第九話 五月一日
机に肘を付き、黒板の隅に書かれている日付を見つめた。そこには五月一日と書かれている。思い返せば一年前はこの日が来ることを期待し、同時に恐れていた。そう、吉川くんとのトイレ掃除が終った日。なんたる偶然。ちょっと不吉な気がしないでもないが、一度決めたことは翻したくない。
奮然たる闘志をめらめら燃やし決戦の時を待った。
一日中テンションが高く、何かと空回りして、階段で気躓いたりもしたが無事に放課後を迎えた。昨日と同様に杜城くんが校門で待っていると電話があった。
いざ決戦。
意気込んではいたが階段を下りる前に一度立ち止まり、慎重になった。今度は躓かないように、そろりと下りるべきだ。しかし、一歩踏み出そうとした瞬間、腕を後方に引かれる。
「早まっちゃダメ!」
「へっ?」
後ろを振り返ると、赤茶色の髪が特徴的な――早河さんが居た。思わぬ人の登場にどきりとする。
「あ、もしかして……勘違い? 何だか思いつめてたから、自虐行為に走るのかと」
「そういう訳じゃ」
はっと気まずそうに俯く彼女の仕草につられて、私も何も言えなくなった。久しぶりの会話に違和感を覚えずにはいられない。
「あの時は、うん……その、ごめん」
あの時。やはり思い浮かべるのは私も早河さんも同じなのだ。突然の謝罪にどうしていいのか分らない。許すも何も、当初から裏があって彼女は私に近付いてきたのだと感じていたのだ。
ただ、彼女の目的は解からずじまいで消化不良だということは確かだった。
「どうやら私の勘違いだったらしくて。ご迷惑かけました」
「え……」
彼女はこっそり耳打ちしてくれた。
私がまだ二年F組だった頃の話だ。彼女には意中の人が居た。きっと吉川くんのことだ。
「日比くん? 私の隣の席だった?」
思いもよらぬ人の登場に思わず声が大きくなる。
「しっ! 意外?」
「だって――その」
日比くんは口数も少なく、クラスでも目立たない。早河さんとはまるっきし正反対の人だ。まさか彼に好意を寄せていたなんて。
「いいよ。正直、奇妙でしょ。でも、好きなんだから仕方ないじゃん?」
好きになってしまったものは仕方がない、か。私が堂々巡りに思いつめていたことを、一言で割り切ってしまうなんて。確かに一度抱いてしまった想いはどうしようもないのだ。
「吉川くんのことは?」
「何のこと?」
首を傾げられ、私は早河さんが吉川くんに告白している場面を盗み見てしまったのだと告白する。一言、一言、声を絞り出す度に、心がきゅっと締め付けられた。あの張り詰めていた雰囲気からして、冗談で話し合っているのではないことくらいは分った。
きっと彼女は惚けて、私の追及から逃れようとしているのだ。
「ああ、あれ。吉川にどうして由のこと騙すような真似したかって訊かれてねえ。話の流れで私の好きな人、つまり日比のことね。吉川に追い詰められて、ついポロっと日比の名前出しちゃったところを由が目撃したのかな」
しくしくした痛みが不意に和らぐ。「恋する乙女」は単純なんて誰かが言っていた気がするけど、それって本当なのだと実感した。
だが、大きなわだかまりは結局解決されていない。
「あの、私に近付いた理由は?」
「私、日比が隣の席だった由のこと好きなんじゃないかと思い込んでたんだ。彼がどんな人に好意を持っているか気になったから由に近付いた。ただそれだけ。ううん、違うな。あわよくば仲を引き裂いてやろうとも裏で考えてた。予想に反して、日比は由のこと同級生としか思っていないってことが発覚して、かなり後悔した。だって由に本音ぶちまけた時には、もう敵視できなくなってたんだもん」
何だ、早河さんの勘違いだったんだ。日比くんが私のことを気にかけることなんて万が一にもあり得ないのに。
彼女の間違いが合ったからこそ、こうやって言葉を交えられた。だから、もう終ったことは清算しよう。早河さんとは、また一から始めよう。「敵視できなくなった」この台詞を信じることに挑戦したい。懐疑心を今度こそ持ちたくない。
「早河さん。チャンスが欲しい」
「何の?」
「今度こそ、早河さんと仲良くなる」
くっくく、と彼女は忍び笑いをした。やがて隠す様子もなく豪快に笑いはじめた。涙まで流して。
「そ、それは私が言うべきことじゃん。やっぱり、由はズレてる!」
何時まで笑っているのだろう。どうやら笑いのつぼに入ったらしい。気に障らないと言ったら嘘になるけど、彼女が笑ってくれるなら許してしまう。やがて、私まで、おかしい気分になった。
「あーすっきりした! ま、後一つ問題は残ってるんだけど」
心に残った爽快感を噛み締めている最中に、こんなことを聞くと本能的に逃走したくなるのは何故だろう。
ふと何か忘れていることに気付く。先ほどまで物凄く意気込んでいたのに。
「あ」
背中に戦慄が走った。杜城くんが待っているのだ。芥蔕がぽろっと取れてしまえば、残るのは恐れ混じった闘志。
「ごめん。私、用事あるから帰る」
「何言ってんの。残った問題解決するよ」
鼻歌まじりにスキップし始めた早河さんに腕を取られ私は階段を下り始めた。
「ちょっ。用事がっ」
「気にしなーい。気にしなーい」
――これは早くも、対杜城戦、不戦負が濃厚。