一方その頃、アステリア伯爵家では地獄が始まっていました
アステリア王国の伯爵邸。 そこには、昨夜までの華やかな雰囲気は微塵も残っていませんでした。
「どういうことだ⁉ エルヴィラ‼ なぜ光が消えたのだ‼ 」
伯爵の怒号が、豪華なサロンに響き渡ります。 目の前では、この世の終わりを見たような顔をして、金髪の少女――エルヴィラ様がへたり込んでいました。
「わ、分からないわ。お父様……。朝起きたら、急に体が重くて……。今まで使えていた癒やしの力が、全く出ないのよ‼ 」
彼女が震える手で魔石に触れても、昨日までのように眩い光が溢れることはありません。 魔石は不気味なほど沈黙を守り、石ころのように冷たいままでした。
「そんなはずがあるか‼ お前は聖女なのだぞ。あの出来損ないのレティシアを供物に出したのだから、神の加護はより強まるはずだろう⁉ 」
伯爵は狂ったように机を叩きました。 彼らはまだ気づいていなかったのです。 エルヴィラ様の魔力は、彼女自身のものではなかったことに。 レティシアという真の源泉から、呪具を使って強制的に奪い取っていただけの、偽りの輝きだったということに。
そこへ、青ざめた顔の騎士が駆け込んできました。
「ほ、伯爵閣下‼ 大変です‼ 北の絶望の森を覆っていた浄化の結界が、すべて消滅しました‼ 」 「なんだと⁉ 」 「さらに、森から溢れ出した魔物の軍勢が、すでに国境付近の村を襲い始めております。国王陛下からは、至急、聖女を戦地へ向かわせよとの命が下っておりますが……」
騎士の言葉に、エルヴィラ様は悲鳴を上げて頭を抱えました。 「嫌、嫌よ‼ 力が出ないのに、あんな汚らわしい魔物のところへ行くなんて、死んじゃうわ‼ 」 「黙れ‼ 行かねば我が家は改易、いや処刑だぞ‼ 」
昨日までレティシアを蔑んでいたその口で、今度は互いを罵り合う伯爵親子。 彼らの足元から、これまで築き上げてきた富と名声が、砂の城のように崩れ始めていました。
一方、ノクティス帝国の帝都。 私は、ヴォルデレード様に連れられて、賑やかな市場を訪れていました。
「……すごい。なんて賑やかなんでしょう」
私は目を輝かせて、通りに並ぶ店々を眺めていました。 帝国の人々は、皆が活気に溢れ、幸せそうに笑っています。 魔王が支配する恐ろしい国だと聞いていましたが、事実は正反対でした。 街の人々は、ヴォルデレード様が通りかかると、皆が親しみと敬意を持って頭を下げます。
「レティシア、この宝石はどうだ? 君の瞳と同じ、輝くような緑色のエメラルドだ」 「えっ、あ、あの……こんなに大きなもの、私には勿体ないです」
彼の手には、卵ほどの大きさがある見事な宝石が握られていました。 けれど、ヴォルデレード様は私の言葉など聞く耳持たず、という様子で店主に金貨の袋を投げ渡しました。
「勿体ないなどと言うな。君を飾るためなら、帝国の国庫を半分空にしても構わない」 「あなた……言い過ぎですっ‼ 」
私は顔を赤くして彼を窘めました。 けれど、彼にエスコートされて歩く街は、まるできらきらとした魔法にかかったようで。 道ゆく人々が「なんて美しい妃様だ」と囁くたびに、私の胸はくすぐったいような、それでいて満たされたような気持ちになるのでした。
「……レティシア」 「はい、ヴォルデレード様」
彼は立ち止まり、私の銀髪を優しく耳にかけました。 その指先が触れるだけで、私の体温が跳ね上がります。
「私は、君に一つ謝らなければならないことがある」 「謝る……ですか?」
彼のような完璧な方が、私に謝る理由なんてどこにもありません。 不思議に思って彼を見上げると、その緋色の瞳には深い決意が宿っていました。
「……昨夜、君を森で見つけるまで、私はこの世界を壊してしまおうと思っていた」 「……え?」 「私の魂を蝕む呪いと、魔族を疎む人間たちの傲慢さに、ほとほと嫌気がさしていたのだ。……だが、君が現れた。私の手を取ってくれた」
彼の大きな手が、私の頬を包み込みます。 「君の存在が、私の世界を繋ぎ止めた。だからレティシア。君は自分のことを無能だなんて、二度と言わないでくれ。君は、私にとっての世界そのものなのだから」
あ、あ……。 心臓の音がうるさくて、倒れてしまいそうです。 こんなにストレートに愛を告げられたことが、今まであったでしょうか。
「……私も、あなたに出会えて良かったです。……暗い森の中で、あなたが私を見つけてくれたこと、一生忘れません」
私が微笑むと、ヴォルデレード様は耐えきれないといった様子で私を強く抱きしめました。 周囲の視線も気にせず、彼は私の首筋に顔を埋めます。
「……ああ、ダメだ。今すぐ城に帰って、二人きりになりたくなった」 「えっ⁉ ちょ、ちょっと待ってください、閣下……まだお買い物も……」 「買い物なら後で魔法で取り寄せればいい。今は、君を独り占めしたい」
情熱的すぎる彼の言葉に、私は顔から火が出るほど赤くなりながら、彼の背中にそっと手を回すのでした。




