第六話 復活よしこ、危機に陥る
次の日、風邪を引いた。一概に昨日のことが原因とは言えないが、要因の何割かは担っていると思う。
咳は出るし、喉は痛い。鼻水は滝のように流れるし、何より体がだるくて動くことができなかった。一日学校を休むと、土日が来たので、じっくり三日間安静にすることができた。土日に休みが取れない両親に代わり、あくせくと介抱してくれた弟に感謝する。彼の少々直接的な物言いは気になるが、器用で頼りになる弟君で本当に助かったと思っている。
吉川くんも弟みたいだったらと、ふと願った。吉川くんより二つ年下の弟の方が大人に見えてしまうことがある。そう、例えば今、切実に思う。
「よしこ、手、動かせ」
ベンチに座り、私に指示をする吉川くん。私は手洗い前の鏡を新聞紙で拭いていた。掃除の間、トイレの入り口を開いたままにしているため、こちらの動きは彼に丸見えだ。
「うん」
彼が掃除を手伝ってくれたことは一度もない。教室に出る際にお金を渡され、トイレへ向かう時に自動販売機に寄る日々が続いている。今は四月の第二週目の水曜日。吉川くんとトイレ掃除をし始めてから一週間が経った。
一週間を通して気付いたことなのだが、彼はやる気が無いはずなのに私がトイレに来ると、既にベンチに座っている。掃除を行わないのなら、わざわざトイレに来なくて良い。そうすれば私はパシられなくて済む。だけれど、彼と面を合わせて、「来なくていい」なんて言えない。怖い、恐ろしいという脳に刻みこまれた記憶は、そう簡単に消え去りはしない。ぼろぼろに風化した記憶だとしても、彼方奥底にそれは眠っている。
吉川くんが、苛めっ子、杜城くんと重なり、過去のことを思い出してしまうのだ。彼らは似ている。言動や纏っている冷たい雰囲気が。
知らず知らずの間に、新聞紙を握っている手は、動きを止めていた。
どうやって吉川くんに接して良いのか分からない。過去の二の舞いになることは避けたいが、回避する術を知らない。知っていたのなら苦労することはなかっただろう。罵声と嘲笑、逃れられるならとっくに逃げている。
「どうした」
吉川くんが私の持っている新聞紙を取り上げ、ゴミ箱に放り込む。私は反射的に一歩後退した。
「体調悪いのか?」
「ううん、違うけど」
彼に合わせて上を向いていたが、次第に居た堪れなくなって視線を外した。掃除道具入れから箒を取り出し、今度は床を掃き始める。吉川くんから逃げるために、トイレの奥から箒を進めた。彼はベンチに戻って昼寝を始めた。
彼が寝ているというだけで、気持ちが楽になる。そのぶん掃除ははかどった。すぐに危機がやってくるとは露ほどにも思わず私は安心しきっていたのだった。
砂を踏む靴音で、第三者の訪れを感じた。
箒を使用していたため、下ばかり向いていた私の視界に、見慣れない靴が入る。反射的に顔を上げた。
見慣れない靴の持ち主は、やはり見知らぬ男子生徒だった。吉川くんより少し低めの身の丈で、紺色に染められた髪が目立つ。タレ目が柔和な印象を与えている。
そうだ、ここは男子トイレ。今まで掃除中に誰も訪れなかったので忘れかけていた。
彼の邪魔にならないようにさっと脇に避ける。早く退散しなくては。
だが、紺色頭の男子はその場に立ち止まったままだった。彼がトイレの入り口を塞いでいるので、出たくても出られない状況に陥る。
男子トイレでばったり出くわすなんて気まずすぎる。顔に熱が集まっていく。火を噴きそうだ。
紺色頭の生徒は石のように固まった私を見て、目をスッと細めた。口端が徐々に上がっていく。にやりと歪められたその表情は正に嘲るもので、私は嫌悪感を抱き、顔に集中していた熱が発散されていくのを感じた。
嫌な顔で笑う人だ。吉川くんより酷い。私から見れば吉川くんは悪人面で、嘲笑してもそれがぴったり似合う人だ。だけれども、この男は元の顔がなまじ優しく感じるため、意地悪く笑うと似合わない。普段から人を小バカにする人が口汚く私を罵るより、穏やかな顔をしている人が私を嘲笑う方が恐ろしい。それが他人だとするとなお更に。
「なにやってるんだよ」
寝ていたはずの吉川くんが紺色頭を押しのけ、私の腕を引いた。
ベンチに無理やり座らされる。扱いは無骨で酷いものだったけれども、彼に手を引かれた時、ほっとしてしまった。
「ね、寝てたんじゃ?」
「起きてて悪かったな」
吐き捨てるように彼は言った。心臓の拍動が一瞬止まったかと思った。
確かに吉川くんが寝た時、凄く心にゆとりができた。しかし、今は起きてくれて良かったと心から思う。
「違う、そういう意味じゃない」
立っている吉川くんを見上げた。彼と知り合ってから、こんなに至近距離で堂々と彼の瞳を見たことはない。私は元来、人と目を合わせることが苦手だ。こうして恐ろしく思っている人と向き合うなんて、普段ならあり得ないことだ。この性状を上回るほど、彼の台詞に精一杯反対したい気持ちになってしまった。吉川くん相手だとどもってしまうことが多いのに、はっきりと彼に反論した。
「どういうことだよ」
「どういうことかは良く分らないけれど、違うと思う」
吉川くんは私に聞こえるように舌打ちをした。聞き慣れたはずの舌打ちが、私を追い詰めた。私の言葉は彼に伝わっていない。そもそも自身の主張がしっかり持てていないのに、語りだそうとすることに無理があった。
「お前、意味わかんねえ」
彼はぷいっと顔を背けた。全くそのとおりだと、危うく私は同意しかけた。