不審者発見
玄関の隅に申し訳なさそうに置かれた段ボールを見た時から、なんとなく嫌な予感はしていた。
脱いで揃えた革靴を片手にぶら下げたまま、みかんのイラストが描かれた段ボールを見る目がつい険しくなる。
「……あンの馬鹿、またなにか拾ってきたな」
俺の双子の兄、夕貴には拾い癖がある。
良くも悪くも天然な奴で、いくら自分とは関係がなくても、捨て猫だとかそういう可哀そうな物を見るとつい放っておけなくなってしまうらしい。そんな性分な癖に、自分一人ではまともに面倒を見ることも出来ない。結局は俺が世話をすることになって、当の夕貴は俺の隣でにこにこと嬉しそうにそれを眺めているだけだ。
「もう何も拾ってこない」と何年も前に約束したのに、夕貴は都合良く忘れてしまう。それが故意なのか、天然だからなのかは弟といえど未だにわからないままだ。
溜息を胸の中に落とすと、革靴を置いて立ち上がる。そのまま廊下を進んで、すりガラス越しに明るい光が零れるリビングの扉を開けた。
「あ、おかえり。ユキ」
音で気づいたのか、ひょこりとキッチンからエプロンを付けた夕貴が顔を出した。それに合わせて、額の生え際でちょこんと結われた黒髪が揺れる。釣り目の俺とは逆の、黒い垂れ目が俺を映して嬉しそうに緩んだ。
ただいま、と返すといつもの笑顔でうん、と頷く。
「ごはんもうすぐ出来るから、先に手洗ってきちゃいなよ」
「ああ、けど……」
玄関に置いておいた段ボールについて問い質そうとして、奥の方からのっそりと現れた巨大な黒い人影に思わずぎょっとして言葉が途切れた。
まず目についたのは顔の下半分を覆い隠すほどのもじゃもじゃの黒い髭と、ぼさぼさの長い髪の毛、そしてその奥から覗く黒い目だった。黒くだぼっとした服装をしているせいで、少しだけ露出している肌を除いて見事に黒尽くめだ。それに、身長が高いので威圧感もひどい。
真っ黒の塊は髪に埋もれた目が邪魔をして俺が見えないのか、落ち着いた様子で黒い髭に埋もれている唇をもごもごと動かす。
「夕貴くん、お皿運んだよ」
意外に若い声だな、と感想を抱いてから流されかけていることに気付いた。予想外なことに頭が働かないでいるらしい。その間も、兄と不審者のやり取りは目の前でぽんぽんと続いていく。
「ありがとう、おじさん。じゃあこれもお願い」
「うん」
もじゃもじゃがこくりと頷いて、夕貴から渡された皿をテーブルの方に運んでいく。思わずその後ろ姿を見送ってから、なんの説明もしないままキッチンに引っ込もうとする夕貴の腕を慌てて掴んだ。
「おい、誰だよあれ!」
「誰って……おじさんだけど」
そんなことは見ればわかる!
きょとんと俺を見返す夕貴に咄嗟にそう怒鳴りつけそうになって、唾と一緒に飲みこんだ。
ダメだ、キレるな。いつもみたいに冷静になれ、俺。
すぅ、と深く息を吸い込むとゆっくりと吐き出して、改めて夕貴を見た。けれど兄はどこまでのんびりとしているのか、
「ユキ、話は後でいいでしょ? 僕、お腹減ってるんだよね。食べながら話すからさ、早く手洗って制服着替えてきなよ」
少し眉を寄せて、困ったような顔で夕貴は言う。そんな風に言われて、俺がキレなかったのは我ながら奇跡だ。
結果、吹き荒れる文句と怒りと屈辱に染まった俺の脳は矢継ぎ早に指示を飛ばして、今までのどんな時よりも素早い動作で食卓の席に着くことが出来た。
わざと荒々しく椅子を引いて腰掛けると、居心地が悪そうにもぞもぞと動いていた不審者はようやく俺に髪と髭に覆われて表情の分かりづらい顔を向けて、軽く頭を下げてくる。
一応、最低限の礼儀らしきものはあるらしい。
それでも、その怪しげな容貌から到底気を許す気にはならない。今すぐに問い詰めてやりたい気持ちをぐっと堪えると、エプロンを畳みながら夕貴が不審者の向かい、俺の隣の席に座る。食卓に張り詰める変な空気には気づいていないのか、両手を合わせてにこりと笑った。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
「……いただきます」
真っ先に箸を取った夕貴が頬張った口の中身をごくりと飲み込むのに合わせて、俺は口火を切った。
「説明しろ、夕貴」
「……ユキは昔からせっかちだよね。おじさんもそう思うでしょ?」
まだ一口しか食べてないのに。夕貴は膨れっ面でぼやいたが、話しを振られた不審者も苦笑を形作ったのか髭を僅かに動かしただけだった。
この食卓に自分の味方がいなことを悟ると、夕貴は手に持っていた箸を名残惜しげに置いて、ようやくこの奇妙な事態のいきさつを語り出した。
「僕が学校からの帰り道に近くの空き地に通りかかったら、ノラ猫とか雀を頭や肩に侍らせたおじさんがみかんの段ボールの中で体育座りしながらぼーってしててね」
なんだその奇妙な光景は。思わず斜め前のもじゃもじゃを見ると、長い髪に絡まった羽やなにかの毛を発見してしまった。マジか。
「それで、それがすごく面白かったからおじさんに話しかけてみたら、段々世間話からおじさんの話になって、もうすぐ台風が直撃するっていうのに家も毛布も何も無いって言うから、じゃあもしよかったら家に来ませんかって連れてきたんだ」
とつとつと、淀みなく語られた兄の話に目が点になるのを感じた。
……普通なら、そんな奴を見かけても無視するし、話しかけても家にまで連れてくるような真似はしない筈だ。兄はここまで天然な奴だったのか?
防犯意識だとか色々な物を欠如してしまったらしい夕貴に、俺は堪らず呻いた。
まるで宇宙人と話しているような気分だ。
「うーん、だからさ。ユキにも分かりやすく言うなら、段ボールに捨てられてたおじさんを僕が拾った、っていうだけの話だよ」
あっけらかんと夕貴は言い放つ。そんなことで俺が、はいそうですかと納得する訳はなく猛然と噛みついた。
「だから、なんでそうなるんだ! どうしてよりにもよってこんな不審者染みたおっさんなんか拾ってくるんだよ!」
本人を前に不審者呼ばわりしている事にも気が回らず、俺は夕貴を糾弾する勢いで詰め寄った。夕貴も夕貴で、目に非難の色を込めて反論してくる。
「不審者って……だって可哀そうじゃない。仕事も家も何もなくて、雨風を凌げるような当てもないんだよ? ユキはおじさんがそのせいで死ぬようなことがあってもいいの?」
「誰もそんなことは言ってないだろ……」
話が飛躍し過ぎている。俺はただ人間を、それもこんな不審者染みた人間を易々と家に上げたことにどうなっているんだと問い詰めているのに、夕貴から返ってくる答えは可哀想だのどうだの、感情論ばかりだ。
互いにぴりぴりし出した食卓で、こうなった原因の調本人がようやくその重たい口を開いた。
「私が言うのもなんだけど……二人とも少し落ち着こう。頭に血を上らせていてもすれ違うだけだよ」
髪の中に埋まった瞳は、優しげな光を燈している。この家の中で一番常識はずれな格好をしているクセに、その言動がやたら常識人ぶっているのが癪に障った。鼻を鳴らしてそっぽを向くと、隣から腕を突かれる。振り返ると、夕貴が不機嫌そうな顔で俺を見ていた。
「さっきからユキはおじさんに失礼だ」
「俺にとってはただの不審者だからな」
「幸貴!」
久しぶりに愛称じゃ無く名前を、それも怒気を含めて呼ばれて、少しだけ動揺してしまった。見開いた目が見えたのか、夕貴は罰が悪そうに顔を反らす。
どうして、別に怒鳴ることないじゃないか。コイツのせいなのに。唇を噛んで髭を睨みつけると、思っていることが伝わったのかソイツは悄然と肩を落とした。
「夕貴くん、やっぱり私は出て行った方が良さそうだね。私がここにいては、君たち二人の仲が悪くなりかねない」
「そんな!」
夕貴が悲鳴のような声をあげた。
それとは逆に、俺はうんうんと頷く。見かけによらず、やはりこの人間は常識だとか良識だとか、そういったものを持ちあわせているらしい。
けれど夕貴は、それを引き留めるように首を振る。
「ダメだよ、せめて三日。三日あれば、おじさんだって台風を凌げて、仕事と家を見つけられるかもしれないって言ってたじゃないか!」
「けれどね……」
困ったように頬の辺りを掻く男を後押しする為に口を開こうとすると、夕貴の鋭い眼光が俺を貫いた。珍しく、夕貴が本気になっているらしい。
「ユキは黙ってて」
「……ちっ」
舌打ちをしても、今度は何も言われなかった。カワイイ弟よりも不審者の方を優先させるなんて、とんでもない兄貴だ。
口を閉じる代わりに盛大に顔を顰めると、やり取りを交わす二人を眺めた。
「なにも君と弟さんがこんな風になってまで、私をここに留まらせる意味はないだろう? こう言ってはなんだけど、私の身なりはこんなだし、不審者という形容がこれほど似合う男もそうはいないと思うよ」
事実だけを語るように淡々と、困惑すら滲ませて言う声に、夕貴は断固として頷かなかった。それどころか、不快だとでもいうように眉を寄せる。
「僕はこんな風に言うのは嫌いですが、貴方と弟の言葉を借りるなら不審者のような容貌の貴方に、希望している住み込みの仕事どころか、普通の仕事だって見つけるのは困難だと思いますが」
「……」
先程と打って変わって丁寧な言葉遣いだが、随分と痛いところを突いた。わかっていたことだったのか、むっつりと押し黙った男を夕貴はじっと見つめる。そのいつになく真剣な表情にいつもの夕貴の面影はない。こういう時、俺は夕貴が自分の兄であることを唐突に思い出す。
「たった三日ですよ、おじさん」
「……夕貴くん。どうして私をそこまで……」
落ち着いた男の声には、深い困惑がある。それはそうだと、俺も同じ事を思って夕貴を見た。意外なことに、兄は静かに笑っていた。
「僕は、おじさんがいい人だと思ってます。だから困ってるようなら助けてあげたいし、力になりたい。それが僕だし、なにより幸貴のことを信じてますから」
「……本当に、いい兄弟だね」
穏やかな笑い声を零した男が一瞬そこら辺にいる普通の男にしか見えなくなって、慌てて頭の中から打ち消した。
このままの流れでいくと、コイツこのまま家にいることになる。
それだけは反対だと言おうとすると、男の向こう側の窓がパッと光った。そして数瞬後に腹に響くような重たい重低音が大音量で響く。雷だ。それを合図にしたのか、大粒の雨がばらばらと降り出して容赦なく窓を叩き出した。
なんていうタイミングだろうか。呆然と窓の外を見つめていると、夕貴が柔らかい笑い声を上げた。
「台風、もうこんなに近づいてたんだね」
風も吹いているのか、ガタガタと揺れる窓を見向きもせず食事を再開した夕貴を、俺はつい睨みつけた。
「白々しい」
すっかり冷めてしまった夕飯を食べ進めながら、夕貴は軽く肩を竦める。
「まあとにかく、ここまで来てしまえばあんな状態の外におじさんを放り出すような真似、ユキにも出来ないでしょ? もう冷めちゃったけど、二人ともご飯を食べながら自己紹介でもしようよ」
確かに宿も家も無いとわかっている人間を台風の中に放り出すような真似は俺には出来ない。出来ないが、そこを分かっていて利用されるといくらなんでも腹が立つ。
箸を掴むと、なにか話しかけたそうな男の視線を遮断して冷めきった飯を掻き込む。いつもなら味わって食べる好物のかぼちゃの煮つけも、ただ喉を通り過ぎていくだけでむかむかする胃を治めてはくれない。
「えーと……」
きょろきょろと動く黒目が不愉快で、見えないように茶碗で隠すと夕貴の溜息が聞こえた。
「気にしないで、おじさん。拗ねてるだけだから」
「拗ねてなんかない!」
反射的に言い返しても、夕貴は全く相手にしない。思わず唇を噛むと、まるで本当に自分が拗ねているようで更に胃がむかむかした。夕貴はいつものように笑って、勝手に自己紹介を始める。
「改めて、僕は溝口夕貴。こっちは弟の幸貴だよ。三日間よろしく」
「……うん、よろしく。夕貴くん、幸貴くん」
俺が受け入れていないことは十分分かってるだろうに、それでも気遣うような視線を送られる。気づていないフリでそれをやり過ごすと、一度もぞりと動いた髭は、結局冷めた夕飯を咀嚼し出した。