第10話 気まずい旅路
『お前が悪魔の子って呼ばれる由縁を教えてやるよ。』
『それは…、この髪と瞳の色が、』
紅夜は自らの髪の毛を一房とって、見つめる。
『頭の中、お花畑か。そんな半端な理由じゃないんだよ。』
吐き捨てるように、月夜は言う。
『お前は、父上と母上が行った性魔術で生まれたんだ。』
『え…、』
気持ちが悪いという風に月夜はわざとらしく肩を震わせて見せた。
『悪魔崇拝ぐらい知ってるだろ。悪魔を奉る神殿で儀式的に行われた性交で授かったのが、紅夜。お前だ。』
『どう、し…て。』
紅夜は急に自らに流れる血液がおぞましく感じられた。
『石蕗家は長女が家督を継ぐ。白夜を生かすためだ。』
姉の、長女である白夜。
両親の愛を一心に受ける白夜。
紅夜は、白夜の健康を祈られて生を受けた。
妙に納得した。
そうか。
私は、悪魔だったのか。
「…私。そのときに初めて知ったんです。自分の中にある、激情に。」
「紅夜…。」
紅夜は自分の肩を抱いた。
「白夜姉さんがいなければ良かったのに。」
「…紅夜。」
「違う、私なんか生まれてこなければ良かったのに。」
「紅夜。」
「気持ち悪い。こんな、こんな穢れた体、」
「紅夜!」
肩を抱く手を震わせる紅夜を蝶々が抱きしめる。
「自分をそんな風に傷つけるものじゃない。」
「…蝶々さん。」
長身の蝶々に抱かれて、小柄な紅夜はすっぽりとその体が収まってしまう。紅夜は彼の背に触れようとして、すんでの所で止めた。
「私…、愛し合った末の行為で生んで欲しかった。」
「…うん。」
「愛されるために、生まれたかったの。」
紅夜はそのまま子どものように、声を上げて泣いた。蝶々は彼女の心が少しでも安らぐように、紅夜の背を撫で続けた。
やがて、すん、と鼻を鳴らして紅夜は泣き止む。
「落ち着いた?」
「…はい…。」
そっと胸を押されて、蝶々は紅夜を解放する。紅夜の目元が腫れて、鼻の先がうっすら赤くなっていた。
「私、明日、兄と一緒に実家に行きます。」
「何故?さっきみたいに、俺たちが追い払ってあげるよ。」
首を傾げながら蝶々は物騒な提案をする。紅夜は苦笑しながら、それを退けた。
「行くだけです。ちゃんとここに帰ってくるわ。」
あなたたちがいてくれるから、と紅夜は言葉を紡ぐ。
「白夜姉さんが心配なのも、本当なの。だから様子を見に行くだけ。」
「儀式に紅夜の血を使うなら、俺は許さないよ。」
「…ありがとう。」
心配する目色を滲ませた蝶々の金色の瞳が愛しい。この瞳を悲しみや怒りの色に滲ませたくない。
だから、私は。
「大丈夫、今度こそきっと断るから。」
幼かった私のために。そして、こんな私を心配してくれるあなたたちがいるから。
「…約束だよ。」
どこまでも紅夜を想ってくれる声音に、勇気を貰うのだった。
舗装されていない村の道をガタゴトと音を立て、月夜を乗せた馬車が教会の前に訪れる。見たことが無いような立派な馬車に、何事かと村人が遠目で伺っていた。
キャビンから降りた月夜は教会の扉を強くノックした。
「紅夜!迎えにきたぞ、準備は出来ているんだろうな。」
月夜の声に教会の扉の錠が落ちる。そして、ギッと軋ませながらその重い扉が開かれた。そこにはいつものローブを脱ぎ、質素な私服に着替えた紅夜が立っていた。手にはトランクを携えている。
「…お待たせしました。」
「全くだ。さっさと行くぞ。」
大げさに溜息を吐いて、月夜は踵を返す。
「…こうや、」
アリスがすでに泣きながら、呼び止めるように彼女の名前を呼ぶ。
「アリスさん。」
紅夜は膝をついて、アリスをそっと抱きしめた。
「ルイスさん、蝶々さんも。…行ってきます。」
「ぜったいに帰ってきてね。」
アリスの小さな手が紅夜の背をぎゅうっと抱いた。
「ありがとう。必ず。」
「…なあ、やっぱり…。いや、うん。」
ルイスが紅夜を止めるように言い淀み、だけど、昨夜の話し合いにて出た結果を覆すまいと、我慢をしたようだ。
紅夜が紅夜自身を傷つけないで、帰ってくること。
それが最終的に落ち着いた、妥協案だった。本当は誰一人として紅夜を実家に帰らせたくなどなかった。それでも慮ったのは、紅夜の思いだ。
「おい、早くしろ。」
水を差す月夜の声が響いた。アリスとルイスの目に憤りの色が滲むが、月夜は我関せずと気にしない。どうやら昨日の一件で、二人に対しての態度を固めてきたようだ。それは蝶々にしても同様のようで、一貫して彼らを無視すると決めたらしい。
紅夜は徐に立ち上がり、そして三人に背を向けた。馬車のキャビンに乗り込んだと同時に、合図が送られ馬の足が動き出す。
揺れながら発車する馬車で、紅夜はそっと教会を見た。一人の寂しさに泣き濡れた日々も懐かしく、蝶々たちと供に暮らすこの教会が愛おしかった。
必ず、戻ってくる。
意思を固めて、紅夜は実家へと向かった。
「さて、と。」
馬車に乗った紅夜を見送って、蝶々はルイスとアリスを呼び寄せた。
「何だよ…。」
「二人とも、この香りを覚えな。」
蝶々が二人に手渡したのは、小さな香り袋だった。
「…なあに、これ。」
涙で鼻の効かないアリスが首を傾げる。一方でルイスはその独特な香りにはっとしたようだった。
「この香り、さっき紅夜からもした。」
そうだ、と蝶々はルイスに頷き返す。
「特別、香る時間が持続するハーブを詰めてある。その香り袋を紅夜にも持たせた。そして、俺たちは鼻が良い。」
蝶々が、ちょん、と自らの鼻を人差し指で突いて見せる。その仕草に、ルイスはピンときたようだった。
「追うんだな。」
「そうだ。馬車ぐらいの速さなら、この香りをかき消すことは出来ない。」
ルイスとアリスは受け取った香り袋をぎゅっと胸に抱いた。「無くすなよ。これは、俺たちの絆だ。もしもはぐれたらこの香りが道しるべにするんだよ。」
「うん。」
二人が頷いたのを確認して、蝶々は立ち上がる。
「急いで支度しな。準備を終えたら、教会の前に集合だ。」
「…。」
ガタゴトと揺れる馬車のキャビン。誰も言葉を発することはなく、紅夜は車窓から流れる景色を眺めていた。
斜向かいでは、月夜が手帳を取り出して今後のスケジュールを確認しているようだった。
「…あの、」
「余計な口を開くな。」
月夜の頑なな態度に紅夜は萎縮するものの、それでも自らを奮い立たせる。
「すみません。でも…、」
「…。」
大げさな溜息と供に手帳を閉じ、冷たい視線を月夜は紅夜に送る。
「何だ。手短に済ませるなら、発言を許可する。」
「白夜姉さんの容態は…、その、どんな感じなのでしょうか。」
「…著しく悪い。高熱で、床に伏せている。」
紅夜とは正反対の存在である、白夜。
「そう、ですか。」
幼い白夜の姿しか思い浮かべることが出来ないが、きっと美しい女性に成長した違いない。両親の白夜に向ける愛情に拍車をかけていることは容易に想像できた。
白夜のことを憂い、紅夜は瞳を伏せる。
「全く…。悪魔崇拝など止せと何度も言ってるのに。母上たちは聞く耳も持たない。」
舌打ちを打ちながら月夜は、汚らわしい、と言葉を紡ぐ。その言葉はそのまま紅夜に向けられていた。
「本来なら、同じ空間にもいたくないんだ。馬車を一台しか出してもらえなかったから、仕方なく同伴させているんだからな。」
それをあの村の小娘、と呟き、月夜は奥歯を噛みしめる。
「俺とお前が似ている、だと?ふざけるな。」
無邪気なサチの発言に、どうやら月夜の矜持が傷つけられたようだった。苛立ちを募らせ、月夜はもう話すことはないとばかりに、腕を組み、瞼を閉じた。
…私は、
紅夜は窓に映る自分の顔を見る。
私は、嬉しかった。
自分を嫌う月夜でも、やはり家族だと認められた気がした。黒い髪の毛に、紅い瞳。この色はどうしようもないとしても、顔の造形が似ているならあるいは血のつながりを感じたかった。
きゅっと唇を噛む。一人に慣れたつもりで、こんなにも家族が恋しかったのかと思い知った。
ああ。今、蝶々に会いたい。
一日中、馬車を走らせ随分と遠くまできた。
街の宿に月夜たち一行は部屋を取り、紅夜はようやく一人になった。
ふう、と小さな溜息を吐いてトランクを床に置き、ベッドに腰掛ける。あれから月夜とは必要最低限の会話に留まり、随分と窮屈だった。ずっと座っていたために、体が固まったかのように痛い。
このまま寝てしまおうかとベッドの誘惑に駆られるも、せめてシャワーを浴びて体を解したいと思い、紅夜は立ち上がり浴室へと向かった。
服を脱ぎ、シャワーから流れるお湯を浴びる。長い黒髪から流れるお湯が肌を伝い、少しくすぐったい。
浴室が好きだ。雷の轟音から守ってくれ、蝶々たちとの良い思い出が詰まっている。
紅夜は肩を抱き、とん、と背中をタイルの壁に預けた。冷たいタイルの温度が肌に触れる。今日何度目かの溜息を吐き、上る湯気に釣られて天井を仰いだ。白い湯気に朧月のような電灯が光っているのを見て、狼姿の蝶々やルイス。アリスを思い出して笑みが零れた。
固い毛と柔らかい毛のダブルコートの毛並み。暗闇に光る美しい双眸。そして伸びるように響く、低い鳴き声。木々の間を縦横無尽に駆け回り、彼らは気高き森の王のようだった。
初めて触れた、蝶々の獣耳が忘れられない。成人の男性にそぐわない、可愛らしい耳だった。耳の毛並みはやわらかく、まるでビロードの布のようだと思った。
「ふふ、」
思わず笑い声が漏れて、浴室にこもるように響く。どうやら体と供に心も解れたみたいだ。また明日からの旅路へのエネルギーをチャージして、紅夜はシャワーのカランを捻ってお湯を止めた。
部屋に戻り、湯上がりの熱を冷ますために窓を微かに開ける。その刹那、涼しい風が束の間室内に流れ込んだ。
紅夜はタオルで髪の毛の水分を拭い、くしで丁寧に梳く。そして開けた窓から、重なった小さな遠吠えが聞こえた気がした。
「…まさか、ね。」
脳裏によぎる蝶々の顔を頭を振って払う。湯冷めをしないうちに、紅夜は窓を閉めた。
その日から三日の旅路を経て、紅夜は月夜によって実家である石蕗の屋敷にようやく辿り着いた。
レンガ作りの石蕗の屋敷は紅夜が出家した当時と変わらず、どこか圧を感じるように存在した。
「おい。何をぼーっとしてる。父上と母上に挨拶をするんだ。来い。」
屋敷に圧倒されて見上げていた紅夜だったが、月夜に言われて我に返る。その足は本邸の玄関へと向かっていた。
「本邸に入ってもよろしいのですか?」
紅夜の居住区は屋敷の離れだったために、本邸に足を踏み入れたことはない。許されるなら、今日、初めて入ることになる。
「特例だ。」
そう短く言い捨てて、月夜は玄関の扉を開いた。ギ、と軋む音が立ち、随分と重そうな扉だった。
「早くしろ。」
「は…、はい…。」
若干の戸惑いを覚えながらも、紅夜は月夜の後を追いかけるように歩を進めた。
「おかえりなさいませ。」
玄関ホールではメイドたちが数人で月夜たちを出迎える。月夜が片手を挙げて合図を送ると音も無くメイドは去って行った。残ったのは、口ひげを蓄えた執事だった。
「今、帰った。母上たちを呼んでくれ。」
「かしこまりました。」
恭しい礼を残し、執事は踵を返した。月夜と二人残されて、紅夜は気まずく瞳を伏せる。
実家だというのに全く安らぎを感じられない。何なら淡い恐怖すら覚える。紅夜はもう痛むはずの無い腕をぎゅっと握った。
キイ、カタン。
キイ、カタン。
不自然な金属音に顔を上げると、車椅子に乗った父親とその車椅子を押す母親が執事を引き連れて現れるところだった。
「母上、父上。紅夜を連れて戻りました。」
「…よく戻ったな。」
父親は別れたときと比べると随分と老いたようだった。
「月夜。そして紅夜、おかえりなさい。」
母親の笑みはあの頃と変わらず無機質な仮面のようだ。
紅夜は思わず目を反らしてしまいそうになるが、月夜に脇腹を小突かれて一歩前に立たされてしまう。飛び出そうな心臓の鼓動を体の奥から感じながら、紅夜は両親を見た。
「お久しぶりです、お母さま。お父さま。」
そう告げて、ワンピースの裾を摘まむ。恭しい紅夜の仕草に両親は満足気に頷く。
「遠路疲れたでしょう。少し休んだら、お茶にしましょう。」
母親が紅夜を労い、彼女の手を引こうとして一歩近づいた。紅夜は咄嗟に後退ろうとして、背後にある月夜の存在に阻まれる。
「!」
ひゅっと息を呑み、紅夜の背筋に冷たい汗がひやりと流れた。
「…どうしたの?こちらへいらっしゃい。」
「いえ、あの…。白夜姉さんは…、」
紅夜の口から吐いて出た白夜の名前に、母親の顔は一瞬表情を無くす。だが、次の瞬間にはまた笑みを顔に貼り付けた。
「白夜のことが気になる?」
「は…、はい…。」
怯える彼女の元へとくると、母親は徐に紅夜を抱きしめてくれた。ふわっとお香のような不思議な香りに包まれる。
「いい子ね、紅夜。」
「お、母さま、」
その香りは供物堂で焚かれていたお香のものだった。
「本当に、いい子…。」
甘い声で囁き、母親は紅夜の髪の毛を梳くように撫で、そして。
「!?」
首筋に鋭い痛みが走った。紅夜が確認しようと振り返ろうとするのを、母親はぎゅっと強く抱きしめて拒んだ。痛みの根源は針のようで、ぶつりと肌を破って突き立てられる。その刺された箇所からじわりと熱を持ち、その熱が血流に乗って全身に染み渡っていく。熱は紅夜の頭に籠もり、意識が朦朧としてきた。
舌が回らない。
立っていられない。
瞼が重く、開けていられない。
気を失う刹那、最後に見たのは母親の肩越しで紅夜自身を見守る父親の眼差しだった。その目には目的を果たした満足気な色が滲んでいた。そして、言う。
「おかえり、紅夜。お前の命を待っていた。」