第三話 衝撃的に
衝撃的な再会してから、かなり勉強にのめり込むようになった。特に数学は頭をフルに使い、要らないことを思い浮かべる隙がなくなるので、好んで挑戦する。前回の考査では全体的に平均点を微かに上回る結果だが、今度はもう少し良い成績を得ることができそうな気がする。そんな自信が付くほどに私は先日の偶然の事故――杜城くんとの邂逅を忘れたくて仕方がなかった。だけれども忘れようとすればするほど、思い出してしまう。泥沼に足を取られてしまったようだ。こういう時こそ頼れる友人が欲しいと思う。一人で考え、一人で抱え、あるいは一人で解決することは自己完結で潔く、私に合っているかもしれないが、誰かに打ち明けてすっきりするということに憧れを持っていた。
ふと早河さんのことが頭を過る。彼女は友人になるつもりなど甚だなかっただろうに。擬似的な友情、虚無なものを彼女と育んでいただけなのに。覚えずに赤茶色の短髪を探してしまうことに苦笑する。
授業が終わり、遊びに誘う友人もない私はすぐに帰宅する。今日も例に洩れず、未だ人通りの多い廊下をとぼとぼ歩いていた。
「よう、吉川」
びくり、と体が震えた。一瞬、誰かが吉川くんを呼んでいるのかと思った。予想に反して、「吉川」というのは私のことだった。
「先生……」
筋肉バカという不名誉なあだ名で生徒から親しまれている、去年の担任教師が前方を塞いでいる。実は教育相談などの話し合いなどぐらいしか会話を交わしたことがないので、彼から声をかけてきたことを少々怪訝に思う。
「一応報告だ。ほら、去年は迷惑かけたしな」
「……迷惑?」
迷惑と思ったことは昨年四月の掃除当番決めくらいしか思いつかない。迷惑という感情を抱く以前に、担任教師にはあまり関心を持たなかったので、特に気に障ることはなかった。
「掃除当番のことだよ。……あのトイレ、取り壊しが決まったから」
外トイレがなくなる。吉川くんとの思い出の大半が作られた場所が。
人知れず胸の奥がむかむかした。
「そう、なんですか」
「伸考が風紀の乱れについて指摘してきてな。正直、そういう使われ方をしているとは教員の誰一人気付いてなかった。二人ともすまんな。気まずかっただろ。主観でしかないが伸考はお前のこと、心配していたと思う。吉川は何も知らない、良く言えばまっさらな感じだから」
伸考――吉川くんがか。後々に出てくる彼の優しさは素直に嬉しい。だが吉川くんが知っていたトイレの噂を私に教えてくれなかったことには少なからず衝撃を受けた。彼は先生に直訴し、彼自身で解決したということだ。私は頼りない。そんなことは理解していたが、改めて自覚させられる。
「そうですか。わざわざ知らせてくれてありがとうございます」
「ああ、じゃあ気を付けて帰れ」
頭を下げると私は走り出した。向かうのは外トイレ。階段を下りて、靴を履き替え玄関を飛び出す。
行かなければならない気がした。特に理由なんてないのに。そんな直感に突き動かされ、夢中になって足を動かした。
瞬時、目の前が暗くなる。そして強い衝撃が体を駆け巡った。
慌てて、上を見上げると見知った人物を目が合う。昨年臨席同士になったことがある、日比くんだ。正面から勢い良く衝突してしまったらしく、彼の眼鏡が地面に落ちていた。
「吉川さん?」
「ごめん」
「いや、こちらこそ申し訳ない。後、その」
彼の言葉を待たずに再び走り出す。
その後も数人とぶつかり罵声は多々浴びせられたが、心ここにあらずの状態で、上辺だけ謝罪すると懲りずに疾走した。
男子トイレの前に設置されているベンチの辺りに二つの人影が確認できる距離になった頃、既に息は絶え絶えで、ついに足を止めた。一呼吸置き、佇む人影は誰だろうと予測する。
「あ」
男子生徒と女子生徒。前者は茶色で後者は赤銅色の髪色だ。向き合うように屹立している二人の顔はよく知っているもので、私は彼らの組み合わせに驚嘆し、思わず物陰に身を隠した。
二人の会話が途切れ途切れに聞こえ、盗み聞きしているようで罪悪感が湧き上がる。
「どうして……だよ」
「……のことは――。好きなんだもん……」
慌ててその場を立ち去った。今のは、愛の告白ではないだろうか。しかも、しかも、早河さんが吉川くんに。私の思慕は結局叶わぬものだから、せめて。せめて、彼の恋人が早河さんだったら。
ああ、なんて白々しいことを考えてしまったのだろう。どうせ思い切ることなんかできないのに。どのようにしても、この胸を締め付けるような痛みからは逃れようがない。
私の足が、吉川くんから逃げようと無駄に動き出す。もう彼は見えないはずなのに、体が音を上げるまで走り続けた。