二.彼女だけの花園
この季節ではまだ、昼間の暑さも夜になればすっかり感じられなくなり、満ち満ちていた生命の息吹がじっと息を潜めるように、緑が映えた森の風景にひんやりとした影が落ちる。陽気で乾いた大気も再び湿り気を帯び始め、油断してうっかり薄着で出歩くと思わぬ寒さに見舞われることもあった。
人の気配は全て村に帰り、辺りはかさついた虫の足音さえ聞こえそうなほど音がない。とにかく全てが動きを止め、音を立てることさえ憚る夜の時間。古くからの言い伝えでは、夜は悪魔の時間として人々からは避けられていたが。
しかし、アルメリアはそれを信じたことはなかった。夜でも咲く花があり、そして影の中でしか生きられない花があることも彼女は知っているからだ。まさに今、帰路につく彼女を導く、点々と咲いた花のように。
木々の隙間から差し込む眩しいくらいの月光を吸い込み、小さな花びらの一つ一つが夜闇にくっきりと浮かび上がる。その僅かな明かりを頼りに、アルメリアは濡れた枯葉の感触を楽しむように家までの帰路についていた。
今夜は、真円の満月。
狼のリリスには月の出る夜が一番似合う。普段は黒に近い灰色の毛が、月光の元では銀色を帯びるのである。歩みと共に波打つ体を見下ろして、アルメリアは素直にそれを美しいと思った。
夕餉の香り漂う家屋が見えてくると、向こうから配達を終えたボッシュが暗闇から姿を現した。出かけるときは花で一杯だった荷台が、食料などの日用品で溢れているのを見るに、今日は満足の行く売れ行きだったらしい。心なしか、その顔にも珍しく表情らしいものが浮かんでいるようにも窺える。
アルメリアの摘んできた花を花壷に入れ替えながら、ボッシュは熊のような大きな手でリリスの頭を撫でた。今日も娘を守ってくれたことへの礼を感じ取ったか、リリスは誇らしげに胸を張り、しなやかな尻尾を小さく揺らした。
天井に吊るしたランプの灯が揺らめく。
朝の忙しなさとは打って変わって、夜の食卓にはゆったりとした時間が流れていた。直に一日が終わる適度な疲労感に身を委ねて、それぞれの会話と共に心を落ち着かせるのである。
近頃の夕食はアルメリアの旅の話題でもちきりだった。特に、旅立ち前日ということもあって今夜のアルメリアは特に饒舌だった。
一方、当初から難色を示していたリリーは相変わらず浮かない表情をしている。アルメリアの辛抱強い説得とボッシュの後押しで渋々同意したものの、やはり娘を一人で送り出すのは不安なのだ。
そんな母の心配も露知らず、待ちに待ったその日が明日に迫り、期待で顔を上気させたアルメリアはどこか落ち着きがない。ここ一週間も、興奮のあまり夜はなかなか寝付けずにいた。
疲れていないわけでもなければ、寝苦しい環境というわけでもない。来る日が迫れば迫るほど期待が膨らみすぎて、とても大人しく寝ていることなどできなくなる。そういう時は決まって、こっそりと家を抜け出すのが常だった。
その晩も例に漏れず、アルメリアは両親に悟られないように寝室の窓をそっと押し上げ、裸足のまま外へ飛び降りた。傍には、どこから聞きつけたのか、リリスが影の中で静かに鎮座している。
「素敵な満月ね」
リリスの咥えていた履物を素早く履き終え、その眉間に口付けをする。そして、これ以上じっとしていられないというように、アルメリアは森の先の花畑へ向けて駆け出した。
昼間と違い、背負う籠がないぶん体が軽い。木々の間を縫って疾走する姿はまさに森の動物を彷彿とさせ、すぐ隣を並走するリリスと共に、森を駆ける喜びを共に全身で表しているようだった。
熱を持った肺を森林の冷たい空気が冷やしていく。体は熱く、体中から汗が吹き出るが、このままどこまでも走り続けられそうだった。
そして、視界が開けたとき、アルメリアは薄暗い森の中とは一転、輝く白銀の世界へと身を投じていた。
休みない運動に体は悲鳴をあげるが膝に手をついて息を整える時間さえ惜しい。
寝巻きを脱ぎ捨てて下着姿となったアルメリアは、肩で息をしながら、頭上の大きな満月を仰ぎ、その光を全身で受け止めるように両手を広げた。
こうしていると月光を肌で直接感じられる気がする。夜になると一帯に吹き上げる、緩やかで少し湿気のある粘った風とあいまって、まるで自然の毛布に包まれているようだ。
夜は悪魔の時間などではない。暗く沈んだ、人外の世界でもない。
確かに影は落ちているが、それは言わば、長く放置した泥水の底に、不純物が沈殿するようなものだ。そうでなければ、満月の浮かぶ深紫の夜空も、互いに葉を擦らせて謳う花々も、そして崖から一望できる飴細工のような森の景色も、これほど澄んで見えるはずがないのだ。
どうして人は、それほどまでに夜を恐れるのだろう。
「こんなに綺麗で、気持ちいいのに」
思わず漏れた独り言。
「人が火を知ってしまったからよ」
それに対して返答があったと気づいたのは、たっぷりと数秒を要してからだった。
声は近くで聞こえた。振り返ってみたが、崖の淵に立ったアルメリアから見る限り、花畑に何者かが侵入した様子はない。だとすれば離れた場所の声が風に乗って聞こえてきたのだろうか。
足元のリリスも声を察知していたらしく、じっとこちらを見上げている。
「心配しないでアルメリア。ここに人間はあなたしかいないわ」
リリスの下あごが上下するのにあわせ、再び声が聞こえてきた。その瞬間をまざまざと目にしてしまい、混乱したアルメリアは何も言えなくなってしまった。
声は下から来ていた。しかも、はっきりと、自分の名前を呼んだ。
まさかと思い、アルメリアはその場でしゃがみ込んで、リリスの頭を両手で挟んだ。正面からじっと見つめていると、ふと、その眉間に小さな皺が寄せられた。
未だかつて、見たことのない表情だった。言ってしまえば、あまりにも人間臭い表情のようで。
「……喋り辛いわ。離してちょうだい」
言われるままに手を離したが、アルメリアはその場にへたり込んでしまった。押さえられた部分がくすぐったかったのか、リリスが素知らぬ顔で身震いをしている。
「やっと私の声に反応してくれたわね。どれだけ語りかけていたと思うの。遅すぎるわ」
狼が自分に話しかけてきている。そればかりか、何となく不機嫌そうな感情までをも露にしているようだ。
「その時になって、あなたが取り乱さない打ち明け方を考えてはいたけれど、いい加減それも飽きたわ。申し訳ないけど、正面から受け止めて頂戴」
何か答えなければ。アルメリアは口をぱくぱくさせながら必死に頭を巡らせた。
何と言えばいいのだろう。どうすれば伝わるのだろうか。
「わ、わふっ?」
「普通に話しなさい。意味がわからないわ」
頭を斜めにして鳴き真似をしたアルメリアに、リリスが苛立たしげに吐き捨てる。
「本当にリリスなの?」
「あなたの信用を得られるような証明をする術は持たないけれど…。あなたに拾われた時から、いいえ、それよりもずっと前から、私は私よ」
疑うわけではなかった。動物に表情というものがあるとすれば、リリスの見せているそれは確かに彼女らしい。普段からあまりに聞き分けが良すぎる素振りも、現実にこちらの言葉を解していたとすれば頷ける。
しかし、こうして会話ができたようなことは、今回が初めてだった。
「人間の言葉ならば大半は理解できる。私、あるいは私たちの意志が伝わらないのは、あなたたち受け手の問題ね」
先ほどの疑問が顔なり声なりに出ていたのか、リリスが隣に座りながら言った。
「言ったでしょう。出会った時から、私はあなたに語りかけていたと」
「でも、声を聞いたのは今回が初めてよ」
「……順を追って話す必要がありそうね」
何も言えずにいるとリリスが独りでに話を続けた。
「かつて、と言ってもあなたの想像の及ばないほど昔のことね。その頃はまだ私たちはあなたたちと意思を伝え合えていた。互いの足りない所を補いながら、同じ歴史を歩んでいたわ。そこは違う意思を持った個体同士、ぶつかり合うこともあったわ。だけど、結局私たちはお互いにお互いを必要としていた。人間が文明を築き、火と出会うまで」
鼻先から短く息を吐き、向い来る風にリリスが目を細める。
「火を、明かりを自らの手で操る術を得た人間は、目に映る者しか信じなくなり、やがて極端に闇を恐れるようになった。闇に関わるから逃がれ、夜に生きること、そして月までを捨てた。今や彼らは太陽を母とする生き物。私たちとは対話し得ないのよ。……普通ならね」
リリスの尖った双眸がこちらに向けられる。こうして狼と会話していることは、改めてみても、奇妙だった。
「リリス、あなたは狼なの?」
「そうよ。純血の、そして生粋の狼よ」
アルメリアは依然、釈然としない面持ちをしている。この娘は本当に何も知らないのだ。リリスは落胆を隠そうともせずに、眼下の景色へと視線を転じた。
それとも、やはり無理もない話だろうか。胸中で首をかしげて、リリスは四本の脚で立つと、頭上の満月に向けて遠吠えをした。
太く、優しく、だが悲痛な声。
「私たちが遠吠えをするのは、仲間同士で疎通を取るためではない」
強い郷愁と敵愾心が沸き起こり、文字通り総毛立つような感覚がリリスの全身を走り抜ける。
「狼が月から来たという話しは聞いたことがある?」
「御伽噺で、あったと思う」
「史実よ」
間髪いれない返答に思わず目を丸くする。
「その話はどのような内容だったかしら」
ずっと幼い頃に聞かされていた寝物語を、記憶の引き出しから懸命に探し出す。
舞台は人のいない世界。兎を食べようと追いかける狼を、兎が様々な仕掛けや策略で撃退するというもので、最後には兎が巨大な岩を狼に落として決着した。確かこの話には、例え力のない者でも頭を使いさえすれば、強きものに打ち勝てる、という教訓が含まれていたはずだ。
「概ね正しいわね。教訓や他の細かいところが気に食わないけど、仕方ないわ。勝者の歴史だもの」
「えぇっ?!」
突如耳元で上げられた大声に、鬱陶しそうにリリスが耳を震わせた。
「私たち狼と兎は元々月に住んでいた生き物。しかし、共存できていたと思っていたある日、奴らに攻撃を仕掛けられたわ。仲間のほとんどが命を、或いは力を失った。数少ない生き残りも、まとめてこの地に落とされたわ。御伽噺の巨大な岩というのは、恐らくそれを示唆しているのでしょうね」
「月で、暮らす?」
月を見上げてみたものの、それでリリスの言っていることがわかるわけではなかった。
「あれもまた、この地球と同じ星なのよ。遠い遠い場所にある、私たちの生まれ故郷」
「チキュウ?」
懐かしげに目を細めていたリリスが微かに鼻を鳴らす。
「あなたの住処と同じような場所にあるということだけ、理解してくれれば構わないわ」
リリスの言葉の一つ一つが新たな混乱の種を蒔く。それを知った上で、構わずリリスは話を続けた。
「奴ら、兎は狡猾で残忍を絵に描いたような生き物よ。私たちを滅ぼす手際は確かに良かった。たったの一晩で私たちの集落は壊滅し、残ったものは殺されるか、月を追い出されるか。大方、力で勝る私たちが目障りだったのね」
「じゃあ、兎はまだ月にいるの?」
リリスが頷く。
「私が普段見ている兎とは、違うの?」
「同じよ。外見だけは。この星にいるのは、ほとんどが月の力を失った、いわば抜け殻ね」
月に住んでいた狼と兎。二つの生き物は対立した末に、敗北した狼だけがこの星――チキュウというらしい――に追い出された。アルメリアが見たことのある兎は、過去に同族より追放された兎が、野生の中で繁殖したものだという。狼にも同じような例はあるらしく、兎に落とされた狼もまた、野生に生きているものもいるらしい。
母なる月から離れれば、それだけ月の影響を受けられなくなる。それ故、地球は追放の地とされてきた。つまり、地球に落とされた月の生物は力を失い、野生に帰るほかに残された道はなかったのである。
しかし、兎の襲撃を生き延びて自ら地球へ降り立った狼のうち、極少数だけが力を留めるのに成功した。
リリスもその内の一匹だった。
「リリスは、特別だったのね」
アルメリアが感慨深げに呟く。頭を撫でると、リリスは首の辺りを手に擦りつけてきた。
「今となっては特別ね」
月の力を残した狼たちも、長い年月の中で野生が強く理性を圧迫するようになり、リリスのような個体の存在はもはや感じられなくなってしまった。
「特別……ふふっ。そういう意味ではアルメリア、あなたも特別なのよ」
「私が?」
面食らったアルメリアが素っ頓狂な声をあげた。
「……言ったでしょう。太陽を母とする人間は本来、月を母とする私たちとこうやって話すことはできないのよ。対話はおろか、潜在的な嫌悪感を抱く人間さえいるわ」
リリスがこちらの顔を覗き込んでくる。二つの瞳が月のように淡く輝いていた。
「あなたは正真正銘の人間。だけど、まるで母なる月のような温かさを感じる」
風で花がなびく度に香る花の種類も変わる。普段ならば簡単にそれぞれの名前を言い当てられるのに、今のアルメリアには、それがただ複雑に混ざり合ったものだとしか感じなかった。
リリスが月を背にするようにアルメリアの正面に立つ。二つの巨大な塊が一つとなり、押し寄せてくるようでアルメリアは思わず身を引いた。
「私に、月?」
「何かきっかけがあったはずなのよ。遥か昔に人間が捨てたはずの月が、こんなにも根深くあなたに宿ることになったきっかけが」
崖下から吹き付ける風に合わせるように、耳の中がひどくざわついた。
そして、風がにわかに強くなり突風となったとき、リリスの表情が険しく歪められた。
「アルメリア、走りなさい!」
アルメリアの胸を鼻先で押し上げて、リリスが耳を倒して吠えた。剣幕にたじろぎながらも、尋常ではない様子にアルメリアはおそるおそる立ち上がる。
「ここにいては行けない。すぐに後を追うからあなたは先に帰りなさい!」
尚も鼻で急かされたが、既にアルメリアの視線は、花畑のある一点に注がれていた。
色鮮やかな花々が揺れる中に佇む純白の物体。その頭部から伸びる二本の耳は、まるで白い花房のよう。じっとこちらを見つめて離さない双眸は、毒々しいほどに赤かった。
あれは本当に自分が知っている兎だろうか。それにしてはあまりにも、纏っている空気が異様だった。
リリスが庇うようにアルメリアの前へ進み出る。背中の毛並みが波立ち、後ろから見ても警戒する様子が容易に見て取れる。耳を澄ますと、喉の奥で唸っているのが聞こえた。
どれくらいの間、対峙していただろう。
「ケダモノが一体何の用」
兎はリリスより二周り以上小さい。体格では圧倒的に勝っているというのに、兎のまとった不気味な空気に気圧されるようにリリスの重心は後ろへ傾いていた。兎は彫刻、あるいは絵画のように、音もなく情景に溶け込んでいる。それを見ている限りでは、何をそれほど恐れる必要があるのか、アルメリアにはわからなかった。
「しばらく見ないうちに冗談を言うようになったか」
兎の頬の辺りが小刻みに震える。愛嬌のある仕草とは裏腹に、声色は低く、酷く高圧的だった。
「お前もケダモノに変わりないだろう、狼ごときが笑わせてくれる」
触発されたリリスが表情を険しくし、牙を露わにした。
「気配も消さないとは舐められたものね」
「そう警戒するな。ただの顔見せだ」
兎の全身から白い靄のようなものが立ちのぼったかと思えば、一瞬のうちに、兎は長身痩躯の人間の男の姿と入れ替わっていた。
アルメリアよりもほんのわずかに太い程度の体を、白い装束にすっぽりと包んでいる。白い髪は名残だろうか。真紅の虹彩前髪の間で揺れた。
「友好を表わすにはこの姿の方が、何かと都合がいい」
「見え透いた嘘を!」
リリスの威嚇をものともせずに、人間の姿をした兎は、アルメリアに対して会釈をして見せた。慣れていないのか、動作がどこかぎこちない。
「ご機嫌うるわしゅう、月の少女アルメリア。私は月の兎、ラステルと申します」
「本来の姿を捨てた未熟者、姑息な考えは相変わらずか。今度は何を企んでいる」
遮るようにリリスが吠える。例え挨拶程度でも、ラステルの言葉にアルメリアを触れさせたくないようだった。リリスの反応を見て、喉の奥でラステルが笑ったが、まるで精巧に作られた蝋人形のように、表情は一切動かなかった。
「どこまでも欲の尽きぬ強欲な種族か、月を占有してまで何を求む」
「事実と違わぬことは挑発にはならんよ」
これほどまでに人間らしくない人間は見たことがない。元が兎なのだから無理もないが、あまりに不自然な表情と挙動にアルメリアの背筋に寒気が走った。
「野良犬無勢がいくら頭を使ったところで底が知れる。相変わらずなのは果たしてどちらかな、戦士ディアナ。いや、今はリリスだったかな」
嘲笑を張り上げるラステル。その表情だけは嫌に板についていた。
「貴様の声で名前を呼ぶな。汚れる」
「どちらを?」
「どちらもだ!」
咆哮をあげながらリリスがラステルの細い首に飛び掛る。ラステルは涼しい顔で飛び上がると、いとも簡単にその攻勢を逃れた。
森の木々をも越える高い跳躍。舞い上がった花弁が夜空に大きく、美しい弧を描いた。
膝を柔らかく曲げながら、ラステルが音もなく着地する。その両手には、いつのまに取り出したのか、細長い銀色の物体が数本握られていた。
「月の光が十分ではないこの星も、なかなかに面白い。自らの肉体を使わずとも敵を殺傷できる道具がある。良いヒントを得たよ」
鈍色に光るそれは、何種類もの刃物だった。
「これらが全て、私の牙になる」
ラステルが無造作に両手を振り上げ、大小の刃物がアルメリアとリリスの間をすり抜けた。
身じろぎもできない速さ。宙に散った髪と、耳元を走った鋭い痛みさえなければ、一陣の風が吹いたとさえ錯覚しそうでもあった。
生暖かいものが首筋を伝う。
初めての痛み、初めての感覚。
ラステルから向けられているものを言葉にする術をもたなかったが、言うなればそれは、明らかな敵意だった。
かつてこれほど身を凍らせるようなものを前にしたことがあっただろうか。今までの生活とは全く無縁な感情をその身に受け、アルメリアのか弱い心は得体の知れない存在に震え上がっていた。
言葉を失うアルメリアの前にリリスが立ちはだかる。体のあらゆる場所から血が流れ出ていた。
普段ならばすぐさま駆け寄って傷の具合を確かめるアルメリアだったが、その視界には何も映らず、指一つ動かすことなくその場に立ち尽くしている。
「どうやら、当たりのようだな」
ラステルの顔が冷徹に歪む。神経を直接撫でられるような怖気に、いよいよリリスの胸の内に火がついた。
「囲っていたのはその女か」
「彼女には指一本触れさせはしない!」
リリスが低い姿勢でラステルに立ち向かっていく。ラステルが巧みに跳躍を交えて距離を取り、どこからから取り出したいくつもの刃物を投げつける。その度に、リリスの体に一つ、また一つと傷が増えていった。
「しかしディアナ、見違えたよ。ずいぶんと力が弱まってきているじゃないか」
涼しい顔で語りかけるラステルとは対照的に、リリスには既に疲労と憔悴の色が表われはじめていた。胸部が激しく収縮を繰り返し、吐息にも、喉を締め付けたような音が混じっている。攻撃を仕掛ければ仕掛けるほど、動きが見る間に機敏さを失っていった。
ラステルには止めを刺す機会などいくらでもあっただろう。焦りや怒りといった感情を手の平の上で転がすように、リリスを弄んでいることは明らかだった。
「私たちの力は齢一〇〇である種の頂点を迎える。さて、名前を変え姿を変え、転生を繰り返した末にいまや老兵となってしまった貴様と、まだ若輩者の私ではどちらに勝機があるだろうな?」
「刺し違えてでも殺す!」
血のように赤い歯茎を剥き出しに、リリスの力強い後ろ脚が柔らかな草地を蹴り上げる。鋭い牙がラステルの服の端を捉え、ちぎれ飛んだ布の切れ端を目で追ったラステルが興味深げににやついた。
「ぞくぞくするような良い気迫だ。貴様と初めて会った時から私は常々思っていたよ。私の命を取る者がいるとすれば、それは貴様の他には有り得ないと」
ラステルが言い終わらぬうちにリリスが一直線に駆け出す。今までで最も速い攻撃に見えたが、その牙は敵を捉えることができず、一瞬前までラステルがいたはずの空間に、砂のような光の粒子が漂っている。
(どこ……?)
四方に姿は見えない。気配を感じて見上げた空に、ラステルはいた。
真上に跳躍したラステルのローブが激しくはためき、光の粒子が尾を引くように両足から伸びている。
「みすみす殺されてやろうなどとは思ってはいないがな!」
瞬間、粒子の一つ一つが鋭く尖り、刃物となって雨のようにリリスの元へ降り注いだ。
(間に合わない!)
避けようにも、光の刃はまさに星の煌きのごとく、目で捉えた瞬間には既に眼前まで迫っている。月の力を充足させる猶予もなく、月の加護を見に纏わせることもままならなかった。針のように尖った刃は、しかし太い杭のような衝撃を以って体を貫くだろう。
リリスは死をも覚悟しつつ、例え死霊となってでもその首にくらいついてやろうと、ありったけの怨みを込めて宙に浮くラステルを睨み付ける。
風の流れ、星の煌き、花の揺らめき、そしてラステルの衣のはためき。視界の全てがゆっくりと動いていく。刃の切っ先が逆立った毛先に触れる感触までをもはっきりと知覚した瞬間。
ガラスの陶器を重ね合わせたような澄んだ音色が響き渡り、頭上を覆いつくしていた刃物が一瞬にして掻き消えた。
小波のような風と共に静寂が走り抜ける。
体勢を崩したらしいラステルが花畑へ叩きつけられた。渦のようにラステルを取り巻いていた光の粒子も影すら残さず霧散している。
だが、溢れんばかりの月の光を、リリスはごく身近に感じ取っていた。
リリスが唖然と見つめる先。依然何もわからないような顔でアルメリアが立ち尽くしている。ただ一つ違うのは、彼女の周囲を分厚い粒子の層が取り囲んでいることだった。まるで局地的な旋風のように粒子が渦を巻いて、姿が掠れて見えなくなるほどの眩い光が彼女を覆い尽くしている。
その粒子が何であるかは見ずとも容易に知れた。先刻までリリスやラステルが行使していた月の加護が、彼女のもとに吸い寄せられている。
事実、不意に力を奪われたラステルは着地もままならず、リリスもまた、言い知れない憔悴が四肢の末端まで染みていくのを感じていた。
「アルメリア!」
リリスの呼びかけも耳に届いていないようで、半ば恍惚とも取れる表情で、虚ろな瞳で宙を眺めているだけだった。
そうして気を取られている隙に、ラステルが足元をふらつかせながらもリリスに蹴りかかったが、足先が腹部に触れる直前、柔らかくも強固な壁に跳ね返されるように吹き飛ばされていった。花びらを巻き上げながら起き上がったラステルの仮面のような顔にも、動揺の色がありありと浮かべられている。口元が小さく動いているところ見るに、独りでに何やら呟いているようだった。
人の形を模すのには月の加護も要するのだろう。頭部からは兎の耳が顔を出し、白い柔毛が露出した肌を覆い始めている。
自分が蹴られるはずだった場所を一瞥し、リリスは再びアルメリアへ視線を戻した。
ラステルの弾かれた空間に光の粒子が漂っている。おおよそこの場に感じる力は全てアルメリアの元に集約しているため、リリスを守ったのは彼女の他に考えられない。力のない足取りでリリスが歩み寄ると、うっすらと光の残る瞳でアルメリアがこちらを見下ろした。
「助けて……」
アルメリアは涙を流していた。ぽろぽろと透明な雫が輪郭から零れ落ちていく。四肢が指先までぴんと伸びたまま固まっており、涙を拭う動作も取れないようだった。
「何もわからなくて、痛くて……」
振り絞るような声でアルメリア。その辛さが手に取るように伝わってくるようで、リリスの胸の辺りが軋むようにきりきりと痛んだ。ただ見ているわけにもいかず、何度か触れようと試みたが、厚い粒子にやんわりと阻まれて、服の端すら咥えることすらできない。
「リリス、どうしよう――」
その言葉を最後にアルメリアの意識が途切れた。支えを失った人形のようにその場へ崩れ落ちる。すかさずリリスが駆け寄って、大きな背中でその体を受け止めた。
顔は青ざめ、肌は酷く冷え切っていたが、呼吸は落ち着いているようだ。そのことが何よりもリリスを安堵させた。
「……去れ。月の庇護が全く得られない今、貴様は牙も持たぬ、ただの惨めな小動物だ」
背を向けたままラステルに話しかける。
兎の姿に戻っていたラステルが、含み笑いを残し、跳ねながら去っていく。
「言ったはずだ。今日は顔見せだと」
「二度とその顔を見せるな!」
振り返って吠えた時にはラステルの姿は見えなくなっていた。
「……」
全てが去った後の花畑。
うつ伏せで倒れたアルメリアの頬を舐めるリリスの鼻を、懐かしい月の香りが掠めていった。
「アルメリア……ごめんなさい」
耳を垂らしてリリスがひたすらアルメリアの頬を舐め続ける。
美しい満月の夜。
郷愁がリリスの胸を締め上げていった。
数分後目を覚ましたアルメリアは、その夜のことを何も覚えていなかった。