第1話 堕とす悪魔と落ちない聖女(5)
バックバーの前に立っている事、白いシャツに黒いベストを着ている事から、バーテンダーである事は疑いようがないだろう。普通の人間ならば。
しかしメイには、先程までそこに立っていた人物には思えなかった。
メイは動物霊を使役する術師である。
動物霊は気配を消すのが恐ろしく上手い。だからこそ、彼らと向き合ってきたメイは誰よりも気配に聡かった。
かがんでたから見えてなかったとか? ううん、無から急にそこに現れた、あるいは別のバーテンダーと急に入れ替わったような……。
バーテンダーの甘く垂れた目が、戸惑うメイを捉えた。
「ご注文はございますか?」
「あ……ええと」
うっとりするような声と目に、メイは反射的にバーテンダーから目を逸らす。そうでなければ、呑まれそうだったからだ。
――もしかしたら、人外かもしれない。
悪魔が一人とは限らない。その事に気づいたメイは、メニューを見ているフリをしながら考える。
この男が人外なら、その正体は何だ。警戒音のように鳴り響く脈を聞きながら、メイはバーテンダーの姿を思い浮かべた。
誂えたようにバーテンダーの服が似合う。無頓着に黒い服を選ぶアキトとは違い、その黒と白はバーテンダーが持つ存在感と色気をより際立たせた。顔立ちは太く凛々しい眉に、甘く色っぽい目、見た目は二十代後半から三十代……。
……あれ?
メイは顔を上げて、改めて彼を見る。
バーテンダーはきょとんとして、素の口調でメイに話しかけた。
「……もしかして、さっきぶつかった嬢ちゃん?」
「あ!?」
メイはホテルのフロントでの事を思い出した。
バーテンダーは「あ、悪い」と言いかけて、慌てて「失礼致しました」と頭を下げた。
「馴れ馴れしくお声がけしてしまいました。申し訳ございません」
「いえ、全然大丈夫です! さっきのお兄さんですよね!」
相手が顔見知りである事、砕けた言葉を使った事で、メイの身体から一気に緊張が抜ける。
バーテンダーが「もし宜しければ」と言った。
「さっきの口調に戻しましょうか」
「え?」
「かしこまった口調のせいで、緊張されているようでしたので」
メイの目では、人間か、人間に化けた人外なのか判断することはできない。
ただ、敵意を感じない。
首を傾げて口元を緩める男を見て、メイは自身の勘を信じる事にした。
「……じゃあ、くだけた方で! 実はバーは初めてなんで、どう話しかけていいか悩んでたんです」
「あいよー。って、これだとくだけすぎるか?」
「加減難しいなあ」とぼやきながら、バーテンダーは人好きそうな笑みを浮かべる。つられてメイも、自然と笑っていた。
「そんじゃ、リクエストとかある?」
「あ、じゃあ私をイメージしたショートカクテルお願いします!」
「初見ですげぇ困るもん頼むじゃんお客様」
「ロングカクテルなら思いつくんだけど……」と返したバーテンダーに、「じゃあそれで!」とメイは返す。
バーテンダーはワイングラスに氷を入れ、注がれたウォッカとグレープフルーツジュース、赤いシロップを長いバースプーンでかき混ぜる。
「振らないんですね。カクテルって振るイメージあった」
「シェイクを使うのは、主にショートだなあ」
「シェイクかっこいいよなー」と言いながら、バーテンダーはメイの前にワイングラスを置く。
出されたのは、コーラル色のカクテルだった。
「わー、かわいい。名前なんて言うんですか?」
「『グレイハウンド』って言うんだけど」
「え、猟犬ですか?」
思わずメイは聞き返す。
グレイハウンド。世界最速の犬種として知られ、かつてはドッグレースにもよく見られた大型犬である。
「そうそう。そのグラスの縁に塩つけると『ソルティ・ドッグ』になる」
「あ、聞いたことあります」
「今回はそれにザクロシロップを入れてる」とバーテンダーは付け足す。
ザクロはハデスとペルセポネ、鬼子母神など、古今東西の伝説に深く関わりのある果物である。
飲んでみると、グレープフルーツとは別の甘みと酸味がメイの口の中に広がった。
「とっても美味しいです!」メイの言葉に、「それは良かった」とバーテンダーが口元を緩める。
「でもどうして、これを選んでくれたんですか?」
色がそれっぽかったのかな?
ワイングラスを傾けながらメイが尋ねると、バーテンダーは口角を上げて笑う。
――その奥に、牙のような八重歯が見えた。
「いや何、動物が好きみたいだから、犬も好きなのかなって」
メイの肩の上で、使役しているタイワンリスの霊がくるんと走る。
「え?」
メイが尋ねたのと同時に、入口の扉のベルが鳴った。
アキちゃん帰ってきたかな?
そう思いながら振り向いたメイの予想は外れる。
そこに居たのはアキトではなく、獅子王だった。
「げっ」バーテンダーが苦々しく声をあげる。一瞬、獅子王の覇気のない顔に驚きの色が見えた。
「……なんだ、ここに居たのか」
「メイさんもちょうど良かった」と獅子王は呟く。
「所長? どうされたんですか?」
仕事の話だろうか。席を立とうとしたメイよりも早く、獅子王が口を開いた。
「先程、調査班から連絡が入った。ライバル社が契約したと思われる悪魔が、このホテルに潜伏しているようだ」
「え!?」
人目を憚らず仕事内容を口にする獅子王と、獅子王から語られたその内容に、メイは二重の意味で驚いた。
メイはちらっとバーテンダーの方を見るが、バーテンダーは真顔で表情が読めない。
「至急、その悪魔に関して調べて貰いたいのだが……アキトさんはどうした?」
「アキちゃんはさっき、トイレって言って……」
まさか。
メイはバーから飛び出し、近くの女子トイレと多目的トイレを確認する。しかしトイレには誰もいない。――アキトの姿も。
トイレから出てフロントに出ると、獅子王が待っていた。
「所長! アキちゃんいません!」
「悪魔に『気に入られた』可能性があるな」淡々と獅子王は告げる。
「という訳だ、ベルフェゴール。お前なら、アキトさんを探せるだろう」
「……もうしているか」獅子王が独り言を聞きながら、メイは唖然とした。
フロントには、右腕を伸ばしたバーテンダーが立っていた。
バーテンダーが何かを唱えると、足元には青白く光る魔法陣が浮かぶ。同時に黒い稲光とつむじ風が轟音とともに現れ、バーテンダーの身体を包んでいた。
その隙間からは、人にはない黒い角が見える。
やっぱり悪魔……ってか!
「ベルフェゴール!? ベルさんなんですか所長!?」
「なんだ、知らないで話していたのか」
「てっきりアキトさんの様子を聞くためにメイさんと話していたのかと 」と獅子王が言う。
「いや彼フツーにバーテンダーやってましたよ!? なんでいる、って言うか働いてるんですか!?」
「アキトさんを心配しての事だな。珍しくない。というか良く来ている」
「よく来てんの!?」
「働いてるのは、家賃食費その他もろもろを稼ぐためだな。ヤツは不定職だ」
「悪魔なのに!?」
獅子王とメイが掛け合っている間に、黒い稲光と風が刃となって飛んでいく。それは流水が流れる大理石へと向かって行った。
しかし稲光と風の刃は大理石を壊すことなく、その寸前で空間を切り開く。
別空間に繋がるその入口からは、アキトの姿が見えた。




