第三話 初めてのおつかい
自動販売機の前まで来たが、どうも腑に落ちない。そもそも、何故私が吉川くんの飲み物を買わなくてはいけないのか。買うか買わないか迷う。
買わないとどうなるかは考えたくない。自尊心を押し込めて、五百円玉を投入口に当てた。数秒間その体勢で固まる。買ってしまったら、吉川くんの言いなりになる生活が始まるかもしれない。しかし、買わなければ彼は激高するだろう。
五百円玉が自動販売機に投入することはなかった。
自動販売機を後にする。ちっぽけなプライドがあの時の私を制したのだ。これで、いい。
風が桜の枝を揺らし、花びらは散る。それは踊り、道をくるくると円をかくように駆ける。その動きを見てブルーな気分に浸った。
手の平の中にある五百円玉は、人肌で温かくなっていた。これを返さなくてはいけない。その最大の試練が私をブルーな気持ちにさせているのだ。
暗い気持ちを抱えたまま外トイレに着くと、思いがけない人物を見つけて目を見開いた。寂れたトイレの前に置いてあるベンチに座って、ふんぞり返っている吉川くんが、こちらに気付き、一瞥してくる。
信じられない。確かに飲み物を買って来いとは言われたが、彼はトイレに行くとは言っていない。教室に持っていかなければならないと思い込んでいた。
驚きのあまり硬直していると、吉川くんが近付いてくる。我に返り、彼と一定の距離を保つために後ずさった。蔓がはびこるトイレの壁に背がぶつかる。
これ以上近付かないでと、声を上げたかったが、思うように舌が動いてくれない。
「おい、買ってきたんだろ」
目を三角にした吉川くんは、横暴な口調で言ってのける。
はっと、ある存在を思い出した。手の平の五百円玉を、勢い良く吉川くんに差し出す。彼の手に触れないように細心の注意を払い、手の平にそれを落とした。
「買うの忘れてた……」
苦しい言い訳をして頭を下げた。
「行って来い」
さも当然そうに言われたことの意味が、分からなかった。再び固まっている私を見て、彼は言い聞かせるように、おもむろに命令した。
「買って来い」
「でも……」
「走れ!」
あまりの大声に驚いて跳びあがり、荷物を置いて走り出した。結局は酷使される運命なのだろうか。あの最悪な過去を思い出し、頭を振った。
「よしこ待て!」
息を乱しながら振り向くと、またもや五百円玉が私に向かって投げられる。今度は弧を描きながら飛んできたので、空中でキャッチしようと両手を上げたが、指で五百円玉を弾き、顔に当たった。
硬貨が当たった鼻がじんじん痛む。思わずしゃがみこみ、手の平でぺたぺたと触り確認する。大丈夫だ。これといって外傷は見当たらない。冷静になったところで、五百円玉のことを思い出す。地面に顔を近づけ、手で探ってみたが見つからない。他の場所も見てみようと動き出した時、私の制服の中で、冷たくて硬い物がストンと動く。
「うそ……服の中?」
そんなバカなと思いながら、ボディーチェックをする。お腹の辺りにひんやりとした感触がある。襟から入るなど、あり得ない。自分の間抜けさに呆れていたら、笑い声が耳に届いた。
吉川くんが腹を抱え大爆笑している。目にこみ上げてくるものを堪え、カッターシャツをスカートの中から出し硬貨を取り出す。悔しくて、腹が立って、それをきつく握り締めた。