第5話 遠雷
健やかな風がそよぎ、頭上の白い雲がゆっくりと流されている。
「…ー。」
蝶々は野の丘に寝転んで、肺一杯に瑞々しい空気を吸い込んだ。傍らにはサチがぷうぷうと寝息を立てて昼寝をして、小さな赤い携帯ラジオが歌をうたっていた。ラジオは時折ノイズが混じるが、それすらも味のように感じられた。
こんなにも穏やかな心持ちは久しぶりだった。
否。
もしかしたら、初めてかも知れない。
今日は遠足と称して、紅夜と蝶々が引率の遠出が行われていた。村の子どもたちは素直で明るく、笑い声の絶えない一行となった。
着いた先は森を抜けた小さな丘。丘のうえで弁当を食べ、今は自由時間だ。
サチは相変わらず蝶々に懐いて離れない。
「蝶ちゃん。あの雲、お魚さんみたいな形だねえ。」
「そうだね。サチ、寝るなら俺の上着を下に敷いて。かわいい服が汚れるよ。」
無邪気に草の上に直に寝転ぶサチに、蝶々は上着を勧める。サチは嬉しそうに蝶々の服の上に移動した。
「蝶ちゃんに匂いだー!」
そう言って、子ども特有の甲高いこえでサチは笑う。蝶々は首を傾げながら、自らの服の裾の匂いを嗅いだ。
「蝶ちゃんはね、干したばっかりのふかふかのお布団と一緒の匂いがするんだよ。だから、大好き!」
「そう?」
自分ではよくわからないが、好いてくれているのなら問題はないだろう。
「ありがとう。」
「うん!」
えへへ、と笑い、サチは供に寝転んだ蝶々にくっつくように密着する。まるで大きな抱き枕のような扱いだったが、それでもいいかと思う。
「ねえねえ。蝶ちゃんは好きな人、いる?」
「好きな人?突然だね。」
「恋バナだよ。真剣に考えてね。」
さすがは女の子だなと思いつつ、蝶々には一人の人間が脳裏に浮かんでいた。
笑うとたんぽぽのような明るさで、雰囲気は綿毛のようにふわふわしていて。でも、時折見せる芯の強さに目が離せない。
「…内緒かなー。」
「えー?教えてよう。」
サチは唇を尖らせているようだった。
「サチはどうなの?」
「…サチも、内緒。」
蝶々は、ふは、と吹き出してしまう。
「そっかー。じゃあ、一緒だね。」
「うん。一緒だねえ。」
そう言うと、サチは黙り込んでしまった。会話に飽きてしまったのかと思ったら、規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら寝入ってしまったらしい。
赤い携帯ラジオはサチが持参したもので、父親から借りてきたという。サチの家には母親がいない。そういった境遇も、蝶々に懐くきっかけとなったのかもしれない。
うとうとと二人で微睡む。遠くでは他の子どもたちが鬼ごっこに興じる声が聞こえてくる。チチチ、と小鳥がさえずり、ミツバチ一匹分の羽音が響く。ラジオから歌が止み、天気予報が流れてきた。
「蝶々さーん。サチー。そろそろ帰りましょう。」
遠くから近づいてくる紅夜の声。もっと聞いていたい。
「あれ?二人とも、寝ちゃったんですか。」
クスクスとした鈴のような笑い声と、隣で膝をつく紅夜の気配がする。
「蝶々さん?」
肩に触れ、揺すろうとするその手を思わず蝶々は取った。そして、ぐい、と引っ張る。
「わわっ、」
体勢が崩れた紅夜の重みを上半身に感じた。眠気で重い瞼を開けて、紅夜を確認して。
「…え…?」
そして、紅夜の唇に口付けた。
温かく湿っていて、やわらかい感触が心地よい。一度だけ柔く食み、ちゅ、と吸って解放した。
夕方の空気を孕んだ涼しい風が蝶々と紅夜の間に吹いた。ゆっくりと唇が離れていく。驚いて固まる紅夜をよそに、蝶々は二度三度瞬きをして起き上がり、伸びをした。
「ふあ…。よく寝たなー…。」
未だに眠たげな瞳をこすりながら、隣で眠るサチにも声をかける。
「サチ。サチー?帰るって。」
「ぅんー…。」
蝶々はまるで普通の態度だ。
「え…、と。蝶々さん?今…、」
「ん?」
紅夜が困惑を隠せずにいても、蝶々は何事もなかったかのように微笑んで首を傾げてみせる。そのあまりにも無邪気な仕草に、紅夜はあまりない毒気が抜かれるようだった。
「か、帰りましょうか。そろそろ。」
「ああ、もうそんな時間なんだね。」
眠くてぐずるサチをおんぶして、蝶々は立ち上がる。
「蝶ちゃん。シスター?置いてっちゃうよー。」
子どもたちが手を振って、三人を急かす。
「今から行くよ。紅夜。」
「え?はい。」
「帰ろう。」
夕日を背景に、蝶々は穏やかに微笑んでいた。
ー…もう、何も言えない。
そう思えるほどに、紅夜は蝶々に絆されたのだった。
「風に湿気が帯びてきましたね。」
紅夜は遠足の帰り道、空を見上げながら呟く。
「ああ。さっき、ラジオの天気予報で雨が降るって言っていたな。雷雨になるらしいよ。」
「そう…。」
紅夜はそわそわと落ち着かない。しきりに空を見上げ、雨雲を探しているようだった。
「紅夜?大丈夫、まだ降らないよ。降るなら夜だ。」
「う、うん。それでも…、少し急ぎましょうか。」
そう言って、紅夜は歩く足を速めて子どもたちを牽引する。「?」
蝶々は首を傾げながらも、子どもたちの最後尾を歩くのだった。
村に無事に到着し、子どもたちを一人一人、家に送り届ける。その際にもらった野菜や果物、料理のおすそ分けが今夜の夕食になった。
夕食後、紅夜と供に夜のお祈りを済ませて、蝶々は教会に残って聖書を読んでいた。読書をしていると集中しすぎて、どうやら周りが見えなくなるらしい。ふと気が付けば夜も更け、窓ガラスを雨粒が叩いていた。遠くでは雷が鳴っている。天気予報が的中したようだ。
そろそろ部屋に戻ろうか。
そう思い、長椅子から立ち上がるとカーテンを透かして稲光が差した。その直後、大地を震わすような耳をつんざく音が響き渡る。ビリビリと体と鼓膜を震わせる大きな音に、蝶々は明日の天気を思う。
この様子なら朝まで雨は続きそうだ。
朝のお祈りの時間が少し遅くなるかもな、と考えながら廊下を歩いて行くと、浴室の扉が僅かに開き光の筋が一線伸びていた。
「…?」
何気なく扉を開けて室内を確認すると、浴室の隅で一人震える紅夜を見つけた。
「紅夜?どうした、」
蝶々が近づいて視線を合わすように膝を折ると、紅夜は耳を塞いで目を瞑っていた。
「紅夜。」
そっと肩に触れると、驚いたように全身を震わせて紅夜が目を見開いた。
「!」
「大丈夫?紅夜。」
「…、蝶々、さん…。」
紅夜が蝶々の姿を認めたその刹那、再び雷がいななく音が響いた。
「きゃっ!」
「うわ、っとと。」
紅夜はすがるように、蝶々に抱きついた。服越しに重なる紅夜の胸からは暴れるような心臓の鼓動が感じ取れた。体は震えて、手足の体温が下がっている。
「…紅夜。大丈夫だよ。」
「…っ!」
蝶々は優しく、震える紅夜の背中を宥めるように撫でた。
「雷、怖かったんだね。」
いつも外の音が響きにくい浴室に逃げていた。
一人の夜に訪れる雷雨は恐怖でしかない。幼い頃から雷が怖くて堪らなかった。まるで体を裂き、焼き殺されるんじゃないかと想像してしまい、逃れられなくなった。
「紅夜。ずっと一人で、耐えていたの。」
でも、今は違う。今は蝶々がそばにいてくれた。怯える紅夜を抱きながら座って、落ち着かせるようにゆらゆらと体を揺らしてくれる。
「…す、みま…せん。」
「謝ることは何もないよ。怖いよね、雷。俺も昔、嫌いだった。」
「どうやって…克服したんですか…?」
蝶々の声は直接鼓膜に響くようだった。他の音が聞こえないように、耳元で囁いてくれていたことを後に知る。
「うん?俺は外で寝ることが多かったから。克服って言うより、慣れかな。」
低くて、深い。染み入るような蝶々の声だった。彼の声を聞いていると、驚くほどに心が凪いでいく。
「楽しいことを考えよう。」
その声に導かれるように、紅夜はおずおずと顔を上げてみた。そこにはいつもと変わらない、蝶々の笑みがあった。
「…それなら、」
「うん。」
「蝶々さんの瞳を、見てもいい?」
ずっと見つめてみたかった。いつもは無礼だと思い慎んでいたが、今はどうやらタガが外れてしまったようだった。それでも蝶々は、喜んで紅夜の要望に応えてくれた。
「いいよ。好きなだけ見て。」
「…。」
その言葉に誘われて、紅夜は蝶々の顔をそっと両手で包み込む。そしてじっと長い睫毛に縁取られた瞳を覗き込んだ。蝶々の瞳は単なる金色だと思っていたが、見てみると複雑な色彩をしていた。全体は金色が多く占めるが、その中には内側から外へ向かって放射状に翠や白。水色の虹彩が走っていた。瞳孔は黒に近い深い茶色で、グラデーションを帯びてその瞳に馴染んでいる。まるで瞳の中に、ひまわりが咲いているようだった。
「…ははっ。」
唐突に、蝶々が笑う。紅夜が首を傾げると、蝶々も紅夜の頬に片手を添えた。
「紅夜の瞳、蕩けたような苺色で美味しそう。舐めたら甘いのかな。」
「!」
相手の瞳を見つめる行為は自らの瞳も覗かれるということにようやく気が付いて、紅夜は飛び退いた。
「怖かった?ごめんね。」
「あ…、違…っ。」
物理的な恐ろしさよりも、眼球を舐めるというフェティッシュな行為に紅夜は羞恥を覚えたのだ。
蝶々は、でも、と話を続ける。
「カニバリズムは趣味じゃないけれど、紅夜なら食べてみたいな。」
「不味いですよ、きっと。」
蝶々はいよいよ笑いを濃くする。
「嘘だよ。そんなに美味しそうな匂いをさせておいて。」「美味しそうって…、ひゃ、」
突如として、蝶々は紅夜を深く抱きしめた。背の高い蝶々にこうして抱きしめられると、小柄な紅夜はすっぽりと包まれてしまう。
ぎゅう、と力を込められて、紅夜の背筋がしなった。
「ちょう、蝶々さ…っ!」
蝶々の上半身に埋もれた紅夜のくぐもった声が、彼の胸に響く。
「ん?」
紅夜の耳裏に蝶々は鼻先を埋めて、すん、と獣のように匂いを嗅いだ。紅夜はくすぐったくて身をよじる。
「逃げないで。」
「…でも、」
「大丈夫。食べないよ。」
そう言いながらも、位置を変えて蝶々は紅夜の首元に頭を預ける。そして徐に紅夜の服を開けさせて、首の筋に添って舌を這わせてきた。
「…っぁ!」
熱くて分厚い、ざらりとした舌が紅夜の肌を味わうように蠢く。その刺激に耐えるように紅夜は蝶々にすがりついた。困惑で瞼が閉じず、紅夜は蝶々の背後の光源を見つめた。小さな裸電球が室内を照らし、鏡の中の自分と目が合った。「!」
自分が今、どんな表情をしているかなんて知りたくなかった。
その瞳は情欲に濡れて、熱を帯びていた。酸素を取り入れるために淡く開いた唇の端には唾液が溜まり、上気した頬は紅色に染まっている。
まるで情事を求め、欲しているかのような表情。
「紅夜?ねえ。俺に集中して。」
「え?あ…っ!」
動揺している紅夜を、蝶々はゆっくりと押し倒した。背中に浴室の冷たいタイルが当たって、思わず肩が跳ねる。
「かわいいね。」
恐らく蝶々の瞳には、先ほどの自分の顔が映っているはずだ。紅夜は恥ずかしくて、情けなくて思わず顔を腕で隠した。
「? 何故、隠すの?」
「だって…、こんな。みっともない、よ。」
涙が出てきて、隠した腕を濡らす。
「そんなことないのに。顔が見たい。紅夜、腕をどけて。」
「だめ…。」
蝶々は紅夜の上に覆いかぶさりながら、首を傾げた。
「いや、じゃなくて?」
「! い、いや!!」
慌てて訂正をする紅夜を見下ろしながら、はは、と蝶々は笑う。
「かわいい。紅夜。」
腕で顔を庇うあまり他が無防備になった紅夜の体のラインを、服の上から人差し指で蝶々はなぞる。
「やっ…、」
背筋に走るぞくぞくとした粟立つ感覚に耐えきれず、紅夜は顔を上げて蝶々の腕を取ろうとした。
「っ痛!」
「…いったー。」
勢いよく顔を上げすぎて、互いの額と額をぶつけてしまう。無言になり、見つめ合い、そして。
「ふは。」
「あはは!」
同時に吹き出したのだった。
隣り合って座り、肩を寄せ合う。
紅夜が言うに、浴室は家の中で一番密閉性が高く外の音が響かないらしい。
幼い頃から一人のときは、浴室に隠れて雷から逃れていた。蝶々はその様子を想像して、子どもの紅夜に寄り添いたかった。
「…雷が鳴っているね。」
「…うん…。」
先ほどの戯れで疲れてしまったのだろう、紅夜は蝶々の肩に頭を預けてうとうととしている。
「もう、怖くはない?」
「うん…。」
「寝ぼけているようだから、あてにはならないかなー…。」
蝶々は紅夜の唇をくすぐるように撫でた。紅夜はむにゃむにゃと寝言を言い、ぺろ、と子猫のような小さい舌先を出して蝶々の指の腹を舐めた。
「…。」
くくく、と鳩のように笑い、蝶々はいたずらをやめた。
「…怖くないよ。」
紅夜は呟いて、眠った。その手を蝶々はずっと握っていた。