悪夢
第二話以降は、週一ペースで更新する予定です。
お付き合いよろしくお願いします。
中学生最後の日、息を切らして、無心に足を動かしていた。
卒業式は既に終了し、記念撮影をしている三年生が、校舎のあちらこちらに散らばっている。その中を全力で走り抜けた私は、明らかに浮いていた。私も卒業生の一人だが、写真撮影の輪には入れない。切羽詰まった事情により、いち早く帰宅する気になった。
「由、逃げられないからな!」
恫喝の大音声が背後から聞こえた。ようやく自転車置き場まで来たのに、気持ちが焦り、自転車の鍵が上手く開錠できない。力任せに鍵を回し格闘していると、息を切らした男子生徒に肩を強く掴まれた。覚えず背中に薄っすら汗をかく。
「何で逃げるんだよ」
男子生徒の名は杜城暁朗。小学生の時から彼にされてきた惨い仕打ちは中学生まで続いていた。だけれども、彼とは今日でさようなら。彼から一刻も早く逃れたくてしかたがなかった。普段学校行事など楽しみにしない性だが、今回の終業式に限っては違った。今日で呪縛が解ける。ほっとしていたのに、最後に彼に捕まるなんて最悪としか言いようがない。
「用事が……」
勿論真っ赤な嘘。もっと上手い嘘が吐ければ良いが、私にそんな手管はない。アスファルトをじっと見つめ、杜城くんとの時の終焉を待つ。
「少しくらい時間いいだろ」
良くないとは言えなかった。肩に食い込んだ指は、まるで心まで握っているようだ。彼の高圧的な言動は元より、纏っている雰囲気も苦手なのだ。近くに存在しているというだけで、足が震える。
杜城くんの陰謀で、あらぬ噂を流された。持ち物を隠された。お決まりのように水を掛けられた。机も隠された。苦しい日々が逆行再現されて、思うより先に身体が彼に対して拒否反応を起こす。
どこかで彼の不興を買っていることは確かだった。彼が私を相手にしている時は、いつも眉間に皺を寄せていて、私だけではなく周囲にも当たりちらかす。どうして不機嫌にしてしまうのか分からなかった。それが分かれば、彼の嫌がらせも止むだろうとは思っていたが、とうとう最後まで理解できなかった。
杜城くんの瞳は爛々としていて、これでもかという程に眉根を寄せている。二人きりの局面を打開しようと、周囲に見知った生徒が居ないか期待したが、教室はお祝いのムードで盛り上がっていたようなので帰宅しようする者はいない。助けを呼ぶことはできないということだ。自然に体を庇うように背中が丸くなる。
「お前さあ、いつまで俺に怯えてんの?」
骨が軋むほど掴まれていた肩をドンと押され、自転車置き場の支柱に背中を強かに打ちつけた。背中に走る痛みに、思わず顔を歪める。
「なんとか言え」
口を開くものの、発言内容が思い浮かばなくて、結局黙り込む。
「そうやって下向いて、何が楽しい? 俺はそういうところがイラつくんだよ。それだけが原因じゃない……」
私が彼の機嫌を損ねてしまう理由が初めて語られる。耳をそばだてて、一語一句を反芻して心に刻みこむ準備をした。
「暗いし、ヤバいほど地味だよな。ホント」
それは尤もなことだった。否定する気はない。
「消えてくれれば、どれだけ楽か」
重い溜息を吐かれた。
私は自身が感じている以上に彼に嫌われていた。嫌悪されている理由は実に単純だった。暗い、地味という私の最大の特徴が、これほどこの人を苛立たせているとは想定外だった。今更好意を持って接して欲しいとは思わない。しかし、直接的に言われると辛い。
消えてくれなどとはっきり言われたことは初めてだった。「消えてくれ」を「死んでくれ」と変換し、解釈する。臆病な私には死ぬことはできないけれど、彼の目の前から消え失せることはできる。一刻も早く立ち去らねばという思いが、一層募る。
「ごめん、消える」
肩に置かれている手を慎重に外すと、震える手で自転車の鍵を開錠する。あっさりと鍵は外れた。鞄を荷台にセットし、乗り込もうとしたところで、それまで立ち尽くしていた杜城くんが動く。
「そうじゃないんだよ! だから、だからっ……そういうところが気に食わねえ!」
あまりの剣幕ぶりに私は飛び上がり、背後の自転車と接触した。衝撃を受けた自転車がつぎつぎに横倒しになっていく。金属がぶつかり合って作り出された不協和音が、ゆっくり聞こえる。近付いてくる杜城くんの動きも遅かった。全てがスローモーションで動く。眉をしかめて、歯を食いしばっている――何かに耐えているような彼の表情を、顔を上げて凝視した。鼻先まで迫られていたが、そんな面持ちが気になり、顔を背ける気にはならなかった。
幾年ぶりに杜城くんと目をきちんと合わせたのだろうと、客観的に思った瞬間、口の中に鉄の味が広がった。
十一月二十六日 タイトル改めました。