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お月さま



 全員入浴を済ませて寝る段になると、男には客間の寝室を与えることになった。リビングから最も遠いその部屋は、夕貴の向かいにある俺の部屋の隣に位置し、何かをするにしても俺と夕貴の部屋の前を通らなくてはいけないのですぐに分かる。


 一応、リビングに置いていた通帳と印鑑は俺の部屋に移動しておいたが、それだけで安心出来るかといえばそうではない。


 眠ったと見せる為に電気を消した暗い部屋にいると、塞がれた視界のお陰で聴覚が鋭さを増す。窓には分厚いカーテンをかけていたが、鋭くなった聴覚は風の唸るような音と雨が激しく打つ音を捉えていた。しかし、外の賑やかさに比べて家の中は静かだ。空気の動く気配も、人の息遣いも聞こえてはこない。


 やることもなく、ただベッドに横たわり耳を澄ましているだけの状態がもう何時間も続いていた。それでも眠気が襲ってこないのは、他人が同じ空間にいると眠りが浅くなる俺の性質と、強い警戒心故だろう。端から眠る気がないので、眠気もどこかに飛んでいた。


 もぞりと寝返りを打ち、枕元に置いていた携帯のディスプレイを開くと明るい液晶に日付と時刻が浮かび上がる。日付もとうに変わり、三時を回っていた。


 耳を澄ませると、気を張る内に台風は過ぎたのかあれほど唸っていた風の音はもう聞こえなかった。


 眠らなくても平気という訳ではないので、今日が休みでよかったと溜息を吐きだしていると僅かに家の空気が揺れたような気がした。すぐに客間と俺の部屋を遮っている壁に視線を飛ばし、耳をそっと澄ませると静かに扉を開閉する音が聞こえる。


 動いたな。


 不規則に跳ねる鼓動を落ちつけながら男の立てる僅かな音に集中していると、足音はゆっくりと此方に向かってくる。トイレはリビングとは逆の方向にあるので、用事があるのは俺か夕貴か、リビングだ。


 足音を極力立てないように気を遣っているのだろう。掻き消えそうになる音を取りこぼさないように神経を使っていると、僅かなその音は俺と夕貴の部屋を通り過ぎていった。


 これだから、他人なんて信用ならないんだ。


 苦々しく舌打ちをすると、ベッドの上から上半身を起こした。すぐには行動に移さないで、決定的なところを押さえる為にベッドの上で待つ。


 時間にすると一分か二分、もしくはそれに満たないぐらいの時間だったが、その僅かな時間が嫌に長かった。夕貴の悲しそうな顔がちらちらと脳裏に過り、その度に胸の中が男への強烈な怒りで膨れていく。

夕貴の行動が軽率なのは確かだが、それでも夕貴が示した親愛の情と信頼を柔和な笑みで受け止めて置いて、こうも簡単に裏切ることが許せなかった。常識人ぶった言動も、夕貴と俺に語った身の上話もきっと全てが虚構だったのだ。


 可哀そうな兄貴。事実がもし夕貴に優しくないものだったら、そんな事で傷つかないようにしてやらないと。


 そうなることを殆ど確信しながら、俺はようやく立ち上がった。


 足音を立てないように気を配り、そっとリビングの扉を開ける。すりガラス越しの様子では明かりは点けられていないようだったが、暗がりに僅かに点けられた淡い光をフローリングの床が鈍く反射していた。


「?」


 しかし場所がおかしい。


 貴重品を置いておく奥のリビングではなく、明かりが点けられているのはキッチンだ。そんな場所に一体なんの用だ?


 訝しみながら覗いてみると、そこにはやはり男が立っていた。


 しかしこそこそと何かをしている訳ではなく、ただぼうっとした様子でリビングを眺めている。淡い明かりの原因はキッチンの電灯によるものらしく、夜闇に溶け込みそうな男の姿を浮かび上がらせていた。


 何をしにきたのか、それともし終わったのか。それがわからず観察をしていたが、いつまで経っても男の様子に変化は無かった。このままでは埒が明かない。そう思って、俺は窺うだけだったキッチンに踏み込んだ。


「なにしてたんだ?」


 声をかけると、驚いたように振り返った男の目が大きく見開かれた。幸貴くん、と名前を呼ばれて眉を寄せる。


「夕貴に見えるか?」


 全体的に見れば双子らしく俺と夕貴は似ているが、パーツを比べていくと差は大きい。目の形の違いもその一つだし、背丈も夕貴の方が一センチ高い。髪形も違うし、雰囲気も大きく違うので俺たちを見間違える人間はそういない。


 しかし、男がそういう意味で俺の名前を呼んだ訳ではないのはわかっていた。予想通り、男が苦笑をこぼす。


「いや、夕貴くんには見えないね。私はただ、水をもらいに来たんだ」


 ほら、と翳された片手には飲み残しの水が残っているグラスが握られている。


「喉が渇いてさっき起きてしまってね。寝ている君たちをたったそれだけで起こすには忍びなくて、こうして拝借してしまったんだけど悪かったかな?」


 困ったような顔で首を傾げ、男は俺を見つめる。その表情に潜む嘘を見つけようと俺も目を凝らしたが、明りに照らされた男の顔にそれらしき色は見つけられない。


 疑問と、胸の中で燻る怒りに突き動かされ俺は唇だけを持ち上げて笑みを形作る。


「いいや。誰かにお伺いをたてなくても水を自由に飲む権利ぐらい、あんたにだってあるさ」


 肩をすくめると男は良かった、と笑った。


「幸貴くんは、なにをしに来たんだい?」

「あんたと一緒。なんか喉が渇いてね。俺にも一杯もらえる?」


 喉に渇きを覚えてはいなかったが、そう頼むと男は嫌な顔一つせずに水を注いだ新しいグラスを手渡してきた。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 その言葉を最後に、ふつりと会話が途切れる。男の視線は自然と俺から反れ、再びリビングに向った。まるでそこに価値のある何かがあるような、そんな目をして虚空を見つめている。


 なにがあるんだ?


 水を口に含み、嚥下しながら男の視線の先を注意深く観察した。リビングの輪郭だけが、カーテンの隙間から射しこむ青白い月明かりにぼんやり浮かび上がっている。男の視線はそれを眺めているようで、少し違った。


「月を見たい?」

「え?」


 グラスを唇から離すと、端に付いた滴を指先で拭いながら男を見上げる。驚いたような顔で振り返った男は、俺と目が合うと力なく笑った。


「うん、月が見たい」


 気まぐれだった。男の黒い目があまりに寂しそうだったから、怒りを忘れてその理由を知りたくなった。腕を掴んで引っ張ると、男は無言でついてくる。


 ベランダに出ると、過ぎ去った台風が残していった雨の匂いがした。土臭い、どこか懐かしい匂いだ。頬を撫でる風は少し前までの大騒ぎで力を使い果たしたようで、夜闇に沈む街は穏やかな夜を取り戻していた。


 ふいに、横に並んだ男の唇からため息が零れ落ちた。切なげな黒い目は一心に雲間から覗く欠けた月を見上げている。


「月、好きなんだな」


 愛おしいものを見るような奇妙な熱をはらんだ視線に、思わずそんなことを口にしていた。男は瞳に月を住まわせたまま答える。


「……どうだろう。私にとって月は、単に居場所であり目印だったから」


 月が居場所で、目印。また不可解なことを聞いた気がして、無言で眉を寄せると男はそのままぽつぽつと独り言のように言葉を繋いでいった。


「昨日もね、あの空き地から月を見上げていたんだ。此処から遠く離れているのに眩しく輝いていたよ。寂しそうに、たった一人で」

「……あんたは、」

「うん?」


 男が初めて振り返った。月影に照らされた横顔が淡く微笑んでいるのが見えて、言葉が詰まった。優しげで、どこか寂そうな黒の瞳が無言で胸に凝っていた俺の怒りを融かしていく。


「帰りたい?」

「うん」


 微笑んだままの顔で、男は頷いた。その短い相槌の言葉に全てが籠められていて、俺は溜息と一緒に怒りの残滓を吐きだした。これでは、とんだ無駄足じゃないか。


 夕貴は全てわかっていたのだろうか。男の胸の中には郷愁しかないことも。その感情が薄いものじゃないことも。わかっていて、男を孤独から拾い上げたのだろうか。


 その答えは、本人のみが知っているのだろう。


 けれど。


 暗いリビングのさらに奥、自分の部屋で眠りについているだろう夕貴を想像して苦笑した。夕貴が天然だけで生きていないことを、俺は知っている。


 ああ、と思いだしたように男が声をあげた。のんびりした口調でまた言葉を紡いでいく。


「月が、きれいだねえ」


 沁みるような深い声音が、ゆっくりと夜闇に響いた。



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