勘違いの郷入り
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
目印。
僕たちが日ごろ、お世話になっているものだ。
道路標識から、場所の案内まで、僕たちは視認したものから情報を読み取り、たいした時間をかけずに意味を把握した動きを取ることができる。
こいつは原始的ながら、確かな効果をあげるものではあるが、慣れと思い込みというのは怖いものだ。僕たちはいつの間にか考えるプロセスをすっ飛ばし、脊髄反射のごとき速さと拙さで動いてしまうこともある。
いたずらで済む範疇なら、笑い話で済むだろう。が、もしも重大なもので、同じようにうっかりしてしまったら、でっかい損害を被りかねない。
反射的に判断しながら、思考もおろそかにしない。こいつを可能にするには、やはり経験値に基づいた、勘てやつが重要かもね。
僕もちょっと前に、目印関連でおかしな目に遭ったことがあるんだよ。そのときの話、聞いてみない?
あれは中学生くらいのときだったかなあ。
ことの発端は、ある日の昼休み。図書室に借りた本を返しにいったところ、廊下の途中でクラスメートの女の子に鉢合わせしたんだ。
というのも、すれ違う格好ではなく、トイレから飛び出してきた瞬間だったのだけど……それが妙なんだ。
ぱっと顔をあげると、トイレ前にある標識は男子のものを指している。つまり、中には個室以外に小用の便器も存在するわけで、それに気づいた彼女があわてて出てきて……という筋書きだろう。
しかし、「間違えるもんかね?」とも思った。
標識以外に、トイレ内での壁の色も異なり、男は青ベース、女は桃色ベースになっているんだ。
トイレ内に至るまでのコーナーの壁色でも判断がつくはず。よっぽど慌てていたのか?
けれど、尋ねてみると、彼女は間違いなく女子トイレに入った心地だったという。
標識、壁の色もろもろも、中を見るまでは確かに女子トイレのそれに思えたんだ。なのに、いざ入ってみれば並び立つのは小用便器。
まさかこのようなミスをするなどと、あらためて外に出れば男子トイレだわ、僕にそれを見られるわで、さんざんだったらしい。
他のみんなには内緒にしろ、といわれて学校の仲間うちには話していない。
よっぽど、せっぱつまっていたんだろうなあ、とこのときは他人事めいていたのが、自分の身に降りかかるとは思っていなかった。
数日後。
体育の授業終わりに、ささっと校舎へ引っ込んで一階のトイレへ飛び込んだところ、目の前に個室しか存在しないことに気づいた。
一瞬、理解が追いつかなかったが、例の彼女のことを思い出し、取って返す。
入口の標識は間違いなく、赤くてスカートを履いた女子トイレのもの。壁だって、あらためてみれば、女子トイレのものを示す桃色だ。
ばかな、と思った。
いかに急いでいたとはいえ、トイレの確認している。
黒色でズボンを履いた男子トイレの標識を。それを裏付ける青色の壁を。なのに、いざ入ると女子トイレとは、どういうことだ?
そして極めつけは……。
「あ」
くだんの彼女に、出てきたところを目撃されたということだ。
ということで、めでたく秘密を共有することになった男女ができあがったわけで。
「ぜってー、こんなのおかしい。『インボー』だろ」と、おたがいの見栄っ張りのもとに意気投合して、この勘違いに意味があるものと躍起になったわけだ。
二人してギラギラ目を光らせて、あちらこちらを歩くものだから、その距離感の縮まりかたは、異様に思えるようで。
「なに? お前ら、付き合い始めたん?」
などと、突っ込まれる始末。
――二言目にはすぐそれか。まったく思春期は……。
僕たちは適当にあしらいながら、ときにおのおの、ときに共同で見間違いを探り続けていた。
まさかトイレを間違えた同士の縁などと、素直に話すわけにもいかない。
それから一カ月ほど、二人して目を光らせたところ、どうやら自分たち以外にトイレ間違いをしている面々が、ちらほらいることを察したよ。
入ってから出てくるまで、一部始終を見届けられたことが何度かあったしね。あのあわてぶりは、間違いなく標識見間違えをやらかしていると見た。
はた目には、標識とかは確かに男子トイレ、女子トイレのそれだとはっきり分かり、誰かが小細工をしているわけではないのは、二人して確認済み。
やはり、当人たちの認識能力に異状が起こっているとみていいだろう。
毎日、彼女とは情報共有をしていたが、どうも自宅やその近辺だと――ひとりで見張るには、範囲が広すぎというのもあるけど――これらの勘違いをしてそうな人は見受けられない。
ほぼこの学校内に限定されていた。いまのところ、トイレ標識ばかりにこの異常が見受けられているのだけど、お互いに疑問が出てくる。
もし、勘違いしたトイレの中で、気づかない体で用を足したらどうなるのか、と。
二人して興味はあったが、仮に勘違いして飛び込んで、そのままやろうなんて度胸はなかなか起こるものじゃない。
出入りが大勢に見られるだけでも、特大の尊厳破壊は免れず、卒業するまで肩身が狭い思いをすることは必至。
トイレのことだけに、水に流せばいいものを、現代社会はガンコな汚ればかり、顔も口もでっかいものだ。
9割以上の美点も、たった1割以下の汚点にけがされるのが主流と思うと、胃がキリキリしてきそうだった。
「まったく、うちらみたいに、広い心を持てんもんかなあ」
「んだ、んだ」
などと、したり顔で背伸びじみた態度を取りたいお年頃の僕たち。
並んで廊下を歩きながら愚痴っているわきを、駆け抜けていく女子生徒の姿があった。
この慌てぶり、よもやと思ったが彼女は僕たちの前方、右手にあるトイレへ飛び込んでいったんだ。
これまでの経験上、すぐさまトイレの標識へ目をやる、僕たち二人。
まぎれもなく、男子トイレの標識だ。
そして今度の彼女は、入ったきり、なかなか出てこないときている。
よもや、よもやの事態に、僕たちはとっさに作戦を練った。
とはいっても、中身は至ってシンプル。彼女が女子トイレ近くで待機し、入っていった生徒の様子をうかがう。
いっぽうの僕は、いったんその場を離れて彼女からの報告を待つという格好に。
さすがに、トイレ前で女子が出てくるのを堂々と待ち伏せるとか、ばれたら社会的に僕が死ぬ。
とはいえ、自分の目で全く見ないで報告だけを聞く、というのも信ぴょう性にかけるもの。
校舎が曲がっているのをいいことに、僕は遠目の窓から、かの女子トイレがかろうじて見える位置にさりげなく陣取って、様子をうかがっていたんだ。
結論からいおう。
確かに、女子にとっては尊厳を壊されるものだったかもしれない。
少し時間を置くと、トイレから悲鳴をあげて例の女子が飛び出してきたんだ。
いや、初見は女子だと分からなかった。
なにせ、着ていたはずの制服の袖が破けた腕の部分、スカートの下からのぞく足の部分といった、肌がのぞくはずのそこかしこから、剛毛が生えていたのだから。
毛深い、なんてレベルじゃなかった。
ぱっと見、鎧でも着ているんじゃないかと思うほど、彼女の毛にはスキがなかった。出てきたときには、人型の怪物かと思えてしまったほどだ。
待っていた役目の彼女が、なかなかのやり手で助かった。飛び出してきた女子生徒をなんとかなだめすかせ、改めて女子トイレへ誘導。
再び出てくるときにはもう、トイレへ飛び込んでいくときの女子生徒の姿のままになっている。どうも、盛大に毛刈りをしていったのだそうな。
彼女が女子生徒から聞くに、生徒はやはり夢中でトイレへ飛び込んでいったらしい。
用そのものは終えられたんだが、個室を出てから並ぶのは小用便器の群れたち。
自分が男子トイレで用を足してしまった! と羞恥に駆られるや否や、突然に制服の両袖がはちきれていく音。
生地を突き破り、瞬く間に肌を埋め尽くしていくのは、黒くて太い剛毛たち。これが足も見る間に生え隠されていくとなれば、もう錯乱もので。
夢中で飛び出したところ、彼女におさえられたらしかった。
以来、2人して標識にはいっそう気を配ったし、周りの変化にも注意するようになったよ。
郷に入っては郷に従え。
ことわざにあるけれど、もし自分が場違いな「郷」に飛び込んだと思ったら、いくらあせっていても退くことが第一だね。
その勘違いした「郷」に、理屈をすっとばして従わされてしまうかもしれないから。