第五話 ティータイム
トイレ掃除二日目に突入した。
両手に紙パックのアイスココアを持ち、朗らかな春の陽気を味わいながら歩く。この二つアイスココアはパシり大魔王吉川くんと私のものだ。うららかな気候とは裏腹に私の心はどんより曇っている。昨日、吉川くんにパシリ宣言をされたのだ。彼にかなりの苦手意識を抱いている。
「よしこ、持ってきたか」
「……うん」
掃除場所に着いた途端に奪われるココア。奪われるといっても私のものも含め、彼の財布から出してもらっているので、それは構わない。奢ってくれるのは有り難い。どちらかというと「よしこ」と呼ばれることを批難したい。
クラスメートで私のフルネームを言えることができる人はいないだろう。勿論吉川くんも含めてだ。
私には吉川由という名前がある。「吉」「由」、名前の中に「よし」が二つ付いており、覚えやすいとは思うのだが、いかんせん私の存在自体が不透明度五十パーセントなので、名前を覚えてもらえないのは、仕方がないと思う。それでも「よしこ」は酷いと思った。例えば「よし」が二つ付いているから「よしこ」。このような納得のできる理由ならば良いが、吉川くんは面倒だからという理由で私にあだ名を付けたのだ。初めてあだ名を付けた相手が、鬼畜の吉川くんということも私に大きなダメージを与えている。
そんな私の気持ちなんて、これぽっちも察していない吉川くんは、ストローを挿さずに紙パックを手で開けて飲み干す。彼は紙パックから唇を離した時、微かに目を細めた。飲み物の内容は昨日と同じだ。単に私が吉川くんの好みが分らなかったので、同じ物を買うという無難な方向に逃げたのだ。文句は言われない。その選択は間違っていないと思いたい。彼が不機嫌にならないか、じーっと観察していたら不意に目が合った。
「飲みたいなら、飲めばいいだろう」
どうやら彼は喉が渇いていると勘違いしている。そんな物欲しそうな顔をした覚えはないのに。
吉川くんは一人でベンチを占領していたが、右にずれ左側に人一人分座ることのできるスペースを作る。まさか……座れということか。今度は彼が私をじっと見つめた。吉川くん嫌いの私にとってそれは拷問のようなひと時だった。見つめるというような優しいものではない。三白眼で私を脅してくる。耐え切れず、かちあった視線を外し、吉川くんの左側に座る。こんなことで塗炭の苦しみをなめなければならないとは思いもしなかった。
「あ? 何だよ」
溜息を零したら、間髪入れずに突っ込んでくる。
「なんでも……」
ない、けれども。言葉を終える前にぬっと私に近付いてくる。我知らず後ずさってしまう。
「言いたいことあるなら言えよ。そうやって押し黙るの、好きじゃない」
そんなことを言われたら、嫌でも何か話さなくては、と焦ってしまう。目を逸らしつつ、どうでも良い疑問を独り言のようにぼそりと零した。
「な、何で帝華堂のアイスココアなの?」
猫のようにのびのびと欠伸をしていた吉川くんが、腕を上げたまま固まった。
「よしこは嫌いなのか?」
曖昧に首を傾げた。毎日飲むほど好きなわけではないが、忌み嫌っているわけではない。可もなく不可もなしといったところだ。
あからさまに舌打ちされて、やはり、質問などするべきではなかったと激しく後悔した。
「人気のある俳優が帝華堂のココアのコマーシャルやってるだろう? 女子に人気があるやつ」
脈絡のないことを訊かれ、ますます困る。
「テレビ……コマーシャル? ど、どういうこと?」
何故、女子の意見が関係あるのだろう。
「よしこは俺に合わせて同じものを二本買ってくるって見越してた。アイスココアなら、一応女子のよしこでも好きだろう?」
そんなぶっきらぼうな物言いに、私は心なしか口元が緩んだ。
その後、うって変わって、吉川くんの間にまともな会話が成立しなくなった。沈黙が辛い。私からは絶対に話しかけないし、吉川くんが何かぽつりと漏らしても、相槌を打つだけだ。それもやがて途絶え、心底困り果てた。
仕方がない。ココアに逃げよう。「いただきます」と声に出してからストローに口を付ける。
春のポカポカした陽気なのに私は震えが止まらない。歯がガチガチなるほどに寒気を感じる。無理して冷たいものを飲んだ結果、体を冷やしたのだ。それでも飲まずにはいられない。彼との間が持たないのだ。
「寒いのか?」
カクンと頷いた。
「風邪引いたのかもな。ここんとこ暖かくなったけど、宵は寒いし。早く帰って寝れば?」
「でもっ……掃除が」
慌てた。吉川くんが、私の体調を気にしていることが奇妙で仕方がない。人間というのは――少なくとも私と言う人間は慣れないことに直面すると頭の中がヒートアップする。
今日こそ天変地異の前触れだろうか。妙に体がほってってきた。
「お前、面白いな。青くなったと思えば赤くなるし。まあ、掃除は今日くらいサボってもバレないだろ。とにかく帰れ。その顔、もっと酷くなるぞ」
吉川くんは手を口に当て嘲る。……悔しい。結局のところ、彼は体調を気遣っても、気遣わなくても彼は彼だ。私の天敵に違いない。
『吉川さんと吉川くん』のファイルが入っているUSBメモリを紛失してしまっため、バックアップからの投稿です。どこかしらに不備があるかもしれません。……申し訳ありませんでした。