながら携帯の新着メールをチェックする。液晶に表示された文字が一件のメールの存在を教えてくれた。
「夕貴か……」
夕貴らしく顔文字と絵文字がふんだんに盛り込まれた内容で、要約すると友達と遊んでくるから帰りは遅くなるというメールだった。
了解、と短くそれだけを返して携帯を閉じる。傘の中から空を仰ぐと、重たい灰色の雲がどんよりと天を覆っていた。
今日は月、見えないだろうな。
寂しそうに微笑むオッサンの顔が脳裏にちらつく。
そういえば、オッサン仕事きちんとこなしてるのか? そもそも、本当に仕事は決まっていたんだろうか。
夕貴ほどではないが今更ながらに心配になって、様子を見に行こうといつもとは違う帰り道を選んだ。
思えばそれが、最後の転機だったのかもしれない。
「……オイ」
それ(・・)を見た途端、思わず声が低くなった。
「や、やあ幸貴くん……」
気まずそうに地面に敷かれたダンボールの上で体育座りをするオッサンを見て、俺の米神がひくりと引き攣る。呻くような声をあげると、オッサンがとりなすように乾いた笑いを浮かべた。
いつもとは違う帰り道でたまたま通った、家の近くの空き地。遠目からぽつんと黒い影が見えた時はまさかと思ったが、そのまさかだと一体どこの誰が思うだろう。本当に、有り得ない確立だ。別れたのは今朝のことなのに。
きっと夕貴が三日前に見た光景と同じなんだろう。空き地に足を踏み入れると、剥き出しの地面から濃い土の匂いがする。足もとからのべちゃりという音に、帰ったら靴の汚れを落とさないといけないとそんなことを考えた。
「……なにしてんだよ。仕事は?」
座り込んだままのオッサンの目の前で仁王立ちをしてみせると、元はデカイ体をさらに縮こませて気落ちした声で言う。
「色々と失敗をしでかして……クビに……」
その「色々」の部分が気になったが、肩を落として項垂れたオッサンに根掘り葉掘り聞こうとは思えなかった。代わりに盛大に溜息を吐きだすと、オッサンは俺を窺うように見上げていた黒い瞳を下に向けてしまう。しゅんと肩を落としたオッサンはとても四十近い成人男性には見えず、例えるなら主人に叱られた大型犬の姿に似ていた。
「スーツ、どうしたんだよ?」
オッサンが着ているのは今朝の灰色のお下がりのスーツではなく、初日に見た黒いだぼっとした服だ。どれだけそこにいたのかは分らないが、オッサンの髪も服も水を吸いすぎて垂れ下がり、ぽたぽたとダンボールの上に滴を零している。
「あれが濡れるのは夕貴くんたちにすごく悪いような気がして、カバンの中に入れたよ。ずっと抱えてたからカバンも濡れてないだろうし、大丈夫!」
朗らかに笑った顔に、少しだけ言葉に詰まった。呆れと、くすぐったいような、よくわからない感情が胸の中に広がる。着ていた上着を脱ぐと、にこにこと笑ったままのオッサンの顔目がけて乱暴に投げつけた。
「幸貴くん?」
「あんた、ホントにダメなオッサンだな」
「……そうだね」
「否定しないのかよ?」
うん、と苦く笑った男は放り投げた俺の上着を両手でそっと掴んで、俺に向けて差し出してくる。
「ほら、濡れちゃうよ。ちゃんと上着を着ないと、雨に濡れて風邪を引くだろう」
無言のまま上着を差し出してくる手を拒絶すると、オッサンは困ったような顔で笑った。
「きっと夕貴くんも幸貴くんの帰りを待っているだろうし、私に構うことなんてないからお家にお帰り」
その笑みが、なんだか無性にむかついた。
「オッサンが濡れる方が困る」
「どうして?」
「夕貴に怒られんの、俺じゃんか」
「?」
心底わからない、といったように首を傾げるオッサンの姿に、これだから天然は嫌なんだと腹の中で悪態をついた。鈍い奴には、はっきり言わないと伝わらないらしい。
「また拾ってやるよ、今度は俺が」
傘を傾けて言ってやると、きょとんとした黒い目が俺を見上げた。