ついててやる
自宅のマンションへ帰り、妻が作ってくれた夕食を食べている。
今日は酢豚だけど、黄色い彩のパイナップルがあまり甘くない。
再び夫婦を続けると決めたのだが、まだまだギクシャクとした感じだ。
何と言うのか芯の部分で、繋がりきっていないと思う。
俺は皿とかを洗い終えて先に風呂へ入った。
パジャマに着替えてソファーで寛いでいると、お風呂上りの妻がトコトコとそばまで歩いてくる。
バスタオル一枚だけの姿だ。
妻は顔を真っ赤に染めてハラリとその一枚も床へ落とした、「抱いてください」と俺に言ってくる。
こんな露骨に、妻から誘ってくるのは初めてのことだな、勇気を振り絞っているのが表情からも分かった。
良く見ると体が小刻みに震えてもいるぞ。
俺が冷淡に拒絶する可能性も高いのだからな。
俺も離婚をしない以上、出来るだけ前の状態へ戻るべきだと思う。
妻を延々と責め続けても、濁った泥のような復讐が出来るだけだ。
俺にはそんな体力も気力も、継続性も執念も覚悟もない。
俺は妻をお姫様のように抱え上げて、寝室へと向かった。
「あっ、嬉しい。ありがとう」
妻は俺の首に手を回して、満面の笑みを浮かべ裸の体を俺に引っ付けてきた。
ベッドに妻を降ろして、唇へキスをしようと顔を近づけた時、浮気相手と妻が熱いキスを交わしているシーンが頭の中に浮かんでくる。
舌を絡めあった二人の唾液が、ラブホテルのピンクの照明に、キラキラと光を放っているんだ。
乳房へ手を伸ばそうとしたら、そこを浮気相手に舐められた妻が「あん、感じる」と甘く応えている声が聞こえてくる。
つんと尖った先を吸われることで、俺が見たことも無い、恍惚の表情に変わっているんだ。
少し開いた股間に目をやれば、浮気相手に「もっと股を開け」と命令された妻が、自分で大きく広げて「ここが泣いています」といやらしくおねだりをしている。
俺に対して、こんな淫らな行為をしたことも、こんな卑猥な言葉を使ったことは絶対になかった。
「泣いています」
止めてくれ。
また妻が卑猥なことを言っている。
「〈あなた〉、どうしたのですか、どうして泣いているのですか」
「君が浮気相手と舌を絡めてキスをしていたんだ」
「えっ、舌を絡めてなんかいません」
うぅ、でもキスはしたんだな。
「君が浮気相手に胸を舐められて、〈感じる〉って言っていたんだ」
「そんなことは言ってません。声は押さえていました」
はっ、感じてはいたってことじゃないか。
「君が浮気相手に言われて、大きく股を開いていたんだ」
「うっ、大きくは開いていません」
くそっ、開いたのは事実なんだな、股を開かなければあの行為は出来ない。
「俺が抱いても、君はたいして気持ち良くならないんだ」
「そんなことないよ。 〈あなた〉が一番なんです」
「俺以外の男だったら、ゾクゾクするんだろう。 ゾクゾクしない分、俺はどんな男より劣っているんだ」
「うぅ、〈あなた〉は劣ってなんかいません。 こんなにも私は、〈あなた〉を傷つけてしまったのですね。 あぁ、どうすれば良いの」
裸で横たわっている妻を見ながら、俺は泣き続けていたらしい。
この時の俺の心は、悔しさと情けなさと悲しさで、ぐちゃぐちゃだったと思う。
自分で思っていた以上に、妻を愛していたのかも知れない。
妻が自分じゃない男の、女になってしまったのが堪らなかったんだ。
俺にだって自尊心はある。
妻が俺を憐れんで、俺で我慢しようとしてくれていることに、耐えられないんだ。
「うぅ、〈あなた〉は他の男とキスをした私の唇を見て、悲しくなってしまうのですか。 他の男の唾液がついた私の胸に耐えられないのでしょう。 他の男を迎え入れた私の股間が、〈あなた〉の尊厳を傷つけているのですね」
「うぅ、俺にも良く分からない。 俺はもう君を抱く自信がないんだ」
「全部私が悪いんです。 唇も胸もあそこも、全て新しくします。 他の男の唇や手や唾液がついた皮膚は消し去って、あそこも綺麗にしてみせます」
妻はこう叫ぶように言った後直ぐ、裸のまま寝室を出ていってしまった。
俺は寝室で自分が泣いたことに、上手く整理がつかないまま、自分では制御出来ない感情の渦に巻き込まれていたと思う。
妻のことを気づかう余裕も、優しさも無かったんだ。
「〈あなた〉、私の唇も胸もあそこも全て、真っ白に漂白したわ。 これで他の男が触れた皮膚や粘膜は、溶けてなくなって綺麗な体になったのよ」
妻がニコニコと笑いながら寝室に入ってきたけど、妻の体からは強烈な塩素臭がしている。
唇も胸も股間も赤くなっているのは、皮膚が爛れているんじゃないか。
泣いていた俺はすごい刺激臭と妻の異様さに、一瞬呆気にとられたが、しでかしたことに怒りが湧いてきて、妻に「バカなことをしやがって」と言ってしまった。
「うぅ、そう言うけど。 もう私に出来ることは、これぐらいしか残っていないのよ」
俺は妻の言ったことに返事はしないで、抱えるようにして浴室へ連れていった。
浴室の扉の前に来ただけで、猛烈に濃い塩素の匂いが漂ってくる。
換気扇を回し息を止めて窓を全開にしてから、浴室の床に転がっていた漂白剤の蓋を固く締めた。
俺の指先がヌルヌルとしてくる、しばらく塩素ガスが抜けるまで待って、引きずるように妻を浴室へ叩き込んで乱暴にシャワーを浴びせかけてやる。
俺は自分にも怒っているけど、それ以上に自分自身を傷つけた妻に怒っているんだ。
すごくずるいと思ったんだ。
俺は男だけど、泣きたい時には泣かせてくれても良いじゃないか。
原液の漂白剤をかけてからかなり時間が経っているので、妻の胸は赤く爛れて酷いことになっていた。
唇と胸と股間にシャワーをかけながら、手も使って流してやるのだけど、身体中がヌルヌルだ。
皮膚が溶けてきているんだ、特に粘膜で弱い唇と股間はマズイことになっているぞ。
これだけ爛れて相当痛いはずなのに、妻は「あぁ、私の体を触ってくれている」と嬉しそうに言いやがる。
こんな状況でどうして嬉しいんだ、俺は正直ゾッとしたけど、今は漂白剤を洗い流さなければいけない。
かなりの時間シャワーをかけてから、病院へ連れていく事にした。
唇は酷いことになっているし、股間の奥はデリケートな部分だから、もっと酷いことになっているかも知れない。
妻がパジャマを着ている間に、タクシーを頼んで救急病院へ向かった。
タクシーの運転手は、「うわぁ、塩素の匂いがすごい。変なことに巻き込まないでくれよ」と少しゴネていたけど、「妻が漂白剤を被ってしまったんだ」と返事をしたら「あれをかぶったんですか。それは大変だ」とスピードを上げて急いでくれた。
妻はその間もヒシっと俺に抱きついている。
俺を離さないつもりなんだろう。
少し怖くなる。
医者の指示で看護師さんが徹底的に洗浄してくれて、塗り薬を塗って貰い処置は終わったらしい。
今晩は病院に泊まり明日もう一度診察をする事になった。
ふぅー、一安心だ、ぐったりするよ、疲れたな。
個室だったため俺も朝までついててやることする。