第十一話 吉川くんの仕返し
「大丈夫だ。悪いようにはしない。目開けててもいいから」
そうい言われても、顔を覗き込まれれば堪らず目を閉じてしまった。目睫に迫っている吉川くんの匂いが甘い。それはここ数週間で嗅ぎ慣れたアイスココアの匂い。
仕返しでこんなに接近する必要があるのだろうか。
「緊張してんの?」
「……っ、それは!」
こんなに近くに居れば、当然意識する。気になる人ならなお更に。
「絶対動くなよ。一ミリでも動くなよ。動いたら保障できないからな」
保障という言葉に疑問を持ち首を傾げたら、頬をがしりと掴まれ固定された。その瞬間シャキッという不吉な音がすぐ傍で聞こえた。
目を開けると、吉川くんと視線がかち合う。前髪のカーテンが少ないな、と不思議に思ったが、彼の手に握られているハサミを見つけ合点がいった。
唇をわなわなと震わせ、言葉にできずに絶句した。
「お前の前髪、長くて鬱陶しいんだよ。表情見えないし。嫌かもしんないけど、これが仕返しだから」
頭が真っ白になっている間、吉川くんはハサミを動かし前髪を切り続けた。はらはらとスカートの上に落ちていく髪の毛。スカートの上に溜まった髪の毛は最終的にトイレのゴミ箱に捨てられた。
前髪の出来上がりをトイレの鏡で確認して絶望する。鏡に映っているのは誰だ。――私には違いないはずだ。一重の瞳に、不健康そうに見える青白い頬、全てが父譲りの見慣れた顔。前髪がないと余計に貧相に見える。
「どうだ?」
気分は最悪としか言いようがない。窺うように吉川くんを見ると、彼はふて腐れて頭をかいた。
「似合ってると思うけど」
何しろ俺が切ったんだから、と彼は言葉を続ける。
心がふわりと浮いた。どうしよう、嬉しい。浮かれ足のまま掃除道具を手に握り締め、掃除を始めた。吉川くんはベンチに座って、私が買い込んだアイスココアを飲んでいる。
掃除が終わり、暗いトイレを出た際に上を見ると春空はいつもより明るく輝いて見えた。