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月光日和  作者: seseri8582
3/3

三.月の生みの子

(私は衰えたのだろうか)

眼下の草原から拭き上げる春風に鼻先を触れさせ、豊かな季節の香りを鼻腔に感じながら、リリスは昨晩の出来事を振り返っていた。

宿敵、ラステルの襲来。その戦闘の風景を思い出すだけでも、銀色の毛並みがざわざわと立ち上がるようだ。そして、闘争が全身に満ちると同時に悔恨が胸を押し潰していく。

昨晩使った力は大したものではなかった。

使えなかった、と言った方が正しいかもしれない。限りある力の消耗を恐れ、ラステルの攻撃を満足に受け流すこともできなかった。かすり傷で済んでいるから良いものの、力を温存した上で致命傷を負っていたのではとても話にならない。

(――無様だ)

まだ若いこの体は、体力については申し分ない。だが、転生を繰り返したことにより、月の力は衰えていくばかりだった。

以前ならば。気力・体力ともに充実していた頃ならば、躊躇うことなく持てる全ての力を行使できていた。そして、たったあれだけの戦闘で、倦怠感に苛まれることなどなかっただろう。

しかし、当時は後先考えず目の前の敵に飛び掛っていたのも事実。こうして生き長らえているのは多分に運に拠るものだったと、振り返ってみても思う。

一時の感情を前に流されることも多かった、あの時代。今は、年月の与えてくれた思慮が妨げにもなっている。

(変わったのだろうか、私は)

長い年月で得るものもあれば失うものもある。それでも、闘争を前にすれば本能は疼く。

心境は複雑だった。

変化を始めたのはごく最近になってから。

そう、それは確かあの少女の到来を知覚した時。たった今、家族に旅立ちを見送られている、月の少女アルメリアを。


「持ち物はそれだけでいいの?」

向かい合った母、リリーが心配そうに頬に手をあてる。日が近づいてきてからは、旅にでることをにわかに反対されることはなかったが、いざその時が来るとやはり煮え切らないものは隠せないでいた。

「大丈夫よ。父様にちゃんと教わったから」

ボッシュと相談しながら作った包みを手で叩いて、アルメリアは微笑む。

リリーの指摘どおり、荷物は一ヶ月の旅に出るにしてはずいぶんと少ない。それもそのはずで、中には最低限の衣類と路銀しか入っていなかった。応急薬も食料も、いざとなれば草花が代わりになってくれる。野草の知識のあるおかげで、アルメリアはかなりの軽装で発つことができた。普段花畑から戻るときに背負う籠の方が重いくらいである。この包み一つだけで良いならば、どこへだって歩いていけそうな気がした。

もっとも、それではあまりにも無用心だと、リリーに向こう三日分の食料を押し付けられたことで、余分に包が一つ増えていた。はじめは受け取るまいと思っていたアルメリアだったが、母の心配や言い分もわかるし、何よりもその心遣いを無下にはできず、やむなく受け取ることにした。アルメリアが食糧を受け取ったことで、ようやくリリーは不安を和らげたようで、所在なく動かしていた手が今は腰の後ろへ収まっている。

「今度の旅だけで全てを済まそうとはしないことだ。まずは一月。きっちり帰ってきなさい」

一方のボッシュは相変わらずの無表情で、一人娘の旅立ちに際して何か案じている様子はない。自らも同じ年齢の時に一人旅に出て、多分に得るものがあっただけに、何としても行かせたいというのがボッシュの思惑であった。

昨日ほどではないが、空は良く晴れている。大小様々な雲がゆったり漂っている様子は、見ているだけでも心が弾むようだ。この空を見て想像力が掻き立てられているのだろう、リナリアが先ほどからしきりに空を気にしているのが見て取れた。

「シトラの絵筆を忘れないでね」

「馬の尻尾で出来ている筆のことでしょ。ちゃんと覚えているから心配しないで」

シトラとはリナリアの絵の師が生まれた街のことである。その地方で作られる絵筆は上質な馬の毛を使っていることで知られていて、中でも馬の尻尾を使ったものが最も上等とされている。一度、弟子の一人が使っていたのを借りてから、その筆が描き出す豪快な線にリナリアはすっかり惚れ込んでしまった。それ以来ずっと探していたのだが、希少品であるだけに、原産地でしか目にかかることができない。こういう機会でもなければ、手に入れることができないのである。

「リリス、元気でね。お姉ちゃんをよろしくね」

リナリアがアルメリアの足元で丸まっていたリリスの頭を撫でる。その少し乱暴な手つきにも全く抵抗することなく、リリスは薄目をあけて、応えるように鼻息を吐いた。

「じゃあ、行くね」

いい加減退屈してきたらしいリリスの大あくびに急かされる様に、アルメリアは遂にその一言を切り出した。

「一月後、次の満月の夜にまた会おう」

そういってボッシュは、ずっと手に持っていた薄紫の布を手渡した。

手染めの美しいケープ。その鮮やかで何とも温かい色合いに、アルメリアはそれを広げるなり歓声をあげた。

「解毒作用のあるレイネの実と、寒暖に強いベイリーの染料で染めてある」

様々な毒虫から身を守り、多少の寒さや暑さにも負けないボッシュ秘伝の染料で、遠方へ出向くときに同じ色のローブを着ているのを何度か見たことがあった。

早速腕を通してみると、上質な生地は見た目以上に軽く、長い旅路にも耐えられるように丈夫に作られているようだった。ぴったりと体に合っているにも関わらず、体の動きが全く制限されない。恐らく、リリー手製のものだろう。

「ありがとう、父様、母様」

この旅の間だけでなく、両親の思いの詰まったこの品を、一生の宝物にしようとアルメリアは心に決めた。

「筆は欲しいけど無理しなくていいから!」

よく通る妹の声を背に受けて、アルメリアはリリスを連れ立って村を出た。夕暮れに戻るのでも、一日で戻るのでもない。一月かけて今まで見たことのない植物、景色を見て回れるのだ。

逸る気持ちを抑えきれず、アルメリアは声を上げて笑いながら駆け出した。

後ろからリリスが嗜めるように吠えていた。



**********



下の平野には四本の交易路が走っている。それぞれが北、西、東と南東から伸びており、ある一点でそれぞれが互いに交錯していた。その中心にあるのが、今アルメリアが到達したばかりの商業都市・レーベである。

古今東西の特産物がここに集結し、日中、市場の開く時間になると、それを求める人たちで人口密度が倍以上に膨れ上がる。とにかく何でも揃うのがこのレーベで、生活に関わるものならば食料だろうが家だろうが、何でも買えると言われている。

アルメリアがその街並みを前に立ち止まった頃には、一日のうちで最も暑い時間はもう過ぎていた。

時は昼過ぎ。レーベの南門に着き、アルメリアは日差し除けのフードを脱いで布で額の汗を拭った。結局、通常ならば一日もかければ着く片道を、春に芽生えた野草に目を奪われるあまり、余分に二日をかけてしまった。途中、リリーからもらった食料にも世話になることがあり、アルメリアの性格を見越した上での処置だったと知って、アルメリアは少し気恥ずかしい気持ちになった。

南門を見上げている間にも大勢の人がアルメリアを追い越し、またすれ違っていく。街の中に入らずとも熱気が溢れており、拭ったばかりの額から既に汗が滲み出ていた。

しかし、高地よりも風が少ない分、若干暑く感じるものの、空気が乾いているために不快感はあまりない。

少し遠い土地へ行けば気候が変わる。気候が変われば自然も変わる。まだ見たこともない花々に思いを馳せ、アルメリアの胸はときめいて止まなかった。外にいても聞こえてくる弦楽器の軽快な演奏が、高まる期待を一層盛り立ててくれた。

商業都市としての地位が数年前に確立されてから、レーベでは富裕層の間で芸術や思想・哲学が流行となっている。劇団や学校などが一部の商人たちの出資で小規模ながら開かれていて、今では特産品だけでなく、それぞれの学問に通ずる人たちまでもがレーベに集まるようになっていた。商業の街でありながら、新たな文化の発信地としての側面を近頃では見せ始めているようだ。それが人口の増加に拍車をかけ、街の規模は一分一秒の間に大きくなっている。

リナリアが月に一度定期的に通っている絵の師も、レーベに滞在している。

彼の描きあげる街の風景画は精巧なことで知られていて、日々移り変わる街の表情を描かせたら彼の右に出る者はいないと、その呼び声は高い。もっとも、気に入った者にしか教えない、気に入った絵しか売らないという頑固者で、彼の絵を買い求めたい美術商たちの間では、恐れられている存在でもあった。それでも買い求める者が後を立たないのは、それだけ彼の絵画が魅力のあるものだということだろう。

通りを歩くアルメリアの視線は絶えず上を向いたままであった。度々訪れているリナリアとは違い、アルメリアにとっては何年か振りになるレーベである。村とは違う街並みに感嘆の声は途切れない。以前降りてきたときよりも、高い建物が明らかに増えていた。聳え立つ山とは違う、人口的な圧迫感に立ちすくみそうになる。

リリスを見下ろすと、彼女はいつものように憮然と前を見ているだけだった。

それが何となく、アルメリアを安心させた。

「髪の美しいお嬢さん。冷えた水でもいかがですか」

胸を撫で下ろしているところへ、前方から来た行商風の男がコップを差し出してきた。

「ありがとう」

笑顔で受け取って口に含むと、それは今しがた地下から湧き出たばかりではないかと思う程、冷えた水だった。熱さで乾いた喉に、冷たくとろけるような水が染み込んで行く。アルメリアはあっという間にそれを飲み干してしまった。

「冷たい!」

感じたままの感想を声にだしている横で、男がリリスにも水を注いだ器をあげている。水を飲むリリスの尻尾が――恐らく無意識だろうが――小さく揺れていた。

「喜んでもらえて嬉しいよ」

男がにこにこと微笑んでいる。良く見ると、日に焼けてはいるがまだ若い青年のようだ。年も近いのかもしれないと、アルメリアの中で親近感が湧いた。

「この近くに湧き水なんてあったのね」

「いや。これは川から運んできた水だよ」

「え?」

驚いてコップの中を覗き込む。次にアルメリアが何を言おうとしているのかわかったのだろう。青年は肩を震わせて笑った。

「どうして冷たいのか、という質問には、ちょっと答えられないかな」

川から運んでいるのであれば、これほど冷えているわけがない。どういった仕組みでこの水を冷やしているのか考えているうちに、アルメリアはまだお金を払っていないことを思い出して背中の包みを下ろした。

「いいって、今日は挨拶代わりだよ」

両手で包みをまさぐって財布を出そうとするアルメリアを、青年が妙に慌てながら引きとめた。

「見たところ一人旅だろ? 何のためかは知らないが他にも入用になるからとっておきなよ。俺の名前はワークス。今後ともよろしくな!」

逃げるように手を振ってその場を離れようとする青年、ワークスを、ある思いつきでアルメリアが呼び止めた。

「ワークス、ちょっと待って!」

駆け寄って手の中に薄い銅貨を一枚握らせる。

「私はアルメリア。まだこの土地のことを良く知らないの」

急に手を握られたワークスが四方に目を泳がせた。客の扱いには慣れていても、こうしたことには意外と初心らしい。

「だから、川のある場所を教えて欲しいの。これは情報量。ね、いいでしょう」

「参ったな」

根負けしたワークスが頭を掻きながら、レーベから西の方角を指差した。

「一時間くらいで大きな川が見えるようになる。場所によっては流れが急だから、近づき過ぎないように。……君は良い商売人になる。そんな気がするよ」

ぼやきながら去っていくワークスを見送り、アルメリアは早速、リナリアの師の元に顔を出してから川へ向かおうと決めた。アルメリアの発見した崖の上の花畑は例外だったが、水場の周りには植物が群生しやすいとボッシュが言っていた。特に、高地や山場とは違う種類の草花が多いのだという。

それが故に、真っ先に見ておきたいところであった。

ワークスと別れて大通りを真っ直ぐに進んで行く。レーベは背の高い建物が多いだけでなく、道が細かく入り組んでいる。一歩通りを外れてしまえば、道を良く知った者でなければたちまち方向を見失ってしまう。何せ、案内屋という商売が成り立ってしまうほどである。日々レーベの奥地で帰れずに立ち尽くす人は後を絶たない。

街の中心へ近づけば近づくほど、周囲はますます混沌の様相を呈していく。しかし、目指す建物は、その中にあっても決して見失うことはない。山なりに大きくなる建物群の中でも一際目立つ大きな、そして年季の入ったくすんだ建物。それがリナリアの師、マインのいるところである。

一階部分が調理場で、二階が弟子たちの部屋。そして三階がマインの住居で、そこから上、遥か頭上の十階まで全てがマインのアトリエである。何でも、色々な高さから街を眺望したいという本人の希望でどんどん上へ増築していった末、あそこまで高くなってしまったらしい。いい加減うんざりした大工が、どうせまた増築するのならと、高くなるにつれて天井の作りを粗くしていったのはよく知られたな話である。

そうして出来上がったアトリエに閉じこもり、いつも高いところから窓の外を眺めているマインを、街の人々は口々に「偏屈なジジイ」、「高いところが好きな老猿」と好き勝手呼んでいる。だが、実際の人柄を知るアルメリアやリナリアからしたら、それは全くの見当違いであった。

頑固ではあるものの、二人にとっては祖父のような存在である。はじめて会ったときに、リリスの顔立ちや体つき、毛の色を美しいといった数少ない人物であることも、アルメリアがマインを慕う理由であった。

事実、リリスは欲目から見ても美しいと思う。月光の元ではもちろんのこと、こうした街中で見かけるどんな犬猫よりも凛々しい。いかなる誘惑にも見向きもせず、ぴったりとアルメリアの横について歩く姿は知性さえ感じられるようだ。いつか記念となる日に、マインにリリスの絵を描いてもらおうと、アルメリアは密かに考えていた。

そんなことを考えながら歩くこと十数分。街の中心から少し外れたところにその入り口がある。人の波から逃れるように小走りで走り寄り、扉に吊り下げられた呼び鈴を何度か鳴らした。

「あっ、アルメリアさん」

扉の隙間から顔を出したのは弟子の一人であるランセージ。確かリナリアとは年が近く、絵の切り口や出来栄えでお互い競い合っていると聞く。レーベから戻ったリナリアの話の中でも、もっとも多く登場する人物だった。

訪問客を邪険に追い返そうとしていた顔が、アルメリアを見た途端、真っ赤に変色していった。

「こんにちは、ランセージ。マインさんいる?」

「は、はいっ、一番上にいます。ど、どぞ」

早口に招き入れられたアルメリアを、九人の弟子たちが口々に出迎えた。今は自由時間だったようで、弟子たちは思い思いに自分の時間を過ごしていたようだ。

通されるままに階段を上っていく。上に行くにつれて、アトリエ独特の香りが強くなっていき、古い画材の臭いが沁みたらしいリリスが後ろで盛大なくしゃみをした。

「師匠、アルメリアさんがお見えになりました」

やっとの思いで最上階に辿り着き、ランセージが呼びかける。開け放した窓から外を眺めていた老人が、背を向けたままわかった、と答えた。

この昇降も慣れたものなのか、ランセージは息一つ乱さずに快活としている。一方のアルメリアは森を歩くのとは違う運動に、階段を上りきって立ち止まった途端に足腰がぶるぶると震え始めていた。

ランセージから見えないところで両膝に手をつき、こっそりと息を整える横で、リリスが何食わぬ顔で窓際に座る老人の下へ歩いていった。下がっていく弟子を会釈で見送って、アルメリアもまた、老人の傍まで歩み寄っていく。

アトリエには壁がなく、四方にある大きな窓が開け放たれているため、強めの風が前方から流れ込んできていた。火照った体にはちょうど良く、アルメリアは老人の隣に立つと、しばらく風の感触を味わいながら街の景観を共に眺めた。

街の端までの眺望が広がっている。あの太い道は自分が通ってきた道だろうか。埋め尽くす人が無数の点となって蠢いていた。上からみて気づくのは、街全体が茶色一色であるということ。通りを歩いているときは色鮮やかな品々に目を奪われるほどだったのに、ここで見下ろすと全てが違うもののように見える。だが、目を凝らしてみれば、それは単純な一色の茶色などではなく、あらゆる色が寄り集まって形成している色なのだとわかった。

なんだか、精巧な木製の模型でも見ているようだった。

「綺麗ですね」

「あぁ……どんな時でも独特の美しさがある。晴れた日の活発な人たち。雨の降った後の沈んだような街並み。一度として同じ顔を見せたことがない。良い街だよ、ここは」

マインはアルメリアに椅子を勧めて、自分も深く座りなおした。パイプに火をつけ、顔をくしゃくしゃにして煙を吹かす姿に、怖さは微塵も感じられない。その手は、無邪気にリリスの首の皮を玩んでいる。

「もう十年もこの風景を描こうと試みているが、どうしてもこの目で見た感動を筆で表わすことができん。こう何度も顔をころころ変えられては、この老いぼれにはとても捉え切れんよ」

目を細めて笑う。

「こうして会うのは何年ぶりだったかな」

「五、六年ぶりですね」

「そうか……どうりでまた一段と美しくなっているわけだ」

愛おしそうに孫でも見るような視線に、アルメリアは照れ笑いを浮かべた。

「妹は失礼なくやっていますか」

「あの子は問題ない、良くやっているよ。私の手を離れるのも、時間の問題かもしれんがな」

曰く、マインとリナリアでは見ているものが違うのだと言う。マインが街のような人工物に惹かれているのに対し、リナリアは自然の造形物に強い関心を抱いている。

先月、リナリアが描き上げた絵を見せてもらいながら、アルメリアは妹がしきりに空を気にしている様子を思い出していた。

リナリアには自然が良く似合っている。アルメリアも思うところは同じだった。

「私も自然の描き方を教えられるほど器用ならばいいのだが……いや、そうではないな。彼女には誰の下にもついて欲しくないと思っている。私自身も含めてね」

リナリアの画風はいわば型がなく、そこはかとなく奔放なのだという。技術的な面ではマインの指導を受けてはいるが、視点や発想、色使いなどに関わる部分にはマインは一切口を出していないのだ。確かに、リナリアはどこか明るく、優しく、そして何より型にはまらない破天荒なところがあった。幼少の頃よりは減ったものの、今でも時折思いもよらないことをしでかして周囲を驚かせる。そんなリナリアが小さなところで窮屈そうに収まっているのは、どうしても想像できなかった。

「湧き出る想像力は誰にも妨げられない方が良い。あの子にとって、指導は制限にしかならないと、最近は特にそう感じているよ」

そう語るマインの表情にリナリアを手放す悲しさなど一切なく、終始、穏やかに眉は弧を描いていた。一人で自由に描いたリナリアの絵を見てみたい、それが楽しみでならないのだと、でかでかと顔に書いてある。

「宿はまだ探していないのか?」

「ええ、これから探すつもりです」

「ならば、この街に滞在する間は私の元で寝泊りすると良い。そこいらの宿よりは窮屈で騒がしいかもしれんが、どうせあの堅物のことだ。路銀も対して持たせていないのだろう?」

堅物というのはボッシュのことである。図星を指されたことにアルメリアは苦笑した。

「助かります。ありがとうございます」

長い旅に向けて路銀を少しでも温存しておきたいアルメリアにとって、マインの申し出は心底ありがたかった。

「でも良いのですか、お弟子さんもたくさんいらっしゃるのに」

「構わんよ。アルメリアがいると騒がしいあやつらも多少は静かになって助かる。元気があるのはいいことだが、いかんせんうるさすぎてな」

その言葉が何を意味しているのかわからず、きょとんとしているアルメリアに、マインが盛大な笑い声をあげた。

しばしの談笑の末、アルメリアは、荷物を置いたらすぐにでも川沿いへ向かいたいという希望を告げた。

「彼女にも、もう少し冗談というものをわかってもらえたら良いと思うのだがね」

階下への降り際、背後で聞こえた老人の独り言にリリスが振り返った。

「お前もそう思わんか、なあ?」

そういって片目を閉じてみせたマインから、何故か隠れるようにリリスは顔を背け、そそくさと階段を駆け下りていった。



**********



馬の背から眺める空が、夕日に溶けるように染まっている。規則的に上下する背中と、平坦な草原の一本道。単調なその道のりも、空気が違うだけで少しも飽きが来ないほど新鮮だった。

アルメリアはマインに手配してもらった馬に乗って、ワークスに教えられた、西にあるという川を目指している。踏み固められた道に蹄を鳴らす横には、馬の大きな体にも物怖じせず、胸を張ってリリスが歩いている。

むしろ、始めに恐れていたのは馬の方だった。

そこらの飼い犬よりも、大きな脅威であることを本能が感じ取ったのだろう。前足を振り上げてひどく暴れてしまい、手馴れた馬引きでさえ押さえるのに手間取っていた。

それが今、馬は平然と狼と肩を並べて歩いている。不思議なことに、リリスが馬と鼻を合わせた途端、嘘のように大人しくなったのだ。そこで何が交わされたのかわからない。狼と馬の間には通じるものはあるのかどうか、アルメリアには疑問だった。

一見怖そうに見えても、どんな子供もリリスを怖がることはない。逆に、周囲の大人たちの方がリリスの体の大きさや鋭い顔つきに敵意を向けるの方が多いのである。だが、純粋な気持ちで接すればこれほど優しい生き物はいない。リリスが馬と鼻を合わせた場面を思い出し、アルメリアはどこか嬉しくなった。

来た道を振り返ると、レーベは地平線にかすむ程度に小さくなっていた。各地からの商人が頻繁に通る道であるだけに、これほど遠くまで来ているのに、未だ綺麗に舗装された道が続いている。

その道が続けば続くほど、レーベを出るときに抱いていた期待が見る間にしぼんでいった。

人の手が入った場所には良い花が咲かない。ボッシュの教訓であり、またアルメリア自身が気付いたことでもあった。

整備、管理された花の方が当然、造詣的には美しいかもしれない。しかし、極力人の手が入っていない花の方が、満ち溢れる生命力を感じることができる。そういった荒削りで、野生ならではの力強さこそが花の魅力だとアルメリアは思っている。花は花であり、丹精込めて育てられた花も自然に育まれた花もどちらも愛しているが、アルメリアは庭園の豪勢な花よりも、絶壁にぽつんと咲く一輪の花を好むような人間だった。

川辺に近づくにつれて、せせらぎが聞こえてくるようになった。次第にそれは大きくなり、やがて視界に入ってきたのは、予想以上に大きく、流れの速い川だった。時たま流れてくる落ち葉が凄まじい速さで通り過ぎていく。橋を支える太い杭にぶつかった川の水が、波飛沫のように大きく跳ねていた。

橋の手前にある木に馬の手綱を繋ぎ、アルメリアが川の端に立って水辺の匂いを胸一杯に吸い込む。

まもなく沈みきろうとしている夕日が、揺れる川面に反射して痛いくらいに瞳を刺した。ちりばめた橙色の宝石が乱反射しているような光景である。

「やっぱり、あまり咲いてないね」

美しい景観だったが、目当てのものは一つもない。リリスの頭を撫でながら、アルメリアは落胆の気持ちを声に出した。

平野を覆いつくす豊かな芝は川岸まで来ており、花といえば、白い綿毛の様な背の低い花がまばらに咲いているだけだった。芝がこれだけ根強く、そして高く繁殖する環境である。植物を育てるのに最適な土壌が整っているにも関わらず、緑の草原に彩を添える花は一輪も咲いていない。

川辺に腰を下ろし、花弁のふわふわとした感触を指で遊びながら、アルメリアは考えた。思えば、レーベの街並みには花の彩りが全くなかった。単にその土地の人々には受け入れられないだけなのかもしれないが、それにしても、一輪の花も目にしないのは無機質なようで、少し寂しさを感じる。

花には万人に訴えかける美しさがあると信じている。豪華なバラの花束も、道端に咲く名もない花も、共に比較できないほど美しい。

この旅が終わったら、レーベ近くに花畑を拓こう。そして、街中に花を溢れさせるのだ。心に決めて、アルメリアはリリスの太い首に頭を預けた。

今日は慣れない道を歩いただけに、さすがに体は疲れていた。旅路を思い返そうと、家を出るところまで振り返った傍から、アルメリアは静かな寝息を立て始めていた。



**********



「――アルメリア」

遠くで呼ぶ声がする。アルメリアは意固地になって聞こえない振りをしていた。

「アルメリア、放っておきなさい。もう長くないのよ」

幼いアルメリアは地面に座りながら、膝に顔を乗せて懸命に嗚咽を押し殺そうとしていた。様々な感情が入り混じって、もはや自分でも何で泣いているかわからなくなっている。

大人の冷たさに対する怒り、大人に背く緊張、わかってもらえない、伝えられないもどかしさ。

そして今、消えんとしている一つの生命に対する悲しみ。

どういう傷を負ったのか良く見えないが、横になった胴体からはおびただしい量の血が流れ出ている。息は荒く、胸が細かく上下する様子を見れば、今にでも息絶えそうなのだと、子供心にすらわかった。

こんなにも痛々しい様相なのに、こちらを見つめる瞳がなんとも穏やかなのはどういうわけだろう。

体も動かせず、満足に呼吸もできない。

それでも瞳は澄んでいる。気品さえ感じさせるほど美しかった。

目を背けたかったが、見ていなくてはいけない使命感のようなものが、彼女をそこに縛り付けていた。

「アルメリア。蝿も飛び始めているのよ。他の動物もすぐに嗅ぎ付けてくるわ」

うるさいくらいに声が響く。どんな音も、この空間から締め出したかった。


ほら、こんなにも瞳は生気に溢れているのに……。



**********



「――アルメリア!」

「わっ!」

脳まで響く怒声と側頭部への衝撃が同時に訪れ、乱暴に眠りから揺り起こされたアルメリアが小さな悲鳴をあげた。

寝起きの気だるげな意識に川のせせらぎが染み入ってくる。開かない目を擦りながら無理やり凝らしてみると、そこは夜の森ではなく、川辺だった。

「いつまで寝ているの。夜は深いわ、もう帰りましょう」

リリスが暗闇の中からこちらを見つめている。その輝く毛並みに手を這わせた。

「……わん?」

「戯れは好きじゃないの」

目を細めたリリスがため息をついた。

「あの夜のは夢じゃなかったのね!」

一気に眠気が覚めた様子のアルメリアが、両手を合わせて歓声を上げる。

「これは夢じゃないのよね?」

「喜んでもらえているなら光栄だわ」

きゃっきゃっと子供のように喜んでいるアルメリアとは対照的に、リリスは普段通りに冷めたさを感じるほど涼しげだった。

「今日話しかけても反応がなかったから、てっきり夢ばかりだと思ってた」

「夜にならなければ、私の声はあなたには届かない。恐らく、今はまだ」

それも、満月の始まりから終わりにかけての、月の力が強い夜のときだけだという。

「あの夜のことは覚えていないの?」

リリスの問い掛けにアルメリアは首を傾げて考え込んでしまった。

覚えているようで、覚えていない。リリスと会話できたことも夢ではないと判明したが、ほとんどの内容が頭から飛んでしまっているようだ。確か、自分はリリスと話しながら、いつのまにか眠り込んでしまったのではなかったか。

だが、そんなことは重要ではなかった。リリスとこうして会話できたのは、夢などではなかったのだ。

「でも、夜にしか話せないのは何となくわかる気がするわ。満月の方が気持ちいいもの」

月夜の夜には不思議と素肌を晒したくなる。寒さよりも前に、月光が染みこむ様な心地よさを感じるのだ。

多くの人がそうであるように、アルメリアもまた、幼少の頃は夜が怖かった。暗い森を歩くなどもってのほか。魔女というものがいるとするならば、それは黒い枝葉の影に潜んでいるものだと思っていた。

アルメリアも大きくなり、ある時からそれは変わった。夜が待ち遠しくなり、闇に沈み、くっきりと浮き上がる枝葉の色も愛でるようになっていた。

「夜闇を恐れる人間の中でも、あなただけは違う。私たちと同じような月の匂いがするのよ」

「こうして夜にだけ話していると、二人だけの秘密みたいね」

どことなく嬉しそうにアルメリアが言った。微笑んだように目を細め、リリスの尻尾がゆらりと揺れた。

「いずれ好きなときに言葉を交わせるようになるわ。そうなった時も、秘密にしておいてもらえるとお互いの為にもなると思うわ」

聞いているのかいないのか、アルメリアは終始笑みを絶やさない。その胸中は、年の離れた姉ができたような感覚に小躍りしていたのである。両親に心を委ねるのとは違う、全てを任せ、そしてさらけ出せるような安心感。

それがただ、心地よかった。

「今はまだ、体内の余りあるものが月の引力によって漏れ出しているだけ。使い方が下手なのよ。上手くなりなさい」

「インリョク?」

聞き返したが、リリスはしばらく無言のまま、やがて立ち上がって空を仰いだ。説明を試みる前から諦めたらしい。何とはなしに、アルメリアは目の前で揺れている尻尾を指先で摘み上げた。

「月を意識しなさい。例え見えていなくても、月は変わらずそこにあるのよ」

夜空の月は音もなく浮かんでいる。沈んだ後のことなど、思えば考えたこともなかった。

「それがわかれば後は容易いはずよ。私の声を聞きたいと願いなさい」

会話している時は、何か特別なことをしているわけではない。こちらの声は話せば届くし、同じようにリリスの声も聞こえてくる。

意識するにはどうしたらいいのだろう。

尻尾を弄びながらぼんやりしていると、リリスが突然こちらを振り向いて短く吠えた。

「そしてやめなさい。あなたでなかったら噛み殺しているわよ」

笑って取り繕いながら、アルメリアはそっと尻尾を手放した。

「意識すればいつでも会話できるようになるのね?」

「それ以外にもね」

そうは言ったものの、アルメリアにとってそれ以外とは何を言うのかよくわかっていないようだった。

やはり、ラステルのことだけはすっかり記憶から飛んでいるらしい。思い出すほうが良いのか、このまま忘れているほうがいいのか、リリスには判断がつかなかった。

昨晩の様子を見る限り、あれは衝撃的な光景だったのだろう。敵意をぶつけられ、恐らく自分の血も見たことだろう。それを思い出させるのは、あまりに酷なように思う。

「会話以外には何があるの?」

見たところ、アルメリアは会話ができるだけでも満足なようだった。幸せそうな顔で、にこにこと笑っている。

この笑顔はまだ壊したくない。仮に、いずれ打ち明けることになるとしても。

「今は知らなくても大丈夫。太陽の時間に、月を見るようにしなさい。それだけでいいわ」

アルメリアの頬に鼻先を擦りつけ、リリスが慰めるように言った。

「あなたは間違いなく月の産子。その自覚を持つようになればそれでいいわ」

自覚。その言葉に、アルメリアは心を揺さぶられたような気がした。

月の生き物としての自覚。当然ながらリリスはそれを持って、そして誇りとして生きているのだろう。

自分とリリスの違いは自覚にあるのだろうか。

漠然と、そんな予感がアルメリアの頭をよぎった。

「……そろそろ戻りましょう」

促され、アルメリアは馬の手綱を木の幹から離した。待ちくたびれたように、馬がぶるぶると嘶く。

火照った顔に夜風が涼しい。馬の背にまたがると一層心地よかった。

「ねぇリリス、月に花は生えているの?」

馬上からアルメリアが何か話しかけたが、リリスはそれに答えなかった。

言い知れない焦りが、リリスの胸中を凍らせていたのだ。

――ひどいなァ

囁くような声がリリスの耳に吹き込まれる。陽気を装ってはいても、怖気が滲み出るようなおぞましい声。

――自覚を持つことがどういうことか、わかっているのにね……くくッ

心臓を握られたような嫌悪感は、レーベに着いてもしばらくは拭えなかった。


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