『第15話 鏡の極意/1・クインの鏡』
自室でクイン・フェイリバースは大きな鏡の前に立ち、映っている自分の姿をじっと見た。手鏡はまだしも、全身が映る鏡はこの世界においては贅沢品で、個人で持つのはそれ自体金持ちの証みたいなものだ。彼女もかなり奮発して手に入れた一品である。
山吹色のスパッツに赤い膝上のスカート。飾りっ気のない七分袖のシャツ。彼女の普段着にしてはかなりシンプルな部類だ。髪も軽く後ろに束ね、椿のように赤い髪留めでまとめているだけ。腰にぶら下げた愛用のサーベルだけが妙に不釣り合いだ。
鏡を前にちょっと科を作ったり表情を作ったり、サーベルを抜くと静かに真っ直ぐ中段に構える。鏡の自分としばし対峙した後、静かに鞘に収めて満面の笑みを見せた。
「よし、今日もいい女」
部屋を出るとリビングでパンとチーズにミルク、トマトの朝食を取っているルーラとスノーレに
「ちょっと出かけてくるわ」
簡単な挨拶する。
「朝ご飯良いんですか?」
「せっかくの休日。優雅にカフェで取らせてもらうわ。2人はお仕事頑張ってね」
クリーム色の帽子を手に出て行く彼女に
「デートでしょうか?」
「デートにサーベルは持っていかないでしょ」
「じゃあ……決闘とか?!」
真顔で身を乗り出すルーラに、思わずスノーレがパンを喉に詰まらせた。
夏に入ったとはいえ、朝夕はまだ涼しいこの時期。通勤する人々や朝の仕事に勤しむ人々の中、クインは南西に向かって歩く。彼女の住む女子寮はウブの東に位置し、ウブをほぼ突っ切る形になる。
朝の心地よい風を受け、自然と彼女の足取りも軽くなる。
【右を向いたらいい男♪ 左を向いてもいい男♪
前も後ろもいい男♪ この世に溢れるいい男♪
なんで私に惚れないの?】
(「いい男がいっぱい」作詞・作曲 クイン・フェイリバース)
自作の歌をお気楽に歌いながら彼女はマナカ川を渡り、西に入る。
彼女が所属する東衛士隊は、文字通りウブの東半分を受け持っている。事件のないときは交代で散歩、もとい巡回を行っているのである程度知っているところばかりだが、西側は違う。全く知らないのも何なので時折足を運んだりするが、その時はいつも以上にぶらついているだけ感が強い。周囲への観察力が落ちる。
それだけに今日のように目的があって西を歩いていると新鮮な気持ちになれる。もっとも、担当が違うと言うことは当然衛士達も彼女を知らない人が多く
「失礼。お嬢さん、お腰のものを拝見してよろしいですか?」
制服姿の衛士が2人、衛士隊の身分証明書を提示してクインに声をかける。彼らにとって、女性が1人、腰にサーベルらしきものをぶら下げて歩いているとなれば気になるのも当然だ。
「どうぞ。私も衛士です」
クインが衛士の証明書を提示しながらサーベルを渡す。
「失礼。東の衛士がどうしてここに?」
「私用です。私事でサーベルの形態は不適切であることは承知していますが、ジュウザン剣士道場に用がありまして」
言われて2人のうち、年上の衛士が納得したようにサーベルを彼女に返した。
歩いて行く彼女の背中を見ながら若い衛視が年上衛士に
「ジュウザン剣士道場って?」
「新人は知らないか。3年前まで衛士の剣術指南をしていたジュウザン。衛士隊の剣士はみな、あの人に散々稽古をつけられたものさ。思い出したよ。彼女はそのジュウザンの愛弟子の1人。四方剣と呼ばれる凄腕の1人さ」
「凄腕と言っても女でしょう」
「だったら手合わせしてもらうか。お前が10人いても勝てないぞ」
まさかと笑う若者に、年上衛士は静かに含み笑った。
クインはウブの南にあるカムリという町で生まれた。8人兄妹の次女。子供の頃から母や姉の手伝いをし、家事だけで1日が終わってしまう。そんな毎日を過ごしていた。そんな彼女が楽しみだったのはラウネ教会に置かれていた本を読むことだった。本と言っても辞典や記録ではない。いわゆる子供向けの読み物。童話の類いだった。覚えた文字の復習として読み始めたのだが、すぐにのめり込んだ。
勇者の冒険談。王子と王女の恋物語。擬人化された動物たち。それらに魅了されていくうち、子供によくある夢を見るようになる。
「あたしもヒロインみたいな恋をして結婚する」
当然ながら兄姉には馬鹿にされ、母には寝言は寝て言えと仕事を与えられた。タイミングが悪いというか、彼女がその頃、1番のめり込んだのはヒロインが家を飛び出て働き、お忍びで町に出た王子と恋に落ちるという話だった。
ヒロインと自分とを重ねたクインは有り金持って家を出、ウブ行きの船に1人飛び乗った。当時クインは12才。その頃のことを今のクインは「怖いもの知らずだったわね」と笑う。
有り金と言っても子供の小遣い程度である。あっという間に消え失せ、彼女は空腹を抱えて仕事を探し、追い出され、悪い奴に騙されかかる。実際、彼女は幼女趣味の男に買われ、夜な夜な床の相手をされるなんてことになってもおかしくなかった。
そんな彼女が厨房からの匂いに誘われ、入り込んだのがジュウザン道場だった。用意されていた食べ物を盗み食いしようとした彼女だったが、あまりの空腹に、口に物を入れる間もなく目を回しぶっ倒れた。
彼女を拾い上げ飯を食わせて事情を聞いたジュウザンは笑って彼女を雑用係として雇った。彼女の家に連絡を取り「せっかくだ。落ち着くまでうちで面倒見よう」と話をつけた。道場にとっても飯を食わせるだけで家事全般をしてくれる女の子はありがたかった。
道場で剣を稽古する男達はクインには魅力的に見えた。物語にも悪人や怪物を倒すべく剣を習う男達の描写は多い。それだけに彼女も1人1人の動きをよく見た。稽古をする男達にもいろいろなタイプがいた。ただ1人黙々と素振りをするもの。剣を打ち合う音は派手だがよく見るとただお互いタイミングを合わせているだけの者。最初の数分は熱心だがすぐに飽きる者。自分より強い者と稽古したがる者、弱い者とばかり稽古したがる者。稽古1つにもその人らしさが出てくるものだ。
そのうちに男達だけでなく剣そのものに興味を持つようになった彼女は、薪を剣代わりに振るうようになった。それを見たジュウザンが
「面白い。見よう見まねだが基本に沿っている。正式に剣を学べばもしかして……」
と空いた時間を利用してクインに剣を教えるようになった。最初は単にジュウザンの気まぐれだと笑っていた弟子達だが、めきめき上立ちしていく彼女に笑っていられなくなった。いつのまにか新人はもちろん、中堅クラスでも彼女に手こずり、時には負けるようになったからだ。
こうなってくると教えるジュウザンは面白くなり、抜かれる弟子達は面白くなくなる。特に彼女に打ち負かされた者の中には「女のくせに」と彼女を妬む者も出た。彼女も強くなったことに浮かれ、勝った男達を見下す態度を取ったのも妬みに拍車をかけた。
ある日、そんな連中が集まってクインを襲った。多少強くなったと言っても数人の男をまとめて相手にしては勝てるものではない。クインは倉庫に連れ込まれ、ひっぱたかれ蹴り飛ばされ、裸に剥かれた。恐怖のあまり泣き叫び、許しを請う彼女に彼らは容赦せず慰み者にしようとした。だがそこへたまたま彼女が連れ込まれたところを見ていた弟子の1人が仲間やジュウザンを連れて駆けつけ、男達を打ち据えた。
彼女を襲った男達は全員道場を追い出された。中にはこのことが公になるのを恐れ、口止めにと金を持ってきたのもいた。
一方、彼女は怒りをぶつけるかのように剣の稽古に励み、周囲も驚くほどに力をつけた。だがその剣には殺気がみなぎっていた。自分を辱めた男達をぶちのめし、徹底的に痛めつけるための剣だった。顔つき、目つきも変わっていった。気に入らない全ての人間を不幸に落としてしまうのが何よりの生き甲斐。そんな顔つきだった。
それにジュウザンは眉をひそめた。
「確かに悪いのはお前を襲った男達だ。だが、なぜ奴らがそこまでお前を憎んだのか解るか? 勝つ度にお前が向けた蔑みの目、自分の方が強い、上だといううぬぼれた目、それがあいつらにどす黒い汚れた心を生み出し、濃くしていったのだ。
お前が腹を減らしてここの前に倒れていたとき、お前は物語に出てくるヒロインのようになりたい。素敵な恋をして幸せになりたいと言ったな。その時のお前は剣などまったく出来なかったが、その目はとても綺麗なものだった。だが今のお前の目は汚れている。物語で言えば、ヒロインに散々意地悪をしてくる嫌な女の目だ。お前はそれで良いのか?」
そしてジュウザンは彼女に1つ課題を出した。
「1日1回。誰でも良い、どんなことでも良い。その男の良いところを1つ見つけるのだ。大きな事でなくて良い。ちょっとした仕草、心遣いで良い。無理やりだってかまわん。お前の中の他人を下げるのではなく上げるのだ。そしてそれを私に毎日報告しろ」
最初は「良いところなんてそんな簡単に見つかるはずがない」「却って相手を馬鹿にすることにならないか」などと考えた。けれど、無理やりにでもそれをやってみると
「まんざら悪い気はしない」
のだ。両手が塞がっているときに荷物を持ってくれる。扉を開けてくれる。「この菓子美味いぞ。ひとつ食うか」とくれる。雨で濡れたとき、タオルを投げてくれる。赤ん坊がぐずっているときにうまくいかないながらも何とかあやそうと一生懸命。
本当にちょっとしたこと、当たり前のことでも「こんなの良いな」と思う度にそいつの良いところとして記憶した。それが楽しくなってきた。相手の嫌なところを見るより、良いところを見る方がずっと楽しかった。
それに合わせて彼女の顔つき、目つきも変わっていった。邪気がなくなり、柔らかで楽しげな雰囲気を纏うようになった。そうなると周囲の反応もまた変わってくる。彼女の探す相手の良いところも多く見つかるようになった。
ある程度それが進んだところでジュウザンは良いところ探しの終わりを告げた。しかし彼女はそれとは関係なく続けた。彼女はすっかり相手の良いところ探しを楽しむようになっていた。
そしてある日、相手のいい男っぷりを感じたとき、クインは自然と口にした。
「いい男レベルが上がった!」
それは意味としては単純に自分の中の好感度が少し上がった。良いなと思うこと。その程度だ。しかし彼女はこれを言う度になんだか心が温かくなるのを感じた。自分の周りにはこんな素敵な人たちがいるんだと、幸せな気分に浸れた。
そして今でも彼女の「あんたのいい男レベルが上がった」は続いている。