第九話 男女の修羅場もどき
流れていたメロディーは一度途切れたが、一分も経たないうちに再び流れ始める。
やっとのことでスカートのポケットに手を入れ、メロディーの音源、携帯電話を取り出した。
通常はサイレントマナーモードにしているが、放課後になった今は、弟と連絡が取れるように解除してあった。今日は帰りが遅くなる両親に代わって、晩御飯の買い出しをするのだ。
「へえ、マナーにしてないんだ? 俺と話しているのに出たりすんなよ?」
手から携帯電話がぱっと消える。
「瞬治? 彼氏か?」
携帯電話は吉川くんの手に収まっていた。勝手に弟の名前が表示されたディスプレイを見ている。
「違う」
瞬治は弟だ。
十数秒鳴り続けていたメロディーは途絶えた。それでも、吉川くんは携帯電話を返してはくれず、あろうことか、キーに指を滑らせ始めた。
「江口智、太井優か。電話帳に結構男入れてるな」
智というのはイトコのお兄ちゃんだ。優は中学生の時にクラス委員を務めていた女の子のこと。
「後は……杜城暁朗か」
杜城暁朗。思い出したくなかった名前。忘れられなくていつも頭の片隅に存在していた。ずっと、ずっと。
私の中で眠っていた激情が暴れ狂う。胸が締め付けられて苦しい。そして、熱い。灼熱の炎に焼かれているようだ。
「よ、吉川くんには関係ないよ!」
先ほど彼に言われて深く失望した言葉を、知らず知らずの間に発していた。
電話帳の名前を読みあげ終えた吉川くんは立ち上がって、私が取り戻せないように携帯電話を頭上高く上げた。
彼に左手で掴みかかり、精一杯右手を伸ばす。だが、身長に差があるため一向にその手は届かない。ベンチに上って身長差を埋めようとしても、吉川くんがベンチから離れてしまえば意味がない。
「おいっ! 何するんだよっ」
吉川くんのネクタイを掴み下を向かせると、その頭を掴んで手の土台にする。できるだけ上を目指して、よじのぼろうとした。
「返して!」
「分かった、返すから放せっ」
不意に携帯電話の呼び出し音が流れ出す。プルルルと連続的に続く音。ディスプレイには杜城暁朗と表示されている。
言葉を失った。故意かどうかは別として、吉川くんが杜城くんに電話をかけてしまった。
上がった呼吸を落ち着かせる。数秒の後、約一年ぶりの声が耳朶に届いた。
『由……?』
聞きたくなかった。その声が私のおぞましい記憶を呼び起こす。頭が変になりそうだ。
「悪い。間違えた」
吉川くんはすぐに電話を切る。
私は思わず手を上げた。それは酷く緩慢な動作だったが、見事に命中した。掌の行き先は吉川くんの頬だ。
手のひらに伝わった衝撃で我に返り、彼の顔をよく見ると、血が滲んでいる引っ掻き傷が所々あった。平手打ちで頬全体は赤く腫れている。
全て、私が作った。他の誰でもない私が。
胸の内で激しく燃え上がるものが鎮火されていく。最後に残ったのは灰ではなく悔恨の情。
杜城くんとの事情を吉川くんは知る由もない。杜城くんの連絡先を電話帳から削除しなかった私にも原因がある。張り手はやり過ぎた。
吉川くんの傷んだ顔を目に入れることが恐ろしく、覚えず足が動く。携帯電話を取り返し、全力疾走して校舎に戻った。それを止める者が誰一人としていなかったことが、さらに私の心を冷やした。