第九話「変わる価値観(けしき)」
廃遊園地で悪夢のような体験をした僕だったけれど、次の日は当たり前のようにやってきた。
「それで、楠。昨日は結局、何もしていなかったってことなんだな?」
ほとんど一睡もできなかった僕は、朦朧とした意識を引き摺りながら登校した。
案の定と言うべきか、昼休みを待たずして僕は五百瀬達に捕まり、校舎一階の階段奥の物陰に連行されることになっていた。
「……ごめん。よく考えてみたら、虎石くんの家も知らなかったし……」
昨夜のことを思えば、『虎石くんの安否を確かめてこい』という命令は一応達成したことになるのだろう。
でも、僕は嘘をついた。当たり前だ。こいつらを前に、馬鹿正直に本当のことなど言えるものか。
そんな僕の言い訳に、目の前の五百瀬がこれみよがしに溜息を零す。
「なら、もう少しよく考えろ。知っていると思っていた俺も悪かったが、それならそれで俺に訊けばいいだけの話じゃないか。お前の行動は、ただ問題を先送りにしているだけだって解らないのか?」
まったくどの口が……よく言うよ。
こいつらは裏で繋がっていて、僕を心ゆくまで嗤いものにしようとしていたのだ。
それを知ってしまった以上、責めてくる五百瀬の言葉もどこか薄ら寒く聞こえるから不思議だった。心次第で、人の言葉はこうも受け取り方が変わってしまうものなのか。
もちろん、虎石は今日も風邪で休みだ。
二日連続の病欠――それはそう珍しいことではない。担任が虎石の病欠を報せた教室内で、少しだけ心配の声が上がった。その程度の話だ。
いつも通りの日常へと、教室はいくつもの会話が混ざり合った雑然とした空気へと戻っていった。
その光景に、僕は気持ち悪さを覚えていた。
「おい、本当にやる気あんのか? お前のクズさ加減のせいで虎石が行方不明になってんだぞ」
どこか上の空となっていた僕に苛立ったのか、五百瀬を押し退けた前田が僕の肩を掴み、すごんでくる。
「……それなら、一緒に捜せばいいじゃないか」
「あ?」
間の抜けた声を出す前田から視線を外し、僕は五百瀬の方へ顔を向ける。
「虎石くんが本当に行方不明ってことになったら困るのは、そっちだって同じはずだよ。あとさ……五百瀬くんは虎石くんの家を知ってたんだね。そこまで頭が回らなかったのは、謝るよ……ごめん。でもさ……君達って、そんなに仲が良かったっけ?」
そこまで言ったところでズンと下腹部を鈍い衝撃が貫き、背中が壁に押しつけられた。
赤鬼もかくやという形相となった前田が、僕を殴ったのだ。
「なに勝手に粋がってんだよ、てめえ」
さらにもう一撃。痛みに呼吸が止まりかける。
「調子に乗んなって何回言やあわかんだよ。【クズ】のくせによぉ」
「前田、落ち着け。おおっぴらに暴力を振るのはよくない」
「ち……顔面じゃないだけマシだろうが」
五百瀬に止められ、舌を弾き鳴らした前田は乱暴に僕から手を離す。背中を壁に擦らせながら、僕はその場に崩れ落ちた。
こいつらは知らない。何も知らない。
虎石の無事を確信しているから、ここまで余裕でいられるんだ。今もLINEで連絡を取り合っているんだろう?
そいつが偽物だとも知らずに。本当の惨状を知らないから。
僕をいたぶっている今このときだって、あの暗い地下室に閉じ込められている虎石のことを、お前達は知らないんだ。
「楠。俺と虎石とはまったく話さなかったわけじゃないし、家を俺が知っているのはたまたま聞く機会があったからだ」
吐き気を堪える僕の前に五百瀬が屈み、覗き込んでくる。多少の困惑が窺えるが、その目はこっちの僅かな動揺も見逃すまいと油断なく細められているようだった。
「今のお前の言い方だと、まるで行方不明と決めつけているようにも聞こえるぞ。そうじゃないだろう。お前が何を言おうとしているのかは知らないが、虎石はあくまで『風邪』なんだ。俺達はそれをお前に確かめて欲しいだけなんだよ」
五百瀬は僕の手を取って立ち上がらせると、他の連中にも「休み時間も終わる。教室に戻ろう」と促し始めた。
前田はまだ物足りなさそうな顔をしていたが、渋々ながら従うことにしたようだった。他の二人は肩を怒らせる前田の剣幕におっかなびっくりと言った感じで後を付いていく。
「あとで虎石の住所は教える。今度こそ頼んだぞ」
「……わかったよ」
気安く肩に置かれる五百瀬の手を一瞥して、僕はゆっくりと首を縦に振った。
*
昨夜、車中で交わした男との会話が脳裡にこびり付いて離れない。
例の虎石が監禁されているドリームキャッスルを出た時間は、もう丑三つ時を回ろうとしていた。
このまま自転車で帰れば朝帰りとなるのは確実だったため、僕は男に勧められるまま彼の車に自転車を積み込み、家まで送ってもらうことになったのだった。
結果として危害は加えられなかったものの、我ながら無謀過ぎる選択だったと思う。
一刻も早くこの場から立ち去りたいという思いが、判断力を麻痺させていたのだ。
流石に運転中は目深に被っていたフードを外し、男は素顔を晒していた。
少し痩せた頬がややくたびれた印象となっている中年の男。これといった特徴もなく、どこにでもいるような……一見して高校生を監禁するような異常者とは思えない彼の横顔を、助手席から僕は盗み見ていた。
本当の異常者っていうのは端から見て異常には映らないものだとも言うけれど、それは他人に対する無関心への言い訳に過ぎないのだとも思う。
そんな人には見えなかった――事が露見してから決まって口にされる台詞。
虎石にしても、五百瀬にしても、そうじゃないか。あいつらの本性を知っているのは、僕以外にどれだけいるというのだろう。
冷えた空調の風を正面から受けながら、僕はとりとめのない思考に耽り、自分の見る目のなさを呪っていた。
そうして、蒸し暑い車内に空調が行き届いた頃合いだった。男が話しかけてきたのは。
「これから、君はどうしたい?」
「どう……、って」
「まさか虎石を一人押さえただけで、終わりだなんて思っていないだろう?」
男は前を向き運転する視線を逸らさぬまま、淡々と訊ねてきた。
「このまま何も見なかったことにして朝を迎えることもできるだろう。だが、それだと君の立場は何一つ変化しない」
次の朝を迎えて僕がどうなるのか。少し想像して見れば分かることだ。
監禁中の虎石の状況を知らない五百瀬達は、変わらず僕に彼を捜しに行くように脅してくるだろう。僕は本当のことを言えるわけもなく、命令を聞かなかったと更に酷い仕打ちを受けるかもしれない。
僕の日常になんら変化は訪れていない。なんなら、真相をただ一人抱えたまま、追い詰められていくしかなくなるのではないか。
どうやら僕は、いまだこの男の掌の上にいるみたいだ。
「……あなたは、まだ僕に何かをさせたいんですか?」
「その言い方は語弊があるな。俺はどうしたいのかと訊ねたんだ」
「一緒じゃないか。どっちを選んだとしても、僕はこうして追い詰められている……全部、あなたの思い通りってわけだ。ねえ、あなたは何者なんですか? どうして虎石を監禁したりしていたんですか? 何が目的なんですか?」
「まだそんなことを言っているのか。そうやって、結果を他人になすりつけるのはやめたらどうだ? 自覚がなければ人は変われないんだぞ」
問い詰める僕にまるで取り合わずに、男はなおも一定の語調で問い返してきた。その静かさが重い壁となり、僕の口を塞ぐ。
「この結果は君が行動して得たものだよ。受け入れろ。でなければ君は何も変われない」
「わけがわからない。変われない、変われないって……! 僕は変わりたいなんて……」
「そうか。なら君は、【クズ】としていたぶられ続ける現状を望むわけか」
「そんなこと言っていないッ! なんでだよ……なんで僕がこんな目に……僕は何もしていないのに」
誰にも迷惑なんてかけていないのに。どうして、ただそこに空気のように居ることさえも許されないんだ。放っておいてくれないんだ。
「【クズ】には【クズ】しか寄りつかない。そして【クズ】を生み続ける」
「は……?」
「持論だよ。類は友を呼ぶと言った方が分かり易いかもしれないがね」
交差点でハンドルを切る男の語調が崩れる。皺が寄った彼の口端から、息が漏れたような微かな笑い声が聴こえた。
「あるところに無口な少年がいた。少年は人と関わることが苦手で、いつも教室の隅で黙っているような奴だった」
「……いきなり、何の話ですか」
「だが、あることを切っ掛けにして少年はクズ共の目にとまった。折角、ひとり静かに過ごそうとしていた彼の生活は台無しになったというわけだ」
「やめてください。何が言いたいんですか」
「楠くん、質問だ。イジメられることになった少年と、彼をイジメるクズ共。どちらが悪いと思う?」
「そんなの決まってるじゃないか。クズ共が悪いに決まってる!」
頭に血が上る。男が運転中でなければ掴みかかっていたかもしれない。
こんな分かり切ったことを、さも意味ありげに混ぜっ返してくる神経が理解できなかった。ふざけているのか。
しかし、男は声を極めて真面目な調子に戻していた。
「そうだな、君は正しい。イジメをする方が悪いに決まっている。しかし、それと原因は切り離して考えるべきだ」
「原因? 原因なんて……」
「君も薄々分かっているはずだ。自分でも散々言っていたじゃないか。僕は何もしていないとね」
「そんな――」
「そんな出鱈目な理屈があるかって? 違うね。よくいるじゃないか。イジメられる側にも原因がある。そいつが自分を変えようとしないからだ、とか。周囲に馴染み仲良くするための努力をしなかった、とか。そんな風に知ったような台詞を訳知り顔で言う奴らが。だが、それはそれで正しい意見なんだよ。それらが理由にならなくても、原因にはなることから目を背けてはいけない」
噛んで含めるように、男は続けた。
「なあ、楠くん。君は確かに無害だっただろう。君は何も悪くない。だがね……残念ながら、害がないからこそなんだよ。どれだけ傷つけたところで誰にも影響を与えることのない無害な君だからこそ、クズ共の玩具として目をつけられたんだ」
悪いと言うのなら、運が悪かったんだなと男は言った。そんな皮肉、一ミリだって笑えやしない。
「そして、誰とも関わって来なかった君を助ける物好きもいるわけがない。だってそうだろう? 誰にも影響を与えず、誰の目にも止まらない。じっと身を潜めていただけの君が、本気で誰かに助けてもらえると思うか? だとしたら、随分とムシのいい話じゃないか」
誰とも関わろうとしなかった者を、誰が助けるというのか。影響を与えないとはそういうことだ。誰の意識にも残らないような奴がどうなろうと、誰の心にも響かない。
「なら……! それならどうしろって言うんだ! 惨めったらしく、ずっと虐げられたままでいろって言うのかよ!」
「だから、君はどうしたいのかと訊いているんだ」
不意の停車にシートベルトに腹を押さえ込まれた。男が首を動かして、無表情に僕を見下ろしてくる。
「誰かに助けられる奴っていうのは、誰かを助けている奴だけだ。だが、君はそうじゃない。俺や君のような【クズ】は、誰も信じることなく、自分で自分を助けるしか道はないのさ」
自分で自分を助ける。
それができれば苦労はしない。でも……当たり前のように聞こえたその言葉は、僕の中にはない発想だった。
「ここで降りるか、第二のゲームに進むかの選択だ。俺は君を助けない。だが、君が差し手になることを望むなら、お膳立てはしよう」
素性も目的もはっきりとせず、肝心なところを未だ答えようとしない、得体の知れぬ存在。
「僕は……僕は――」
果たして目の前の男は、僕にとって救世主となのか。それとも魂を売り渡す悪魔となのか。
僕は、この男の従うことで変われるのだろうか。
気が付けば薄暗い街灯に照らされて、見覚えのある住宅街の風景が続いている。
もう僕の家まですぐそこ――選択できる時間は、残り僅かしかなかった。
*
その日の放課後は、昨日の焼き直しのようでもあった。
今度こそ虎石の家を訪ねて彼の安否を確かめてこいと五百瀬達に念押しされた僕は、たった一人教室に残り、一番前の左隅――自分の席でこれからの行動を考えていた。
前田に殴られた腹が、まだ疼きを訴えている。
スマホには五百瀬から虎石の自宅住所が送られていた。マップもあるのだから、場所が分からなかったという言い訳も通用しない。
もっとも、昨日みたいに進退窮まって迷っていたわけではない。
行くのは構わないのだが、問題は虎石の家族に勘ぐられないかと言う点だった。
いないと分かっていながら訪問して、器用にあのクズを心配する振りをするような真似ができるのか。
演技なんて、まるで自信はないんだけれど。
「……まあ、なるようになるか」
「何が?」
横から不意打ちで訊ねられて、僕はぎょっとして振り向いた。
一人だと思っていた教室に、いつの間にか誰かが入ってきていた? それとも僕が見落としていただけか?
いや、理由がどうあれ些細なことだ。僕は目を白黒させて、眼前に佇む結月さんを見つめていた。
「あはは、驚かせてごめんね。でも、そんなに驚かれるとちょっと傷ついちゃうかも?」
腰の後ろに回した両手に鞄を持ち、少し前屈みの姿勢となって結月さんは僕に顔を近づけてきた。
絶妙な角度で首を傾げ、柔らかそうな唇がゆるやかに弧を描く。彼女の顔を直視できなかった僕は視線を下げたのだが、それもまずかった。
夏服の薄いカッターシャツの隙間から結月さんの胸元が微かに覗き、僕の心臓は跳ね上がった。平静ではいられず、慌てて顔を背けてしまう。
「な……何か、用? 結月さん……」
「あ、私の名前ちゃんと知っててくれたんだ。このあいだ、職員室の前でばったり会ったじゃない? なんとなーく、クラスメイトとして認識してくれているのか不安だったんだよね」
「だ、大丈夫だよ。ちゃんと、知ってるし」
「それならよかった。あのときは、ちょっと素っ気なくてごめんね。急いでたっていうのもあるんだけど」
「そんな、全然……そんなこと」
「そう? ありがと」
ふふ、と微笑んだ結月さんは、そこでようやく前屈みの姿勢をやめてくれた。片手で艶やかな黒髪をかきあげる彼女の仕草を、僕は夢でも見ているみたいな気持ちで追ってしまっていた。
けれど彼女の次の発言で、夢みたいな心境はそれこそ幻であるかのように粉々に吹っ飛んだのだった。
「そうそう、用事だったね。楠くん、今から虎石くんのお見舞いに行くって本当なの?」
「え……!?」
憧れの少女を前に早鐘を打っていた僕の心臓が、一瞬止まりかけた。
何故それを結月さんが知っている。その疑問は言わずとも、彼女がすぐに答えてくれた。
「五百瀬くんから聞いたんだ。それでね……もし、楠くんが迷惑じゃなければ、わたしも一緒に行っていいかな?」
少し眉根を寄せて、どこか不安そう訊ねる結月さん。そんな彼女のお願いを、僕が断れるはずもない。断れるだけの理由を思いつけない。
確かなことがあるとすれば一つだけ。
この巡り合わせが、五百瀬の企みであるということだけだった。