第十五話 もう一つの噂
私が早河さんに伝えたいのは彼女の第一印象だけではない。内面について思ったことも、全て話してしまおうと思った。
「ちゃんと、最後まで聞いて。さっきのは第一印象だから……印象、変わったわけじゃないけど、こうして話すようになって分ったことあるから」
笑うのを止めた彼女は真顔になった。これが彼女の素の顔ではなかろうか。冷めた、だけれど本心に近い表情。
「好奇心旺盛。誰にでも気さくに話しかけられる。あと、純情な面がある。そう私は思った」
潤んだ瞳が瞬く様を、私は見逃さなかった。言いたいことが伝わっただろうか。語彙が豊富でないことを悔いる。
「……これが発見したこと」
赤茶色の髪がくしゃりと彼女自身の手で掴まれた。そのまま激しく髪の毛を掻き乱す。理性が切れたような豹変振りに目を剥く。
「ど、どうしたの?」
「ああ! 本当に嫌。そんなこと言われたら嫌いになれないじゃん! 憎みたいのに!」
突然の叫びに一瞬怯んだ。微かに心が重くなる。事情を全て呑み込んだわけではないが、早河さんが私に近付いてきたのはトイレのことだけではないことは理解できた。彼女は私に負の感情を抱いている。いや――抱こうとしていた。
原因は分からない。気付かない間に忌諱に触れたのだろう。私は自覚しないで不興を買うことが得意らしい。それは中学生の時にはっきりと確認が取れていた。
突然高らかな笑い声が、静まり返った空気をつんざいた。何事かと下を向いていた視線を上げると、トイレから見覚えのある紺色頭が現れた。その後をくるくると瞳をよく動かしている女子が続く。女子の顔にもまた覚えがあった。
いつぞやの紺色頭の男子生徒は不埒にも早河さんに人差し指を向けて、下がり目を細めた。その笑顔は砂糖菓子よりも甘く、くどい。それだけならまだ良いが、さらにねちっこいという要素が加算されると、悪寒を感じる。吐き気がしないでもない。
笑い声はこの人から発せられた。彼は何故早河さんを笑っているのか。紺色頭の後ろで、吉川くんが眉間に皺を寄せ額に掌を当てている。
事情が分らずに混乱しているのは私だけ? 誰も事情を語ろうとはしない。
「早河センパイ、あのエンコーのウワサ、ウソだったんですねえ」
紺色頭のワイシャツに申し訳程度に引っかかっているネクタイの線は一本。彼の背後に控えている吉川くんが緩めに締めている深緑のネクタイには、二本線が入っている。我が高校では男子の場合、ネクタイに入っている線の数が学年示している。そのことを考慮すると紺色頭は一年生ということだ。こんなに派手な紺色頭の生徒を一年棟で見かけたことはなかった。初めて出会った時はネクタイをしておらず、バカにしたような笑みを浮かべたことから先輩だと思っていた。
普段の早河さんなら一年坊主に屈することなどないだろうに、今は黙して空ろな目を瞬かせるのみだった。
「残念です。じゃあ、男なら誰でも遊ばしてくれるっていう話もウソなんだなあ」
私は噂に疎いのだと改めて感じた。トイレの使われ方に、早河さんの援助交際の噂。何一つ知らなかった。恐らく私の把握していないことは、まだたくさんあるだろう。私は早川さんに出会った時は彼女のことを嫌厭したが、知り合って彼女の新たな一面を発見することができた。今は、何も知らない人に彼女を侮辱するようなことを口にして欲しくないと切に思う。
「もう! ユウくんはどうしようもない浮気性だねっ」
紺色頭の腕を小動物系の女子が掴む。私はトイレに向かう最中彼女と一度ぶつかったことがある。吉川くんが泣かせてしまった子だ。彼女は紺色頭と繋がりがあったのだ。
「いいじゃん。センパイかわいいし、すぐにヤ……」
「やめて!」
聞きたくない。早河さんがどれだけ傷つくか――その思いだけじゃない。無知な自分が許せなかった。他人は他人、と割り切っていたのが口惜しい。明るく朗らかな彼女だって腹に抱えている重いものがあったはずだ。それがふと瞬間露見する。例えば、先ほど人目を憚らずに叫んでいたように。彼女が悩んでいることを察することができなかった私の怠惰を、認めずにはいられない。彼女のためだけではない。私は潔癖でありたいのだ。
私はとても汚らわしい。自分は清らかでいたいと思う、その考えが醜い。
「坊主、少し黙れ」
吉川くんは紺髪の一年生の頭に手を置き、後ろに引く。乱暴ではなかったが、後輩たちはされるがまま後ろに下がった。代わりに吉川くんが一歩前に進む。
「トイレが立ち入り禁止になったのは、風紀が乱れたから。単純だろ。よしこ、早河、分かったか。分かったなら早く帰れ」
首を縦に振ると、吉川くんは呆気ないほど素早くその場から離れていった。だが、彼の命令を聞き、退散はできなかった。心に残っているわだかまり。そしてある可能性が気持ちを沈ませる。
彼の後姿から目が離せない。歩みに合わせて揺れる茶色い髪を、私は見えなくなるまで見つめていた。