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吉川さんと吉川くん  作者: Light Up Field
エピローグ
31/31

悪夢の行方

「由!」 

 帰りのホームルーム終了後、勢い良く教室の扉が開いたと同時に飛び込んできた声は、クラス中の注目を集めた。

 赤茶色の髪の毛を散らしていることに構わず、私に駆け寄ってきたのは――毎度お騒がせの早河さんだった。彼女の右手はある男子生徒の襟を掴んでいる。

「まず、日比くんを……放してあげようよ」

「え? あ、忘れてた」

 想い人の存在をすっかり忘れていた早河さんはどうかと思うが、先ほどまで襟首を押さえられて引きずり回されていた日比くんの、我関せずといった様を見て、杞憂は必要ないと悟った。彼は、早河さんが勢い余って外しかけた教室の扉をはめなおすと、私たちから数歩離れた場所に立ち、いかにも「他人です」といった風に体裁を整えている。早河さんは存在するだけで華やかだから、どちらかというと私寄りの雰囲気を纏っている日比くんが、早河さんを近寄り難いと思うのは良く理解できる。こんな本音を早河さんに告げたら憤怒しそうだな。

「今日はどうしたの?」

「特に取り留めない話なんだけど」

 はっきりとした定めもないのに、あんなに派手に登場できることに尊敬の意を抱いた。彼女のパワフルさは天下一品だ。

「バカの空回り……」

 うん。日比くんの呟きは無視しよう。幸いにも早河さんは気付いていない。

「あのね、美味しいケーキ屋が最近オープンしたんだって」

 これは本当に取り留めもない。

「それで?」

「うわっ。日比と同じ反応……冷めてる」

「ご、ごめん。そんなつもりじゃ」

「いいけどさ。慣れてきたし。で、ケーキ食べに行かない? 私と日比と、由で」

 行きたい。けれども、今日の持ち合わせは少ない。毎度、財布の中身が首を絞める。

「ごめん。金欠で」

「そんな何回も謝らなくていい。よし、今日は奢る」

「悪いよ。二人で行ってきたら?」

 この面子では、私がお邪魔虫になってしまう。彼女の気持ちを知りながら、二人の間を割ってはいるのはどうかと思う。お金の面だけで私は身を引いたのではない。

「ノンノン。私は由にも見せたくって、誘ってるの」

「何を?」

「ケーキ屋にね、美男子がいるんだって。結構女子の間ではウワサになってるよ。しかも一人だけじゃない。目も眩むようなオトコが二人も」

 びくつきながら日比くんを見ると、相変わらず超然とした態度で窓の外を窺っている。器が大きいというか、こちらへの興味が全くないというか。

「そんなに渋るなら、吉川も呼んじゃおう。日比、いいよね?」

「ご自由に」

 吉川くんを持ち出されたことに焦りを感じる。先のトイレ取り壊し以来、彼と顔を合わせたことがない。私との関係性は未だ釈然としていない。彼が私の気持ちを知って、私も彼の気持ちを知って、その後はどうすれば良いのだ。

 そんな困惑をよそに話はどんどん進み、私、吉川くん、早河さん、日比くんという組み合わせでケーキ屋に向かうはめになっている。つい、こそこそと早河さんの右隣に移動し、吉川くんと距離を置いてしまった。どんな顔して会えば良いのか、まだ整理が付いていないのだ。

 やがて前方には日比くんと吉川くん、そして後方には私と早河さんという風に分裂してしまった。意外にも彼らは会話を成立させているようだ。明らかにタイプが違うのに――男子とは不思議な生きものだ。

「ちょっと! 吉川、歩くの早い」

「悪い」

 早足になって彼らに追いつくと、早河さんは口を尖らせて宣言した。

「今後置いていったら、おぶさってもらうからね。それでいいよね、由?」

 いくらジョークだと解っていても、ノリきれない。

「それは無理だろ」

 吉川くんは鼻で笑う。

「腹立つ。確かに吉川より私は重いだろうけどさ!」

 とんでもない暴露を聞いてしまった。早河さんの名誉のために説明しておくが、彼女はビーチバレーを嗜んでいることもあり、程よく筋肉が付いている均等の取れたプロポーションを持っている。今時の女子高生のような、行き過ぎた細さがあるわけではないが、私みたく脂肪を持て余してはいない。対して吉川くんは背後から見ていると気付くように、猫のよう――さながらサバンナのピューマのような身体のスマートさだ。男女間で脂肪の付き方が異なることは重々承知している。しかし、スラックスを腰履きしていようが、脚線美をくっきり出している彼を見て羨ましいと思うのは禁じえない。早河さんでも引け目を感じるのだ。勿論私なんかは何も口出しできなくて黙りこくっていた。

「吉川、気を付けた方がいいよ。将来、相手の性別に関わりなくセクハラされそうだから」

 真剣な調子で日比くんが吉川くんに忠告する。思わず私も頷いて同意を示す。早河さんはすかさず反論した。

「いやいや、それはないね。わざわざこの柄の悪い吉川にそんなことする? するなら由みたいなボケッとしたタイプでしょ」

「まあ確かに、早河よりはよしこを狙うな。気の弱そーなヤツ」

 吉川くんは私をちろっと見て言った。

「私が、気が強いって言いたいの?」

 早河さんと吉川くんのやり取りに、どう口を挿んで良いのか本格的に解らなくなる。ぽんぽん交わしている言葉のキャッチボールに付いていけなくて、日比くんと二人して会話に耳を傾けていた。

 吉川くんと早河さんは仲が良い。こんなに気軽に話せる相手なんて、めったに居ないだろう。どんどん会話が流れて、早河さんの関心があらぬほうへ行ってしまう。

「それとさあ、そもそも何で由のこと『よしこ』って呼ぶの? わざわざ長くしなくても」

 それは彼が私の名を知らないから、苗字の「吉」に、女子だから「子」を付けただけだと思うのだけど。「吉川女、面倒だからよしこ」って本人が言っていたし。

「名前に『よし』が二つも付いて、女だから『こ』。ただそんだけ」

 知らず知らずの間に足を止めていた。つまり、「よしこ」と名付けた当時、私のフルネームを知っていたことになる。

「なら吉川は『よしお』じゃん。『吉川考伸』だって『よし』が二つで付いてるから、男子だから『お』」

「『よしお』なら呼び捨てられた方がマシ」

「それなら由だって『よしこ』は嫌じゃない?」

「そうなのか?」

「ううん。慣れたからそうでもないけど」

 昔は好きではない名だったけれども、今は吉川くんにそう呼ばれると、情けないことにほっとしてしまう。

「よしこ、か。良いじゃないか。例えば(きち)()っていう漢字を当てはめてみるとしたら、『吉』はめでたいってことだし、『子』は分解すると『一』と『了』だろ? 始めから終わりまで。生を()けてからから天命を全うする時まで、めでたいってことだから、悪いイメージはないな」

 眼鏡を掛けなおしながら、スラスラ説明する日比くんに感心する。あだ名一つでそこまで深く考えられる人はそういない。早河さんは瞳を輝かせている。

「へえ。『吉』が永遠ってことね。違う意味にも捉えられるけど」

「今、物凄くくだらんことを考えただろう」

 吉川くんが眉間に皺を寄せる。くだらないことに心当たりのない私は早河さんに聞いたけれど、そ知らぬ顔で相手にしてくれない。なんとなく吉川くんに尋ねるのは気が引けた。

 あれやこれやと吉川くんと早河さんが言い合っている間に、目的のケーキ屋に到着した。店名は「甘菓子屋」。見覚えがありありで、本当にここが目的の場所か不安になった。

「ここなの?」

「そうだよ」

 嬉々とした早河さんを先頭に入店する。

 足取りが重い。まさか杜城くんに連れてきてもらった店だったなんて思いもしなかった。道程で気付かなかった間抜けさに嘆息する。だいたい、前に来た時は美男子とやらは居なかった。あの時は二十代後半の女性に対応してもらったはずで、他に店員が居らず、どこか閑散していたのだ。だが今日は席という席全てが埋まっており、大繁盛している。

「由はどれにする? あー選びがたい。そうだ、一口交換しよ?」

「うん」

 今にも飛び跳ねんばかりの彼女の様子に苦笑しながら、私もスイーツを選びにかかる。

「御用がありましたら、お気軽に申し付け下さい」

「あ、は……」

 店員さんの声掛けに顔を上げる。言葉にならなかった。これは確かに目が眩む。エプロンを付けた店員さんは淡い金髪に、淡いブルーの瞳持っていた。歳は二十と三十の瀬戸際辺りに見え、顔立ちは彫り深く明らかに日本人ではない。そのくせ、日本語は淀みない。日本に来てから長いのだろう。

「うわあ。殺傷能力高っ。確かにこれはウワサになるわけだ。どこの国の人だろう」

 店員さんが一度奥に戻った際に、早河さんは感嘆の息を漏らした。

「同感」

 頷いたのは日比くんだ。吉川くんはケースの中のスイーツを見つめており、店員さんには興味がないようだ。

「もう一人の美男子にも期待できるわ」

 バシバシ背中を叩かれて、彼女の興奮が伝わってきた。

「声でかいぞ。早く決めろよ」

「むむっ。じゃあ吉川は決めたの?」

「お決まりでしょうか?」

 店員さんの爽やかな笑みに蕩けている早河さんを押しのけて、吉川くんがぼっそとした声で注文を出す。

「申し訳ありません。もう一度お願いします」

「天使の笑みと……」

 商品名を言ったようだが、徐々に声が小さくなっていく。頬はほんのり赤くなっている。「天使」なんて言葉を彼の口から飛び出したことに、声を立てずに笑った。まさか、照れるなんて、かわいい。

「少々お待ち下さい」

 店員さんは彼の言わんとしていることを悟ったのか、もう一度奥へ下がった。暫くして戻ってきた店員さんは晴れ晴れとした笑みを浮かべている。

「先ほどは申し訳ありませんでした。『甘いアメ・天使の笑みと共に』は五分ほどお時間を頂くことになりますが、よろしいでしょうか」

 吉川くんは口元を綻ばせて頷いた。

「あ、私はこれ。苺たっぷり乗ってるの。後は……」

 次々と早河さんが注文を出す。私も日比くんも彼女に押されながら、ケーキを選んだ。

 落ち着いて席に着くと、早河さんが選んだケーキの量の尋常さに改めて気付いた。彼女にそそのかされ、私もつい選び過ぎた。テーブルのスイーツをざっと数えると十二ピース。ケーキ代を日比くんと吉川くんが持ってくれなかったらと考えると末恐ろしい。

「うまっ。舌が蕩ける!」

 次々と口に運ぶ早河さんと反対に食指が進まない。これらの値段を考えると気が重い。

「よしこ、食わないのか?」

「あ、食べるよ……」

「そこ、よしこって呼ばない」

 間髪入れずに飛んできた早河さんの指摘に、日比くんが肩を竦める。

「それは吉川さんが決めることだから。それと、あんまり食べ過ぎるなよ。夕飯が食べれなくなる」

 日比くんの忠告を聞いているのか、聞いていないのか、早河さんはうわの空で返事を返す。仕舞いには「そのレアチーズケーキ一口ちょうだい?」なんて日比くんに求める始末だ。溜息を吐きながらも、ケーキの一欠けらをフォークに刺して早河さんの口に運ぶ日比くんは大物だ。

「よくやるな」

 これには吉川くんも目を見張る。

「早河は美味しいものだったら、ゴリラの口移しでも食べるから、こちらが羞恥心を持つだけ無駄なんだよ」

「今、拍手を贈りたくなった。その見事な割り切り方に」

「それはどうも」

 男同士の妙な会話をよそに、私はチーズケーキを咀嚼している早河さんの表情を盗み見た。幸せそうに顔を緩めている。日比くんの言うことはもっともなのだろうが、それだけではないと思う。好きな人からもらったものだから、幸せな気持ちになれる。

「よしこは、俺の要るか?」

「え……」

 実は『甘いアメ・天使の笑みと共に』とやらがかなり気になっていた。それは、お天気雨の時の雨粒のように光り輝いている飴でコーティングされている。中の構造は全く分からない。何でも裏メニューで常連さんにしか出さないという代物だそうだ。そうなると必然的に彼はここに通い詰めていたことになる。吉川くんの一睨みがあったため真偽のほどは誰一人訊けなかった。

「ほらよ」

 差し出されたフォークに戸惑った。彼はにんまりとしている。

 顔に血が上った。早河さんは躊躇いもなくかぶりついていたが、私には刺激が強すぎる。

「早く」

 ずいっと目の前に差し出された一欠けらは、私を誘惑してくる。

 「なるようになる」と自分に言い聞かせて、覚悟を決める。

 顔をずいっとフォークの方に向けると、フォークは引っ込む。恨みがましく彼を見ると、吉川くんの視線はテーブルの脇に立っている人物に向けられていることに気付いた。釣られて私もその人を見る。

 一瞬にしてケーキなどどうでも良くなった。

「ダージリンのセカンドフラッシュです。どうぞ」

 ガチャンという派手な音を立てて、ポットがテーブルに置かれた。マスカットフレーバーが私の危機感を募らせる。

 手際良くオレンジ色の液体をカップに注ぐと、一礼して彼は立ち去った。

「今の人、前会ったことあるよな。ふうん。ここで働き始めたんだ」

 吉川くんが私を見ながら、ぼそっと言う。

「吉川、あの愛想の悪い店員知ってるの? まあ、確かに目の眩むっていうウワサどおりの顔だけど、私は外国人さん派。さっきの人、由のこと凄んでたし」

 紅茶を運んできたのは、髪の毛を完全な金に染めた杜城くんだった。しかも、鋭利な刃物張りの鋭い目で私を見ていた。別れを告げたばかりの再会に、声が出ない。

「俺というより、よしこの知り合いだけどな」

 その後の彼らの会話が耳に入らなかった。早河さんの告白がどうたら、その時日比が隣の席を意味深に見たとか、日比は由のことが好きなんだと勘違いしたんだとか、全ての情報が単語でしか聞き取れずに、会話に入っていくことができなかった。私の頭を占めているのは杜城くんのことだ。彼との問題は解決したのに。ついつい忙しなく働く杜城くんに視線がいってしまう。

「よしこ、帰るぞ」

「へ?」

 急に手首を取られ、店の外に連れ出される。

「まだ全部食べてないよ? それに早河さんたち……」

「そんなボケっした顔したヤツと食べても楽しくない。早河たちの身にもなってみろ」

 私は自分のことばかり考えていた。杜城くんに合わせる顔がないとか、そんなことばかりで周囲のことなんて一切憚っていなかった。彼の言うとおりだ。

「ごめん」

 どんどん甘菓子屋から離され、吉川くんの機嫌の悪さに気付いた。

「何で苛々してるの?」

「よしこが避けるから」

「さ、さけてないよ」

「ついでに言うと俺に何も求めないから。俺はどういう存在なんだろうな」

 脈絡がない。私への問い掛けなのに、まるで一人言のように聞こえた。

「そういうことは、考えられない」

「そうかよ。そうだよな。よしこの心中を占めてるのは、どうせあの金髪の男だろ? お前さ、物凄く腹立たしい」

 心の内を吐露され、私はその場に縫いとどめられてしまった。吉川くんが行ってしまう。

「待って」

 歩みは止まらない。

 彼を止めるために有効的と思われる台詞を必死に考えた。

吉川考伸(ただよし)! 逃げるな!」

 恐ろしい形相で彼は振り返った。スタスタこちらに向かって来たと思えば、私の腕を強く掴んで店内に戻る。私はエプロンをした杜城くんに向かって、ぺいっと投げ捨てられた。吉川くんはというと、すぐに店を後にする。

 吉川くんが立ち去った方向と、杜城くんを交互に見、逡巡した。

「おい。一体どうしたんだ」

 声を掛けられ、反射的に距離を取る。杜城くんの顔が一瞬歪んだ。

 ふと、ある言葉を思い出す。

 杜城くんは私に接する態度を間違えたと言っていた。じゃあ、私はどうだったのだろう。中学時代は話し掛けられる前に逃げ、対峙する時は極力目を合わさないようにした。

 そんな態度が彼を傷つけなかったなんて、断言できない。今だって、ほら。

「またね」

 口から出たものに自分で驚く。そして、すんなり納得した。

 私も杜城くんとの付き合い方を間違えた。だから、次会う時は……。

 呼び止める杜城くんの声を背中で受け止めて、私は駆け出した。吉川くんにああでも言われなかったら、杜城くんともう一度向き合おうなんて思わなかった。吉川くんは、どうして私の本音をスルスルといとも簡単に引き出せてしまうのだろう。

 ああ、そうか。そういう不思議なところも含めて彼に惹かれたのだ。

 今から追いかけても、彼が見つかるという保障はない。学校から甘菓子屋へ向かう道を辿ってきたが、そもそも彼がこの道を使ったという確証はない。電話番号もメールアドレスも知らない。彼との繋がりは薄い。そんなことは承知済みだ。それでも諦められない。バカみたいに全力で走って、お決まりのように転んで。起き上がって、また走る。心臓なんぞ、とうに限界を超えた。

 やがて学校に到着してしまい項垂れた。手がかりがない。

 呼吸を落ち着かせて門をくぐり、乾いた喉を潤すために自動販売機に向かう。持ち合わせは少ないが、飲み物一本くらい買えるだろう。

「よしこセンパーイ!」

 呼び声に足を止めた。

 紺色に染めた髪が特徴の男子生徒が、彼女と思わしき女子生徒と共に私の前に立ちはだかる。いつぞやのカップルだと気付き、吉川くんの所在を確かめるべくにじり寄る。

「吉川くん知らない?」

「知りませんよー」

 小動物系の愛らしい紺色頭の彼女が、上目遣いで私を見つめてきた。その視線に不埒にもちょっとドキリとしてしまう。

「そう……ありがとう」

 踵を返し走り出そうとしたら、かわいらしい声で呼び止められ出端を挫かれる。

「息落ち着かせたらどうです? そこに自動販売機がありますし」

 すかさず渋面を作った紺色頭が、彼女の頭をかき抱き、私から引き離した。

「そんなお世話は要らないですよねえ?」

 半ば強引に彼女の手を引き、紺色頭は立ち去っていく。急にピリピリとし始めた後輩に疑問を抱きつつ、提案に沿いジュースを買うことにした。

 自動販売機に凭れかかっている姿を発見した時、紺色頭の彼女の言わんとしていたことを覚った。紺色頭が気を遣うはずだ――私が追い求めていたその人は全身から黒いオーラを醸し出していた。触れれば噛み付いてきそうな勢いだ。

「吉川くん……」

 やや片眉を上げて彼は、私と向き合った。

「今更何用?」

「話しにきた」

 冷たい声音に身が竦む。それでも屈するわけにはいかない。伝えたいことがあるのだ。

「前にも言ったけど、付き合いたいとか、そんなことは考えたことがなかった」

「所詮それだけの気持ちだったんだろ」

「それは、違うと思う。こんな経験ないから断言できないけれど、ううん。ないからこそ、今以上は望まない。だから、本当は吉川くんに私の想い気付いてくれなくても良かった」

「それは、よしこの身勝手な考え方だ。それなら、追いかけてくるな。ほかっておいてくれ」

 一体どうすれば良い?

 仲たがいしたくないのに。人は欲張っては駄目だと思うのだ。あれも欲しいこれも欲しいという欲望のままに買い物を続けたら破産してしまうように、何もかも欲すれば、身を滅ぼすもとになる。吉川くんの気持ちが私に向いているというだけで満足してはいけないのだろうか。

「ほかっておけない」

「鬱陶しいヤツは嫌いだ。消えてくれよ」

 心の中の違和感がすとんを解けた。人から向けられる悪意は慣れていても、好意というものは慣れない。嫌いと言われても、さして心が痛まなかった。そう言われ続けることが当たり前すぎて、感覚が麻痺している。

「そう、だよね」

 声を上げて笑った。どこか諦めの混じった、渇いた笑い方だ。

「でも、私は好き」

 吉川くんが。

 これが嫌い、あれが好き。こういう感情をストレートに表す言葉を口にすることが凄く苦手だった。

 吉川くんが眼を広げた。

 踵を返す。消えろと命令されれば、いつだって消えることができる。それは昔日から違わないことだ。私には矜恃が足らないのかもしれない。

「気に入らない!」

 強烈な既視感。これはいつぞやの……。目まぐるしく過去の日々が脳裏を過る。ここには自転車なんてないはずなのに、それらがドミノ倒しになって派手な音を立てる様がリアルに思い浮かぶ。

 その場で屈んで、自身を守るように腕で頭をガードした。

 周囲が陰る。ざっと砂を蹴る音さえ、恐怖を覚える。腕を取られ無理やり立たされ、視線がかち合う。金縛りにあったように身動きが取れない。目を逸らそうにも逸らせない。追い討ちをかけるように顎を強く拘束された。

「優柔不断だってことに気付いてるか? トイレの解体の日――今までどんな想いでいたかを伝える時でさえ『好き』って言葉を避けてた。何で今になって全力でぶつかってくるんだよ。そのくせ欲はない正直、扱い辛い。面倒なのに構いたくなる自分が理解できない」

 目下三センチの距離で吐き捨てられる。顎が解放された瞬間、今度は体を縛られる。やんわりと抱きしめられていることに気付き、一人パニックに陥った。

「俺、おかしくなった。我欲のないお前を好きになるわけないのにな」

 逃げ出そうと思えば私の力でも彼を突き放すことができるくらいに、抱擁に込められた力は微弱なものだった。彼が無言のうちに問い掛けてくる。

 吉川くんと、私の概念の違い。きっとこれからもすれ違うことは、あるだろう。

 震える指で彼のシャツを掴む。すると、微かな身じろぎが返ってきた。ふと気付く。震えているのは私だけではない。そんな些細なことに心が和まされた。

 またとない緊張に凝り固まった腕を、そろそろ広げて彼を抱きしめる。これが精一杯の彼への返答だった。

『吉川さんと吉川くん』は、本話で完結となります。ここまでご覧下さり、ありがとうございました。


最後に、この場を借り、いろいろご報告させていただきます。

嬉しいことに、桜木さんが杜城主人公の短編小説『相思華』(http://ncode.syosetu.com/n4554o/)を書いて下さいました。杜城の乙メンぶりがっ……!

見事なまでにストライクゾーンど真ん中を射抜かれ、馬鹿な私はそのお話を元に作詞までしてしまいました。ニコニコ動画に投稿しましたので、よろしければご覧下さい。(URL:http://www.nicovideo.jp/watch/sm12517485)申し訳ないことに、視聴にはニコニコ動画アカウントが必要になります。

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