第十二話 トイレの「噂」
あれほど嫌で仕方のなかったトイレ掃除の時間が、苦痛ではなくなった。掃除の時間が近付くと、吉川くんの動向を窺い、それに気付いた彼が私に数枚の硬貨を渡す。いいように使われていることは理解しているけれども、おつかいも含めどうってことなくなった。
――吉川くんの顔から傷が消える頃、五月を迎えた。彼との唯一の接点であった外トイレ掃除は、他のクラスメートに回された。
私は残念だと感じる前にほっとした。これ以上好意を持ったら、楽しいよりも苦しい気がする。深く想う前に杭が打つことができて良かったではないか。
吉川くんが私にくれたものは大きい。高校生になって一番心に残る思い出を彼は与えてくれた。それだけで十分だ。
「ねえ、外のトイレ掃除だったんだよね?」
掃除を行わなくなった二日後、新たにトイレ掃除を任された早河さんが話しかけてきた。廊下の片隅に誘導され、私は訝しがりながらも彼女に付いていった。
「うん」
彼女とは席が遠くあまり接点のない人だ。肩にぎりぎり付くか、付かないかの短めの髪は赤茶色がかっており、染めているのは明らかだった。髪色やメイクに気を遣い、明るく、ずばずばと発言する早河さんは少し近寄り難かった。
「警戒しなくてもいいよ。ちょっと困ってることがあって……それを聞いて欲しいだけだし」
にかっと笑った早河さんは私の肩に手を置く。あまり親しくない間柄だが、気軽に接してくれたので、いくらか心が和らいだ。
「なに?」
「実は私、掃除サボってるんだ」
改めて告白するような、大して珍しい行為ではないように思われる。男子トイレを掃除するのは躊躇われるし、校舎から離れているため通うことすら面倒臭い。
「ほら、ウワサあるじゃん。その、聞いたことあるでしょ?」
早河さんは顔を赤らめ、下を向いた。
彼女の言う「噂」というものに全く心当たりはない。それ以前に噂話を聞かせてくれるような間らの友がいない。
「……ごめん。知らない」
早河さんは驚いた面持ちで私を凝視した。
「それホント? あのトイレを一か月掃除したのに? 吉川は教えてくれなかったの?」
こくりと頷く。「噂」について吉川くんは知っているような口ぶりにますます困惑した。早河さんは肩を落として、「噂」について語りだした。
「あそこは生徒のたまり場所になってて……要は逢引場所。校舎から遠いし、利用者も少ないから、フシダラな奴らは本来の用途を忘れて使ってる」
「つまり、やっ」
納得して口を開けると、すぐに塞がれる。
「大人しい顔して下品なこと言わないの」
口に当てられた手をそっと外され、深く空気を吸い込んだ。「噂」は噂でしかない。私は決定的なものを見たことがなかった。
「そ、そんな人いなかったよ?」
「ウソ。一か月の間、何もなかったはずない。あそこは校門閉まるまで人が頻繁に出入りしてる。その場に居合わせなくても、証拠は残ってるはず」
「それらしき物はなかったけど……」
掃除全般、勿論ゴミ捨てまで行っていたが、「噂」に関係する物はなかった。まずゴミ自体があまりない。
「そっか、変なこと言ってごめん」
満面の笑みとは言えないが、彼女は笑んだ。心なしかほっとしたようにも見える。赤茶色の髪を揺らし早河さんは教室に戻っていった。
私も彼女に続き自席に戻ろうとする。後方の席で音楽を聴いていた吉川くんと目が合ったが、気まずさからすぐに私から視線を外す。
彼は知っていたのだろうか。トイレの「噂」を。