灰色スーツ
あれ、と夕貴が不思議そうな顔で首を傾げた。
「なに、いまごろ起きてきたの?」
「ああ、昨夜はなんか眠れなくって」
ふうん、とどうでもよさそうに夕貴は相槌を打つ。俺が大きな欠伸をしながらテーブルの席に着くと、夕貴は膝に広げていた雑誌を脇に置いてソファから立ち上がった。
「もう昼食の時間もとっくに過ぎてるし、夕飯早めにするから軽くでいい?」
冷蔵庫の中を漁ってるのか、ごそごそと物音を立てながら夕貴が言う。俺はうん、と返事をしながら携帯に目を落とした。液晶に映る数字は、丁度おやつ時を指している。
寝過ぎたな、とぼんやりする頭で考えているとまた欠伸が零れた。
「そういえばさ、さっき父さんから連絡あったよ」
「……なんて?」
意外な名前に、頭がすっと冷えた。キッチンの方を見ると、夕貴はとんとんとん、とリズムよく包丁を動かしながら淡々と答える。自分の手元を見つめている夕貴の顔は、どこか冷たい色だった。
「いつも通り。僕たちは仲良くやっているかってのと、今月分の振り込みは済んだってこと」
「それだけ?」
とん、と包丁の音が一瞬途切れた。
「父さん、結婚するってさ」
「……そう」
「おめでとう、ってだけ言っておいた。式に参加してほしいって言われたけど、断っておいたよ」
うん、と相槌を打ちながら俺は引き出しの上に飾られた写真をじっと見つめた。どこにでも有り触れた、家族写真。にこやかに笑う母親と、その腕に抱かれた幼い俺たち、そして父親。
「そろそろ母さんに顔だししなくちゃいけないな、夕貴」
「もうそんな時期なの? 早いね」
「前に顔だししたの、半年ぐらい前か? 汚れてんだろうなあ」
「そういえば、台風どうだったのかな。墓石倒れてないといいけど……」
お互いにいつも通りの会話を続けながら、俺たちは何もなかったフリをした。家族写真は、もう何年も前に偽りの物になった。母さんが事故で死んでから俺たち家族の崩壊は呆気なくて、静かに微笑みを浮かべた母さんが俺たちの中心だったことを痛いぐらいに知った。けれどそれを知ったところで、太陽はもう昇らない。
「はい、余り物でチャーハン作ってみた」
目の前に置かれた皿からほかほかと温かそうな湯気が上る。美味しそうな匂いに背中を押されて、渡されたスプーンで早速口に放り込んだ。
「うま」
「でしょ」
その勢いのままがつがつと食べ進めると、向かいに座った夕貴がにこにこと嬉しそうに笑う。それがなんだか照れ臭くて、俺は話題を捻り出した。
「そういや、オッサンは?」
きょとん、と夕貴の目が瞬く。
「オッサン? ユキ、そんな風におじさんのこと呼んでたっけ?」
「……悪いのかよ」
むっと唇を歪めると、夕貴は首を横に振った後でなにやら納得したように頷いた。
「なんかあったんだ、昨日。だからおじさんもユキのこと気にしてたわけか」
ぎくりと肩を張らせると、夕貴はにやにや口の端に笑みを上らせる。どこか上機嫌そうな夕貴に、そうなった経緯を教えられる訳がない。黙り込むと、夕貴はあっさりと手を引っ込めた。
「ま、なんでもいいけどね。おじさんは朝から職探しだよ」
「へえ……」
自分から話を振っておいてなんだが、大方そんなところだろうとは思っていた。予定通りなら、オッサンは明日出ていくことになっている。大して興味もなく頷くと、夕貴は目敏く俺のスプーンが止まっていることを注意した。
「夕貴はどこも出かけないのか?」
「買い物は昨日の内に済ませてあるし、今日は一日家にいるよ。どうせ明日から学校だしね」
夕貴は肩を竦めて憂鬱そうに言った。誰でも週の初めは憂鬱なものだ。夕貴だけじゃなくそれは俺も同じことで、口からついて出そうになった溜息をチャーハンの最後の一口で塞いだ。
「ごちそうさま」
うん、と頷きながら夕貴はぼうっとした顔で何もなくなった皿を手に取る。
「明日で、最後か……」
返事はしなかった。
翌日は良い天気だった。からっと晴れた青空に白い雲がいかにも白々しい。ただでさえ憂鬱な気分がまた一段と重くなった。
「おじさん、本当に仕事決まったんだよね?」
不安そうな言葉は、今朝だけで三度目だ。その後に返されるのはお決まりの言葉で、呆れもせずにオッサンはのんびりと言う。
「うん。此処の近くのうどん屋さんで、住み込みのお仕事だよ。ちゃんと決まったから、夕貴くんもそんなに心配そうにしないで」
「でも……」
心配になるのはわからなくもない。けれど、夕貴は純粋に心配をしているというよりもただオッサンをこの家に引き留めていたいようにしか見えなかった。一体なにを思って夕貴がオッサンを引きとめたがっているのか、それが俺にはわかる。
「夕貴、もういいだろ。住む家も仕事も決まった人間を引き留めるような真似するなよ、みっともない」
「ユキ、でも」
「さっきからそればっか。でもでもうるさい」
夕貴の反論をぴしゃりと撥ね退けると、俯く夕貴の腕を掴んで玄関に向かう。オッサンが戸惑った顔でその後ろをついてきているのを確認すると、夕貴にしか聞こえないぐらいの声音で囁いた。
「夕貴。オッサンはオッサンだろ。一緒にいたのは、たった三日間だ」
「……僕だって、わかってる」
「なら、いいんだ」
玄関で立ち止まって革靴に足を突っ込むと、俺はオッサンを振り返った。
オッサンは昨日と同じ灰色のスーツに身をやつしている。それは父親の部屋に残されていた物で、結構昔のものだから型が古い。それを今でも着られるのは、夕貴が密かに手入れをしてきたからだと知っている。オッサンが左手に提げているカバンもそうだ。だから余計、夕貴はオッサンを引き留めてしまう。所詮、下らない感傷だ。
「一緒に行くんだよな?」
「うん、そのつもりだよ。三日間、本当にお世話になったね。衣服代とか食事代とか、給金が手に入ったらお礼と一緒に返しにくるよ」
僅かに申し訳なさそうな色を浮かばせてオッサンが微笑む。歳の割に老けていない顔は、それでも年相応の落ち着きがあって俺たちに優しく向けられている。
肘で夕貴を突くと、ようやく顔をあげてぎこちなく笑った。
「いいよ、お礼とか。服って言ったって、開けてなかった物とかお下がりとかだけだし、食事だって少し量を多くしただけだし……。そんなことよりも、いつでもいいから遊びにきてくれた方が僕は嬉しいな」
「俺も同感」
本音を言うなら貰える物はいつでも貰いたかったが、そんなことを正直に言っては夕貴に睨まれてしまう。懸命にも短く言葉を締めくくると、オッサンの顔が嬉しそうにほころんだ。
「そっか。じゃあ、今度はお土産を持ってまた遊びにくるよ」
「じゃあ、そろそろ時間だし行くぞ」
放っておくと、いつまでも会話を続けていそうだ。丁寧に現在時刻を教えてやると、夕貴が慌て出した。
「ち、遅刻する!」
ばたばたと玄関から飛び出すと鍵を閉める。そのまま階を下りてマンションのポーチを抜けると、オッサンが別れの言葉を切り出した。
「それじゃあ、元気でね。夕貴くん、幸貴くん、本当にありがとう」
「おじさんも元気でね」
「頑張れよ」
軽く手を上げると、オッサンはにこやかな微笑みを一つ残して去って行った。オッサンの背丈には少し短い、動きに合わせてひらひらと揺れる灰色の裾をなんとなく見送ると、俺は夕貴の腕を掴んで学校に向けて走り出した。




