2 黄金時代の終わり/その4
その4 チャンピオン
神聖なる夜闇の軍勢はそこここから姿を現すと、素早く天地の間に滑り込みました。そして白騎士が現れたかと思うと、あっという間に刀剣を薙いで、天地の腕を切り落としました。
白騎士のすぐ後ろには、いつのまにか御輿がやってきていて、そこには黒い影が乗っていました。
帝冠被る黒い影はビョルンに告げました。
「若者よ。
英雄になりたくないか?
力が欲しくはないか?」
ビョルンは答えました。
「力だ!力が欲しい!
天地を退け、仲間を守る力が欲しい!」
「いいだろう。
それが汝の選択なら、汝の願いを叶えてやる。
だが忘れるな。
汝が何を選んだか、汝に何が許されるか」
ヴォーズィンは、長い爪でビョルンの足元を指し示しました。
いつの間にかビョルンの足元には、鍛冶冶金や大工仕事に用いる槌が落ちていました。
ビョルンはそれを手にとると、力の限り天地に向かって投げつけました。
投じられた槌は見る見る大きくなっていき、戦槌となり、天地を激しく打ちのめしました。
それでも天地はまだ征服の希望を捨て切れず、ビョルンに立ち向かう準備をしました。
しかしヴォーズィンが、天地に向かって恐ろしい呪いの言葉を投げかけたものですから、
天は「これ以上戦っても勝ち目はない」と理解し、地は「これ以上の被害を受けたくない」と思ったのです。
こうして天地は鋼鉄の者たちの再征服を断念し、空から撤退しました。これは事実上、天地が鋼鉄の者の自律を認めるものでした。
去り行く天地の背中を見た若きビョルンは「追いかけて天地を征服するべきだ」と主張しましたが、ヴォーズィンはそれを止めました。
しかしビョルンは、ヴォーズィンの言葉を直接認識し、理解することが出来ませんでした。
そこでヴェーリュフィが両者の仲介に入り、聞き巫の役割を果たすことにしました。
つまり、ヴェーリュフィはヴォーズィンの言葉を聞き、それを鋼鉄の者が認識し、理解できる言葉に置き換え、伝えたのです。
「ヴォーズィンはこう言っている。
かれらには、かれらの尊厳がある。
不必要にそれを侵してはならない。
それは、あなたたちに、あなたたちの尊厳があるのと同様だ。
もしかれらが、あなたたちの尊厳を侵すのであれば、その時だけはあなたたちも戦わなければならない」
再びヴォーズィンが言葉を発しました。
しかしビョルンには、その言葉を認識することも、理解することも出来ません。
困惑したビョルンは、ヴェーリュフィに助力の視線を送ります。
しかしヴォーズィンの言葉を聞いたヴェーリュフィもまた、同じように困惑していました。あるいはそれは沈痛な、恐れるような表情でした。
「よく考えた上で答えるんだ、いいな?」小さな声で忠告すると、ヴェーリュフィはヴォーズィンの言葉を伝えました
「ヴォーズィンはこう言っている。
お前は今日から英雄であり、チャンピオンだ。
だからこそお前は英雄を、チャンピオンを正しく理解し、それにふさわしい振る舞いをしなければならない。
英雄とは、チャンピオンとは、お前一人で成れるものではない。
お前にその意味が分かるか?」
もう一度、ヴェーリュフィは小さな声で、まるでヴォーズィンに聞かれまいとするかのように、この若者に忠告しました。「よく考えて答えろ」と。
ビョルンはヴェーリュフィの忠告を受け止め、しばらく考えた後に答えました。
「俺は、仲間に感謝している。
今の俺がいるのは、仲間のおかげだ。
だから俺は、仲間のために戦う!
仲間の期待に応えるために!
弱い者を守る。それが俺に与えられた責務だ!
だから俺は戦う!戦わなくちゃいけない……」
ビョルンの言葉が終わりより先に、空は張り裂け、恐ろしい轟音が世界を振動させました。
その振動が余りに大きかったものですから、星々は揺れ、夜空は裂け、地に至った裂け目が炎を起こしました。
余りの恐ろしさからビョルンの身体はすっかり硬くなって動かなくなってしまいました。
それどころか、あのヴェーリュフィでさえ、まるで雷を恐れる子供のように背中を丸め、首を引っ込め、耳を塞いでいました。
ビョルンには、ヴォーズィンの言葉が理解できません。ですがヴォーズィンがどれほど激しく怒っているかはわかりました。
あの猛々しいヴェーリュフィですら「わかってるから!そんな目で私を睨まないで!私にそんなに怒鳴らないで!」と必死にヴォーズィンに訴えていました。
やがて空が落ち着きを取り戻すと、ヴェーリュフィはやっと顔を上げてビョルンに伝えました。
「ヴォーズィンはこう言っている。
薄汚い怪物め!
お前はヒーローだ。
尊厳高きチャンピオンではなく、悪魔と取引をした醜いヒーローだ!
よく聞け、若者よ。
チャンピオンとは代行者であり、代理人だ。
部族社会において、部族間に諍いが起きた時、解決のために決闘が行われた。
チャンピオンという言葉は、その決闘の際に選出された部族の代表戦士を指す言葉だ。
チャンピオンは、部族の代行者に過ぎない。戦う義務を負っているわけではない。
また、戦いを決断した責任は部族全体にある。
そして当然、部族は代行者たるチャンピオンに報酬を支払う義務がある。
時代が進むと、チャンピオンの役割は、騎士と呼ばれる者たちが果たすようになった。
騎士は決して一人で戦うのではない。領民が経済的に支えるからこそ、騎士は騎士として戦える。貴族は貴族としてのノブレスオブリージュを果たせるのだ。
更に進んだ時代の言葉で言えばそれは職業軍人であり、戦争以外の言葉で表現するならそれは弁護士のことだ。
チャンピオンは決して、ヒーローの如き都合の良い存在ではない。
困っていると、どこからともなくやって来て、代わりに戦い解決し、自分たちに一切の負担を求めず、戦いに対する責任もその人自身が取ってくれるような、都合の良い奴隷ではない。
ヒーローとは奴隷だ。戦う事を強制されている。
チャンピオンは自由だ。戦う義務を負っていない。
ヒーローは犠牲だ。一身に戦いの責任を負わされる。
チャンピオンは代行者だ。戦いそのものの責任は、戦いを決断した者にある。
ヒーローは生贄だ。ヒーロー個人に戦いすべての負担と責務が負わされる。
チャンピオンは代行者だ。自らの行動に対する対価を請求する権利を持つ。
戦いを選択した以上、選択したすべての者は、戦いに対する責任と、戦いに協力する責務を負っている。
しかしすべての者を徴兵し、戦場に送れなどと言っているのではない。これは悪魔の発想であり、許されざる人道犯罪だ。
なぜならこれは、すべての人をヒーローにしようとする悪魔の所業であり、すなわち自由意思に基づく代行者たるチャンピオンを否定している。
しかし、誰しも、何らかの形で戦いに協力しなければならない。普通は、税金や戦時国債という形をとるだろう。
いずれにせよ、都合の良いヒーローに一方的に解決を求め、その役割を押し付け、責任も、責務や負担もすべてヒーローに押し付け、自分たちは何の責任も負担も負わず、ヒーローによってもたらされる利益を一方的に享受することは略取であり、許されざる悪だ。
たとえビョルン(クマ)のような体格をしていても、戦うか否かはその者の自由だ。
子を残す能力があろうとも、子を残すか否かの判断が、当人の自由意思に委ねられる事と同じだ。
能力は義務ではない。
能力を義務と語るのは悪魔だけだ。
もしあなたが農作物を欲するのなら、あなたは対価を支払い購入するだろう。
消費者への感謝を根拠に、無料で農作物を配布することを、農民に求める事はありえないことだ。
感謝はあくまで交換の上にのみ成り立つ。
若者よ。あなたはチャンピオンだ。
ヒーローになる必要はないし、ヒーローなんかに成ってはならない。
あなたは自由でなければならない。あなたは何も負わされていない、あなたは自由だ。
もしあなたが戦うのであれば、あなたを戦わせ、あなたに守ってもらう者たちに支援を請求しなければならない。
もしあなたが戦ったのであれば、その戦いの責任をあなただけが負ってはならない。
あなたは奉仕してはならず、奉仕させてもならない。
あなたは奴隷に成り下がってはならないし、周囲をあなたに依存する奴隷に貶めてはならない。
よく聞け、若人よ。
私との契約を守る限り、お前はバニラのごとく永遠のチャンピオンだ。
しかし忘れるな。
もし私との約束を破れば、お前は哀れな“おうじさま”として無残な最期を迎えることになるぞ」
きっとビョルンはヴォーズィンのこの言葉をすぐには理解できなかったことでしょう。
しかし若者は、この言葉の意味を考え、そしてこれから先理解して、それを守ることをヴォーズィンに約束しました。
ヴェーリュフィは告げました。
「ヴォーズィンはこう言っている。
若者(アースクル æskr)よ、お前の部族は何と言う?」
「部族?」ビョルンはその答えを持たず、質問の意味も理解できませんでした。
ヴェーリュフィは告げました。
「ヴォーズィンはこう言っている。
若きチャンピオン、お前の名前は何と言うのか」
「みんなは俺のことをビョルン(クマ)と呼んでいる。
だが、俺の本当の名前はトール(Tólu)だ」
ヴェーリュフィは告げました。
「ヴォーズィンはこう言っている。
今日からお前はアサ・トールと名乗れ。
お前こそアース族の英雄、アース族のチャンピオン、アサ・トールだ」
そう告げるとヴェーリュフィは白馬にまたがり、素早く空の彼方へ疾駆して行きました。
美しい戦士たちがそれに続きました。御輿に乗ったヴォーズィンの姿はいつの間にか夜の闇に消えていました。
アース族の者たちが目を開け、耳を開きました。
そこには天地を退けハンマーを握るトールが、炎に照らされ夜空に浮かんでいました。
それを見たアース族の者たちは口々にトールを称えました。
チャンピオン・トールはアース族の全ての者から強い支持を得て、アース族の長となりました。
こうしてトール率いるアース族は、生かされることから決別し、自ら生きる事を選択し、自律するものとなったのです。
※トール(Tólu)
北欧神話の雷神スォール(Þórr)に相当する神格。