一.少女は花を愛す
一.
緑一色の大地を、囁くような春風が撫でていく。どこからか運ばれてきた花びらやいくつもの種子が、暖かな空気を身に受け、待ちわびた春の訪れへの喜びを表わすように列をなして舞い踊る。
それはのどかな春の情景。幾度の往来に踏み固められた道の他には荒らされた形跡はなく、草木や動物は生まれたままの姿、そして場所で自然の恩恵に預かってきた。
この地にはかつて、一度たりとも戦禍が降りかかったことは無い。そのため、各地の町村は自衛のための武力さえ持たず、争いと名のつくものがあるとすれば、各地自慢の特産品を如何に高値で流通させるかにあった。
育ちの良い羊の毛をふんだんに用いた絨毯のような、なだらかで豊かな平野。その南西の一角に、大地が高々と隆起した高原がある。牧羊と紡績が盛んな、一際穏やかな時の流れる土地。ここで紡がれた衣類は造りの丈夫さで知られており、四季を問わず着られることでも各地でも良く知られていた。
高原に点在する村の一つ、ローエンの花屋に一人の少女がいた。
少女の名前はアルメリア。
よく笑い、よく働き、村人の誰からも愛される可憐な少女であった。
夜露の乾かぬ、鼻先に湿り気を感じる早朝の刻。彼女の一日は花の水遣りから始まる。
生まれた時から花々に囲まれ、こよなく花を愛する家庭に育てられた彼女にとって、年頃の女ならば誰しも敬遠する早朝の水仕事も、全く苦にならなかった。
むしろ、こうしてよく晴れた朝に、父と背中合わせで花の世話をするこの時間が、アルメリアには何よりも幸せな時間だったのである。
色とりどりの花を差した、一抱えほどもある大きな花壷の水を入れ替え、アルメリアは一息ついた。長い金髪を耳にかけ、父の背中を振り返る。
「この子たちいい顔してるね。お客さん喜んでくれるかな」
黙々と作業を続けていた父、ボッシュが曲げていた腰をおもむろに伸ばす。女にしては長身のアルメリアの背丈を二周りも超える巨躯。体を起こすその姿はまるで脈動する山を思わせた。
「きっと大丈夫だ」
肩越しにボッシュがぽつりと呟く。言葉数も少なく、一見無愛想なようでも、父の同意を得られてアルメリアは嬉しかった。
分厚く、そして見上げるほど大きな体。盛り上がった首に乗った骨ばった顔の上で、くるくるの赤い巻き髪が太陽に透けている。
この無骨で、可憐さとは無縁な男が両手一杯に大量の花を抱えた姿を、何も知らぬ者が見たらどう思うだろう。無表情に見えても、花と触れ合っているときは、内心小躍りしているという母の言葉を思い出してアルメリアは苦笑した。
この一帯では、ボッシュは世界中で誰よりも花を理解し、そして愛している男として知られていた。その辺りの事情を知ってからは、無口な父を怖がっていた幼少の自分もずいぶんと父を可愛く思えるようになったものだ。
水遣りもひと段落ついた頃になると、朝食の香りが外まで漂ってくるようになる。父の合図で仕事を引き揚げて、アルメリアは一番見栄えのする一輪を引き抜いてから母屋に戻った。
いつの頃からか続けている習慣で、朝の食卓に少しでも多くの彩りを添えようと始めたことだった。
家屋に戻ると母のリリーが朝食を並べ終えたところだった。
「ご苦労様」
二人をねぎらってリリーが微笑む。
長く滑らかな金髪は絹のような光沢があり、毛先までほつれやちぢれが見当たらないほど癖がない。常に柔和な笑みを絶やさない優しげな眼差しは、聖母のような温かな慈愛に満ちていた。
アルメリアは無論、母親似である。まだあどけない少女の面影が強いが、もう三年も経てば母のような美人になると村のもっぱらの評判だった。
不運にも父方の血を色濃く継いでしまったのが、今しがた開かない目で食卓に入ってきた、妹のリナリアである。齢はまだ十三歳ということもあり、体格的な兆候はまだ見られないが、赤い巻き髪はボッシュのそれと酷似していた。
伸ばしっぱなしにしているせいで爆発したように髪は広がり、更にそれを無理やり束ねようとしているものだから、なんとも奇妙な造形が頭の上にできあがっていた。
もっとも、一風独特な感性を持つリナリアに言わせれば、それも芸術であるとのことだったが。
「また遅くまで描いていたわね」
リリーが困ったような顔で咎める。娘の顔に絵の具の跡を幾筋も見たからである。
好物であるジャガイモのポタージュを前にして眠気も覚めてきたのか、リナリアがわずかに開いた目を照れたように細めた。
「えへへ、一度は寝たんだけど。夢で見たものを描いておきたかったんだよね」
言うなり、焼きたてのパンをちぎってポタージュに浸し、なんとも美味しそうにそれを頬張った。
髪型は父親譲りだったものの、リナリアの関心は花よりもそれを描くことに示された。七歳の誕生日に両親が画材を買い与えてからと言うもの、彼女はまさに取り憑かれたように絵に没頭した。今では定期的に隣村の画家の元に通い、三ヶ月に一度は平野の商業街に暮らす師を訪ねている。特に最近はその頻度が増してきていて、絵に対しては一層の熱が入っているようだ。
「ちゃんと夜は寝ないとダメよ」
リリーの小言に、ボッシュが大きな木のスプーンを口に運びながら無言で同意する。
その横でアルメリアは内心、冷や汗を垂らしていた。内容が内容だけに、いつ自分に矛先が向くかわからなかったからだ。
妹ほど大っぴらに夜更かしをしているわけではない。未だ真夜中に家を抜け出しているところを見つけられたことはないが、父の鉄面皮をも容易に見抜く母の眼力の前では、いつばれてもおかしくなかった。
急きたてられるように、アルメリアは流し込むようにして朝食を平らげる。
「行ってきます!」
あくまでも平静を装って食器を洗い場へ運ぶ。リナリアも倣うようにばたばたと後を追った。
「気をつけるのよ」
リリーの言葉を背に受けて、リナリアは自室へ、アルメリアは外へ向かう。二人を視界の端で見送りながら、ボッシュは食卓を彩る一輪の美しい花をただ見つめていた。
こうしてアルメリアの一日は、いつものように慌ただしく幕を開けたのである。
今日はよく晴れている。陽が差しているだけでなく、青空が突き抜けるように高い。こんな日は草花の香りが風に乗り、緑に包まれているような感覚が心地いい。爽やかな空気を胸一杯に吸い込み、アルメリアは細く引き締まった体を空に届かんばかりに伸ばした。
これから向かう花畑には、日に一回は必ず、多いときは三回ほど訪れる。そのためには決して易しいとはいえない森林の道を一時間以上かけて歩かねばならない。大の男でさえ根を上げるこの行程を何年も前から繰り返しているせいか、いつしかアルメリアは、草食動物を思わせるしなやかな体つきになっていた。
くっきりとした輪郭に、薄くとも適度な筋肉のついた背中。健康的な腰周りにはぴたりとした衣服が良く似合い、機敏に動く足は見ているだけでも気持ちがいい。肉感的とはほど遠いものの、すらりとした立ち姿がまさに一輪の花のようで、その可憐さに心打たれた男も少なくはなかった。
アルメリアが母屋から出てきたのを察知して、花壇の傍で丸まっていた鼻の尖った獣が、凝り固まった全身を解し始めた。耳の裏辺りを後ろ足で掻いてから、挨拶代わりに大きなあくびをする。
「おはよう、リリス」
六年前、森の中で傷ついて倒れているところを拾って以来、ここで飼っている。家族以外の人間には犬だと言い張っているが、実の所は狼である。当時はまだ小さな犬ほどの大きさだったものが見る見る成長し、今や後ろ足で立てば、鼻先がアルメリアの顔に届くほど大きい。金色の瞳は、力強い肉体に引けをとることなく、その眼光は野生的で鋭かった。
リリスという名はアルメリアが名づけた。メスである。
犬ほどの愛嬌はないが、リリスは大人しく従順で、そして何より利口だった。時折人語を解しているような素振りを見せることもあれば、動作だけで自分の意志を的確に示すこともあった。決して吠えて暴れるといったこともなく、小さな子供にも為すがままに触られる。度を過ぎた害が身に及びそうであれば、最低限の威嚇で追い払った。
人間にはとんと興味がないリリスだったが、拾い主だからか、アルメリアにはよく懐いた。外出するときはどこへでも付いてまわり、彼女の呼び掛けに対してだけはよく反応した。
アルメリアに頭を撫でられ、リリスが気持ち良さそうに耳を倒す。彼女が籠を背負うのを待ってから、リリスはぴたりと横につき、歩調を合わせて歩きだした。
「――?」
ふと、誰かの声が聞こえたような気がして、アルメリアは振り返った。無論、そこには誰もいない。不思議そうな顔でリリスがこちらを見上げているだけだった。
春風が耳をくすぐる。聞こえてくるのは自然の囁きくらい。
怪訝そうに首を傾け、アルメリアは止めていた足を再び動かした。
最近、度々同じよう感覚に陥ることがある。声ほど確かなものではないが、それは気配よりもはっきりとした感覚だった。
何度かそれと遭遇するうち、アルメリアは風の精霊が語りかけてきているのだと思うことにした。精霊の姿を見たわけでも、存在を感じているわけではない。言ってしまえばそれはただの願望だったが、そうでなければ説明できないような、不可思議な体験だった。
「今日は楽しみだね、リリス」
当然ながら足元のリリスは答えず、黙々と歩き続ける。
目指しているのは村の西南西、森を抜けた先にある崖である。眼下に深い森を見下ろす崖の淵の一帯に、色鮮やかな花が咲き乱れているのを、数年前に偶然見つけたのだ。
初めて立ち入った時は、あまりの美しさに言葉を忘れてしばらく立ち尽くした。水も土も十分にない過酷な環境で、それぞれが個性を力強く主張している。咲き誇る喜びが空気を通して伝わってくるようだった。
まだ見たこともない花がいくつもあり、見つけたその日は、日が暮れても帰ろうとはしなかった。
「そこはお前だけの場所にしなさい」
後日ボッシュにこの発見を知らせたとき、誰にも教えるなと、こう言われた。自分で育て、自分で選び、そして自分で世話をしろ。そうすれば、将来それがかけがえのない財産になる、と。
以来、アルメリアはこの秘密の花畑に足繁く通うようになった。その甲斐あってか、最近ではボッシュの育てた花とともに、売り物として出してもらえるようになっている。
森の中は日光が遮られて若干涼しいとは言え、ずっと休まず歩き続ければ体中に汗が吹き出てくる。息一つ乱さずに隣を歩くリリスが少し羨ましくなるくらいだ。
しかし、森を歩くのは嫌いじゃない。静かな空気と濃密な木々の香りが疲れを忘れさせてくれる。
そうして歩き続け、太陽が頭上に差し掛かった頃、ようやく森を抜けて開けた場所にでることができた。途端に、無数の色彩が怒涛のように押し寄せた。
崖下から吹き付ける風が額に貼り付いた髪を梳いていく。
崖の一帯に花畑が現れ、自分の蒔いた覚えのない花の咲く理由が、この風にあることを知ったのはいつだっただろうか。下の大地で落ちた種子が、風に乗って崖上まで舞い上がり、森にぶつかってそのままこの地に根付くのだ。
花を踏み潰さないように作った道を注意深く進み、崖の淵から遠くを眺める。見えるのは地表を覆いつくさんばかりの深い森と、その先にうっすらと見える青い海。
ここの風は常にこの方角から吹いてきている。無数の種子たちの故郷が、この視界のどこかにあるはずなのだ。
それを探し出すこと、そしてもう一つ、自分が世界で最も美しいと思う花を見つけること。この二つがアルメリアの生涯の夢だった。
その夢を追うための、一度目の旅の出発日がいよいよ明日に迫っている。
十七歳の誕生日に旅に出る。それが両親との約束であった。
もうすぐ眼下の森も、今は遠い海もその先も、もっと近くで見ることが出来る。
待ち遠しさに恋焦がれていると、リリスが服の裾を噛んでぐいっと引っ張ってきた。
危ない、ということらしい。
「大丈夫よ、わかっているわ」
革袋の水を持参した器に注ぎ、リリスに与えてやる。そして、アルメリアは遅くならないうちに終わらせようと、持ち帰る花の選別を始めた。
知らず知らずのうちに顔がほころんでいた。