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第11話 かくれんぼ

その頃、蝶々たちは石蕗家の屋敷近くまで来ていた。森の中に熊が冬眠に使い、今は家主のいない洞窟に身を潜めていた。

「蝶々、何か動きはあるか。」

ルイスが屋敷を見張る蝶々に問う。

「今は、特に…。」

屋敷から目を離さずに、蝶々は答える。

「なんか、いやなかおりが混ざるね。」

すん、と鼻を鳴らすアリスが顔をしかめてみせる。

「ああ。お香だろう、きっと。人工的で、禍々しい感じだ。」

蝶々は上着のポケットから香り袋を取り出して、手のひらで転がした。そしてぎゅっと握る。

「…香りがかき消されそうだ。」

それは一種の不安だった。今までの道中、絆として持っていた香り袋の存在が揺らぎそうで怖い。

「大丈夫だよ。」

アリスが今までに無く自信ありげに断言する。

「…アリス?」

蝶々が首を傾げると、ルイスがアリスの自信に言葉を足す。「ああ、アリスは嗅覚が特に優れているんだ。鼻が詰まるとかイレギュラーなことが無い限り、大抵のものは嗅ぎ分ける。」

「そうなのか。すごいな。」

目を丸くする蝶々に向かって、アリスは胸を張って見せた。「うん!それとね、ルイスはすごく夜目が利くの。暗くても見えるんだって。」

「…まあ、暗闇で困ったことは無いな。それだけだよ。」

「いや、それだけって事は無いよ。」

蝶々は二人を招き寄せる。

「ルイスとアリスのその特技は、いつか絶対に役に立つ。そのときが来たら頼ってもいいか?」

うん、と大きく頷くのはアリス。仕方ないな、と照れくさそうにするのがルイスだった。

「さて、紅夜の動きがあるまでは長期戦だ。何事も無く帰ってくるならそれがいい。紅夜の身に何かある前に、俺たちは駆けつける。二人とも、もしもの場合に備えて今は体調を整えておくこと。…さあ、食事にしよう。」

持参した食材で作ったサンドイッチで簡単な食事を摂る。温かい食事が恋しくなる頃だが、我慢の時だ。

「そういえばさ、蝶々は何か特技って無いのか?」

ルイスがサンドイッチを頬張りながら、蝶々に問う。

「俺は…何も無いよ。」

蝶々は困ったように微笑むのだった。


「…、」

鈍い頭痛を感じながら、紅夜は目が覚めた。起き上がろうとして、目の奥が回るような気持ちが悪い感覚に再び床に伏せる。

「こ、こは…、」

深呼吸をして、気分を落ち着ける。肺に満ちるのは湿った、カビ臭い空気だった。耳を澄ませば、ぴちょん、と水滴が落ちる音が鼓膜に響く。

再びそっと瞼を持ち上げると随分と天井が高く感じられ、手が届きそうにないところに小さな窓が格子越しにあった。その窓からは欠けた月が覗き、蒼い光が室内を射していた。ゆっくりと、上半身を持ち上げる。今度は眩暈が起こらなかった。

そしてようやく部屋の全貌を見た。そこは部屋では無く、牢屋だった。

冷たい石の壁に片面を鉄格子が張られ、見張りのしやすい構造。硬いベットに紅夜は寝かされ、牢屋の片隅には簡単な洗面台とトイレ設備がある。

仄かな失望感が、確かな絶望感に変わる瞬間を紅夜はまざまざと植え付けられた。それでも涙は出てこなかった。

不思議だと思う。やはりな、という感覚があった。

石蕗家の人間は、紅夜を家族とは思っていなかったのだ。ギシ、と軋ませながらベッドから起き上がる。ふと気が付けば、牢屋の格子のすぐ傍には使用人が一人控えていてるの見えた。使用人は船を漕ぎ、うたた寝をしているようだった。

「…あの、すみません。」

紅夜がおずおずと声をかけると使用人は寝ぼけながら目覚めて、一瞬、はっとしたように息を呑み、怯えたように紅夜を見た。

「驚かせしまい、申し訳ありません。私はこれから、どうなるのでしょうか…。」

紅夜の凪いだ声に幾分か空気が和らいだが、使用人の緊張はまだ解けない。

「…ご主人様と旦那様がお話されるそうですので、お待ちください。」

そう言うと使用人は出入り口へ続く階段へと向かっていき、紅夜はたった一人牢屋に残された。ふう、と溜息を吐いて、ベッドに座り直す。時間の感覚が無い中、随分と待たされて石の階段を上ってくる足音を一人分近づいてくるのがわかった。カツン、カツン、とゆっくりと踏みしめるような足音はヒールのある靴の物のようだ。何気なしに迎えるように階段のある方向を見つめていると、母親が一人、ろうそくの明かりを頼りに現れた。

「お母さま…。」

「目が覚めたようね、紅夜。」

母親はなるべくこのカビ臭い空気を吸わないようにか、白いハンカチを口に当てている。

「お父さまは?」

「旦那様は足を悪くしているの。用件を告げるのは、私だけで充分。」

「そう、ですか。」

ろうそくの橙色の光に、母親の頭髪が白んで見えた。金髪でわかりにくいとはいえ随分と白髪が増えたようで、時の経過を感じさせた。

「質問を許してくださいますか。」

「問いによるけれど、許可します。」

紅夜は、まずここがどこなのかを訊く。

「ここは、領地にある東の塔。あなたの部屋からも見えたはずよ。」

そう言われて、紅夜は屋敷の離れに住んでいた頃に窓から見えた、薄暗く、カラスが巣喰う塔を思い出した。

「私が気を失って、どのぐらいの時間が経ったのでしょうか。」

「針に塗ったのは即効性とはいえ、持続性のないものだからさほど時は経っていないわ。せいぜい、半日ほど眠っていたのかしら。」

やはり、睡眠薬を針で注入されたのか。そういえば、首筋にまだ疼痛がある。

紅夜は頷く。あまり何日も寝ていたようだと、村で待つ蝶々たちに心配をかけてしまう。

そして、本題に入る。

「私をこれから、どうするおつもりですか?」

心臓がうるさいほどに脈打っている。それを無視して、平静を装った。

母親は言う。

「あなたは三日後の満月の夜に天に召され、魔王様の御許へと行くのよ。」


ー…全ては、白夜のため。


「…え…?」

母親の言葉を聞いて、紅夜の心は水に打たれたように冷えた。

「紅夜はいい子だから、わかってくれるわよね?」

青ざめる紅夜の顔色を顧みること無く、母親は淡く微笑んでいる。

その笑みは幼い頃に何度も見た、痛みの記憶に帯びる。

細いナイフで腕を切りつける間。

小瓶に血液を採取される時。

儀式が終わり、もう用はないと突き放される一瞬。

「…。」

紅夜の無言を肯定と捉えた母親は満足そうに頷く。

「それでは、また三日後。あなたが逝くときは見守ってあげるわ。」

言葉を紡ぎ、母親は踵を返して怪談を下っていった。代わりに訪れたのは、先の使用人。見張りの命を受けているのだろう。

「…そうか。」

紅夜は力なく、その場に崩れ落ちた。

「私に、死んでほしいのか。」

ぎゅっとワンピースの裾を握り締める。皺の寄る布地に水が滲む。水は、紅夜が流した涙だった。

「…ひっ、…く…、」

喉が引きつる。大声で泣くには人目が憚れる。誰も助けてくれないのなら、せめて一人にしてくれれば良いのに。


ずっと夢見ていた。いつか、愛してくれると。

ずっと期待していた。いつか、家族と認めてくれると。


供物として傷つけられて、それでも。


紅夜は小さな窓から覗く狭い空が朝日に白むまで、泣き続けた。


一日目。満月まで、あと二日。

紅夜は洗面台で顔を洗った。冷たい水が、気持ちを引き締める。使用人が運んでくれた質素な食事を摂り、体力も補った。

傷つかずに帰る、と蝶々たちと約束したのだ。死んでる場合ではない。

紅夜は生きるためにどうすべきかを考え始めた。

使用人が腰に下げている牢屋の鍵を奪うことが出来れば良いが、こちらに怯えを見せる態度を取っている間は容易に近づいては来ないだろう。一度でも失敗が出来ないのに、そもそも奪うという行為に紅夜は慣れていない。

…何とか、懐柔はできないだろうか。

あまり良い気分では無いが、背に腹は代えられない。コミュニケーションを取ってみようと思い、紅夜は格子に近づいた。

使用人は男性で、生真面目そうに口を結んでいる。

「あのー…、」

紅夜が話しかけると、それに気が付いた使用人はさっと彼女に向かって視線を走らせた。

「会話は禁じられていますゆえ。」

若干声を震わせながらも、きっぱりと拒否されてしまった。「そう、ですか…。すみません。でも、私が一人で話す分には構わない?」

「…。」

返ってくるのは沈黙。紅夜はそれでもめげずに、使用人に話しかけ続けた。

「白夜姉さんにお会いしたことはある?私はあまり機会が無かったものですから…。きっと美しくなられたでしょうね。」

麗しい金髪に、空の蒼を讃えたかのような瞳。世界中に愛されているような笑顔が忘れられない。それは、離れの自室の窓越しに見た白夜の幼い頃の姿だった。

「白夜姉さんは床に伏せているとお聞きしたのですけど。病状は今も悪いのかしら?」

体が弱い白夜のことが心配だった。家督を継ぐには体力も、精神力も必要なはずだ。白夜は耐えられるのだろうか、と思う。

「せめて、家督を継ぐか選べれば良いのに…。」

自分が、だなんてことは恐れ多いが、せめて長男の月夜とで選べればどんなに白夜の心労が軽くなるだろう。

両親の世界の中心は白夜で、月夜と紅夜は何だというのだろう。

…ああ、そうか。月夜も寂しいのだ。

いつも強気で性格がきついとも言える月夜の言動は、つまりはその寂しさの裏返しだということに気が付いた。彼は強がることで自分の心を守っているのだ。

なんて歪な形をしているのだろう。

「…紅夜お嬢様。」

使用人が言葉を紡ぐ。

「何でしょう。」

「自分に対して会話を続けようというのは、不毛です。明日には別の者が見張りにつきます。」

つまりは、仲良くなろうとしても一日経てばリセットされると言うことか。だけど、それでも。

「…構わないわ。今、私の話を聞いてくれるのはあなただけなのだから。」

紅夜はその一日、思いついたことを使用人に話し続けた。無視され続けてくじけそうになっても、尚。

夕方。

小さな窓から、朱色の夕日が射して時刻を知った。もう、一日が終わってしまう。

紅夜は、ふう、と小さな溜息を吐く。その溜息が、使用人のものと重なった。

「!」

ふと、使用人と目が合った。今日、話し続けて初めて瞳を見た気がする。

「…。」

クス、と紅夜が笑みを零すと、使用人の表情も幾分か和らいで見えた。

「紅夜お嬢様…、」

「なあに?」

「今日一日で、お嬢様のことを少し知った気がします。」

「…そう。」

ですが、と使用人は言葉を紡ぐ。

「申し訳ありません。お嬢様を逃がすことはできないのです。」

その声はやはり震えていた。

使用人としての賃金の他、石蕗の家から援助を受けて生活しているという。紅夜を逃がせばそれだけで済めば良いが、その援助は打ち切られるだろういうことは目に見えている。

「家族を路頭に迷わせてしまいます…。」

「そうでしたか。私は…、知らずにあなたを苦しめてしまっていたのですね。」

ごめんなさい、と紅夜が静かに告げると、使用人は首を横に振った。

「申し訳ありません、お嬢様。」

使用人の声の震えは紅夜に対する怯えだけでは無く、命令に従う緊張感も含まれていたのだ。



二日目。満月まで、あと一日。

夜から明け方にかけて雨が降る音が聞こえた。牢屋の中はひんやりと冷えて、少し寒い。紅夜は薄い毛布を引き寄せて、その室温に耐えた。

「…。」

紅夜は手のひらに香り袋を転がした。蝶々から貰った香り袋は服のポケットに入れていたために、取り上げられずに済んだ。

『ー…お守り。持っていて。』

蝶々の優しい声がまだ鼓膜に残っている。

すん、と鼻を鳴らして香りを嗅ぐと、ハーブの優しい香りが鼻腔をくすぐった。ミントのような、ベルガモットのような甘く清々しい香りだった。

蝶々の穏やかな声とルイスの不器用な優しさ、アリスの明るい笑顔がもう懐かしい。

「帰りたいな…。」

紅夜はバスタブにインクをポトンと落としたように呟いて、とても眠れる気はしなかったが無理矢理眠りについた。

朝になり、使用人が交代した。今度の使用人は体の大きい、横暴な態度を取る人物だった。

「あんたが、紅夜お嬢様かい?」

ニヤニヤと嫌な笑みを顔に浮かべながら、紅夜の頭の天辺から足の爪先まで眺める。その視線に居心地の悪さを感じていると、使用人は床に痰を吐きながら大げさに肩をすくめてみせる。

「なんだ。悪魔の子なんて噂が立っていたが、ただの小娘じゃねえか。」

そして、格子に顔を近づける。紅夜はとっさに後退った。「ふうん、紅い目か。うさぎみたいだな。食ってやろうか。」

ははは、と大きな声で嘲笑する使用人に対して嫌悪感を抱き、紅夜はきっと睨む。

「冗談だよ、お嬢様。」

そう言われてぞんざいな扱いで出された食事に手を付ける気になれず、紅夜はベッドの上で膝を抱えて空腹に耐えた。「…。」

まともなコミュニケーションを取れないと判断した紅夜は、どうすればいいかをひたすら考えていた。

このまま何も出来なければ、私は明日の夜に殺される。

誰にも頼れないこの状況は精神的に紅夜を追い詰めた。カチカチと手の指の爪を噛んでしまう。桜色で健康的な爪は直に歯形が刻まれて、ギザギザ状になった。

「…、…ー。」

使用人の低く唸るようないびきが不意に聞こえてきた。見ると、座り込んで腕を組みうたた寝をしているようだった。

紅夜はそっと様子を覗うように近づいてみる。使用人の腰には牢屋の鍵の束が下がっていた。

ドクドクと嫌な音を立てて脈打つ心臓を押さえるように紅夜は胸を押さえて、深呼吸をする。そして意を決して、格子越しに腕を伸ばした。

使用人の男は届きそうで届かない微妙な位置にいて、紅夜は必死に手で宙をかく。肩が格子に食い込み、脱臼しそうだった。

「…っ!」

不意に使用人の体がかくんと揺れる。

「うーん…?」

寝ぼけたような声を出して目覚め、使用人が紅夜の存在に気が付いた。

「! てめえ、」

紅夜は慌てて手を引っ込めようとするが、その手首を掴まれてしまう。

「きゃ…っ!」

「お嬢様が、盗人の真似事かい?」

ギリリ、と骨が軋むような感覚に紅夜は息を呑む。

「痛い、」

「この細い腕を折ってもいいんだが…、それをすると奥様たちに俺が殺されるからな。」

舌打ち紛れに使用人は言う。

「次に同じ真似をしたら、痕が残らない程度に痛めつける。警告はしたぞ?」

そう言って、使用人は紅夜を突き飛ばした。そして汚いものに触れたかのように手を布で拭うのだった。

「…。」

紅夜は手首をさすった。惨めさに涙が出そうになったが、もう泣きたくはなかった。

こうなったらチャンスは供物として牢屋を出た瞬間だ。隙を突いて、逃げ出すしか無い。最後のチャンスに向けて紅夜は体力を温存しようと出された食事を無理矢理にでも食べ、その日は早く眠ることにした。


夢を見た。

夢の中では姉の白夜が悲しそうに瞳を伏せていた。白夜はまだ少女のような面影を残し、そして、紅夜を見た。

『     。』

白夜は紅夜に向かって、何かを必死に叫んでいる。だがその声はノイズが混じり、波長の合わないラジオを聞いているかのように不鮮明だった。

「…白夜姉さん…?」

紅夜は彼女の声を聞こうとして必死で耳を澄まし、白夜との距離を詰めようとするが空回ってしまい近づくことすら出来ない。

やがて、どうしようも出来ないことを悟った白夜はほろほろと涙を零して泣き始めた。初めて触れた彼女の感情に、紅夜は困惑した。

「どうしたの?…何故、泣いているの…」

白夜の涙を見て、紅夜も泣きたくなった。両親の愛を一身に受けて尚、白夜には泣く必要があることに絶望した。


「…ー。」

すう、と夢から意識の浮上を感じた。泣きながら目が覚めてもやっぱり牢屋だったけれど小さな窓からは白い光が射して、小鳥が囀って朝を迎えた喜びを歌っている。

紅夜はそっと涙を拭って、供物を捧げる儀式当日を迎えた。

三日目。今宵は、満月の夜。

石蕗の屋敷、本邸では秘やかに今夜行われる儀式に向けて準備が進められていた。

「ようやく白夜の健康が約束されるわね。」

石蕗家当主の母親は儀式のときに着る黒い喪服のようなローブの最終調整をしながら、上機嫌だ。お針子の娘は黙々と手を動かしている。

キイ、カタンと金属音を立て、父親が部屋に入ってきた。後ろでは月夜が父親の車椅子を押している。

「あなたたちも、準備は滞りなくて?」

「ああ。問題ないよ。」

父親は頷いた。

「…。」

父親に対し、月夜は何かを口にしかけては噤んでいる。それに気が付いた母親は、何かを問う。

「言いたいことがあれば、はっきりと言いなさいな。心地が悪いわ。」

「…はい。」

月夜は意を決したかのように、口を開いた。

「今夜の儀式ですが…、どうしても自分も同席しなければなりませんか。」

「ええ。対象の白夜以外の家族全員の証人が必要なの。何度も説明したはずだけれど?」

儀式では紅夜の心臓を取り出すために、順番にその体に刃を立てる手筈だった。

「白夜のためとはいえ、人を殺める場面にいるなんて…、」

「月夜。」

優雅な足つきで母親は月夜に近づく。そして彼の手を取った。

「あなたは優しい子ね。でも、心を痛めることはないわ。あの子…、紅夜は悪魔の子なの。本当の親の元へとお返しするだけよ。」

その言葉に、父親も同意の意味を込めて頷いている。悪魔信仰の両親ゆえの発言に、月夜は辟易していた。そして紅夜に対してやっと若干の憐れみを覚える。

白夜が床に伏せて一ヶ月ほど、その姿を見ていない。彼女は自らの健康を祈り、このようなおぞましい儀式が行われるなどと知る由も無いのだろう。

二人の妹の正反対の不幸を憂い、月夜は溜息を吐いた。


一方で紅夜は牢屋で、一日の絶食を言い渡されていた。胃の中に物が残っているといけないとのことだった。その言葉の本質を知ったとき、紅夜は身震いした。

体を切り裂いた瞬間に消化物があるとその場が穢れてしまうのだろう。

紅夜は無意識に腹部を服の上から撫でた。その感触にぞわりと背筋が粟立つ。

落ち着かねば、と思う。ここで取り乱しても何も状況は好転しない。冷静に状況を把握し続けなければならない。

気が張って、神経が敏感になっているのがわかる。窓の外、遠くで昼間から狼のような遠吠えが聞こえた。この近くでは狼の群れがいるのだろうか。悲しげに伸びる声は今は優しく聞こえ、紅夜に束の間の安心感を覚えさせる。それは蝶々たちの遠吠えのように錯覚した。あんなに恐れていた狼は、もはや石蕗家の人間よりも信頼の出来る存在に代わっていた。

「…絶対に、生きて帰る。」

言葉が言霊となって希望を本当に実現させるために、紅夜はあえて声に出す。

「ルイスさん、アリスさん。…蝶々さん、待っていてね。」


夕方になり、一番星が輝く頃。

「時間だ。」

屈強そうな使用人が二人、言葉少なに紅夜を牢屋から連れ出した。その際に、目隠しの布をされ手首は拘束されてしまう。

視界と手の自由を奪われて、紅夜の心臓は軋むように大きく脈打つ。

ゆっくり、ゆっくりと牢屋のある塔の階段を下っていく。

目隠しをされて下る怪談は随分と怖く感じた。そしてカツン、カツンと靴の音が人数分響き、緊張がより一層高まっていくようだった。

鈍い金属音と供に、布越しに僅かな光が視界に当たった。頬に風が当たり、どうやら扉を開けて塔の外に出たらしいことを感じた。靴裏の感触も固い石の床から、ふかふかとした草の感触になった。

ウオオーン…、

不意に聞こえたのは狼の遠吠え。使用人の一人が舌打ちをする。

「声が近いな。山奥の狼たちが降りてきたみたいだ。」

「ああ…。死体の処理役に、奥様が餌でおびき寄せたんじゃないか。」

その会話を紅夜は黙って聞いた。

…もし、もしも私が死んだら。

蝶々さんたちに食べられれば良いのに。せめて、彼らの血肉になりたい。

一瞬浮かんだマイナスな考えを、紅夜は軽く頭を振って払った。

まだだ。まだ、逃げ出す機会があるはずだ。私はそれを逃さぬようにしなければならない。

「立ち止まるな、歩け。」

拘束した手首に繋がる紐を引っ張られて、再び紅夜は歩き出した。

徐々にお香の独特な匂いが強くなる。それは血の臭いを消そうとしたのだろうか、だが全てを上書きできるはずもなく紅夜の鼻にさえも鉄が錆びたような臭いが鼻についた。恐らく、紅夜が出家した当時から別の生体から血液を搾り取っていたのだろう。何年にも渡って染みついた血の気配に吐き気がした。

その尤もたる根源の供物堂のある教会に辿り着き、歩んでいた足を止める。

「奥様。紅夜お嬢様をお連れしました。」

使用人の声に、重そうな扉が開かれる音が軋むように響いた。お香と血の臭いが今までで一番強くなる。

「お入りなさい。」

母親の厳かな声が聞こえ、紅夜は肩を押されて教会の内部へと押しやられた。背後で閉まる扉と心許ない感覚に、使用人がいなくなり紅夜たった一人がその場に残されたことを知る。

コツ、とヒールのある靴音が近づいてきた。紅夜が身構えていると、その靴音の人物がそっと目隠しの布をはずしてくれた。紅夜がゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには毒々しいまでに赤い口紅を唇に引いた母親が艶然たる笑みを浮かべながら彼女を見つめていた。

「三日ぶりね。よく来たわ。」

そう言うと、母親は紅夜の頬を撫でる。そのささやかな指の感触に息を呑み、紅夜は思わず視線を反らした。そして反らした視線の先に見る光景に目を張った。

ろうそくの金色の灯りだけを光源に教会の中が窺い知れる。そこには鹿の頭と人形の花嫁を縫い合わせた異形のオブジェや、大小様々な鳥の剥製。人の頭蓋骨、朽ちて枯れた黒い薔薇。ホルマリン付けの眼球、どこの部位かわからない内臓などがひしめき合うように存在していた。

全てを悪魔に捧げながら、その全てが白夜の糧にならなかったのかと思い、紅夜は脊髄に液体窒素を注入されたかのように体が冷えた。

「ー…さあ、紅夜。いらっしゃい。」

母親が紅夜の手首の拘束を解く。その瞬間、紅夜は弾かれたように後退した。

息がしづらい。吐く息だけ多くなり、過呼吸になりそうだった。過呼吸を避けるために、必死に吸うことを意識する。

「紅夜?」

母親は笑みを顔に貼り付けたまま、一歩、紅夜に近づく。

「大丈夫、何も怖くないわ。痛みなど感じないぐらいに一瞬であなたの心臓を取り出してあげる。」

お父様と月夜もあなたを待っているわ、と母親は告げる。その背後では確かに車椅子に乗った父親と、車椅子を押す月夜が控えていた。

「本来なら地下の供物堂で儀式を行いたいのだけれど、ほら。お父様は足が悪いでしょう?仕方なく教会で執り行うことにしたの。」

紅夜は背後で教会の扉のノブを探る。だが、外から鍵が掛かっているらしくびくともしない。

教会なら窓があるはず。

壁は黒いカーテンが一面に引かれて、どこが窓かはわからない。だが、一カ所でも見つけられればガラスを破って逃げられる。

「私、は…、」

紅夜は言葉を紡ぐ。

「私は、あなたたちに、傷つけられていい存在じゃない!」

そう言うと紅夜は壁際に添って駆け出して、気味の悪いオブジェの大群に紛れる。途中、転がる頭蓋骨や乾いた血の汚れに足を取られそうになりながら、懸命に持ちこたえる。

「あらあら、紅夜ったら。」

母親は口元に手を当てて、ふうと溜息を吐いた。

「…悪い子ね。」

ヒールの靴音高らかに、母親が紅夜を追う。最悪なかくれんぼが始まった。

紅夜は窓を探してカーテン越しに、壁を叩いた。音はそのまま響き、紅夜の居場所を告げる。

「こっちかしら?」


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