第十話 飴と鞭にはまる
私が平手打ちした翌朝、彼は非常に機嫌が悪かった。口数が異様に減り、体中からどす暗いオーラが出ている。顔にできた傷のお蔭で迫力が増している。さらに吉川くんの手にはハサミが握られており、シャキシャキと音を立て、暇を潰しているようだった。クラスメートは触らぬ神に祟りなしを教訓として、彼には話しかけていない。
私は登校した直後、教室内で吉川くんに睨まれ、思わず腰を抜かし、言葉を失った。これは過去に例を見ないほどの恐ろしさだ。今なら地獄の閻魔大王にも勝てるだろう。
彼がこうなってしまった原因は私にある。だが、謝罪のタイミングが掴めず、放課後に引き伸ばしてしまった。せめてものお詫びにアイスココアを五本買い、トイレに行くことにした。
「……おせえよ」
紙パックを落とさないように慎重に歩き、トイレに到着すると、吉川くんが既に待ち構えていた。彼の手には相変わらずハサミが握られている。
アイスココアを抱えたまま頭を下げた。
「ごめん。昨日はごめんなさい」
「ああ。いいよ、もう」
吉川くんは私の腕の中にあった紙パックを一本取り、ストローを挿す。
一方私は彼の意外な答えに驚き、残りの紙パックを地に落とす。その光景を吉川くんは横目で見ながら、にやりと口端を上げた。
「許すから、その代わりに仕返しさせろよ? この顔の傷に、クリーニング代の分。俺にしたこと覚えているよな」
「く、クリーニング?」
「お前の膝から出てた血で制服血まみれなんだけど。血は落ちにくいからな」
確かに出血していた膝をそのままにして、彼によじ登った。その時に血が付着したのだろう。何より吉川くんの顔に付けた傷の責任がある。
鬼畜の仕返しなど碌なことではない。――でも、彼にしたことは許されない。
「仕返し……分かった」
吉川くんは早くも飲み終ったアイスココアを置き、次のパックを手に取る。口でストローを挿し、手に持っていたハサミは置こうとしない。
「ベンチに座ったら、目を瞑れ」
指示されたとおりに私は動いた。外界の光が消えると、感覚が鋭くなるような気がする。風の音も、落葉の音も、吉川くんが土を踏む音も鮮明に聞こえる。足音は徐々に大きくなり、やがて私の前で止まった。
「動くなよ」
吉川くんの言葉に合わせて人の吐息が額にかかる。思ったよりも彼の顔が近い。心臓の拍動が煩い。聞こえてしまう……。
避けようとして右に向くと、冷たい手が私の頬に触れた。強引に正面を向かされる。
途端に脳内に昔の光景がフラッシュバックする。黒かった視界が開け、恐ろしい悪夢が始まる。
『由、逃げられないからな!』
耳元で囁かれた声は、昨日電話口で聞いた声と同じ。
『暗いし、ヤバいほど地味だよな。ホント』
『消えてくれれば、どれだけ楽か』
杜城くんが私を見下して、言い放つ。
自身の唇をきつく噛み締めると、血の匂いが鼻に届く。唇を舐めれば鉄の味が広がった。あの時、杜城くんとのやり取りでも、鉄錆とも言える味を知ったような。
「や、やめて……杜城くん止めてっ!」
杜城くんの肩を押し、私はその場を走って離れようとした。だけれど彼はびくともしない。
「落ち着け。俺は杜城暁朗じゃない」
うつつを見た。吉川くんだけが私の視界の内にいた。恐れていた彼の人はいない。
安堵の息を吐く。吉川くんも恐ろしいが、杜城くんの恐ろしさとは質が違う。吉川くんは私を安心させてくれることが度々あった。辛く当たられているからこそ、不意に見せる優しさが心に沁みる。最初はその優しさを勘操って警戒していたが、徐々にそれもなくなった。彼は飴と鞭を上手く使っている。ある意味手懐けられていると言っても良い。
吉川くんが意識的にそれを実行しているなら、相当の手練手管を持っていることになる。それに見事に嵌ってしまった私は取り返しがつかない――未知の領域に入ってしまった。
とくんと、胸が高鳴る。
彼に薄っすらと好意を抱いている。……かもしれない。
次話の本文が短いため、明日更新したいと思います。