第八話「堕ちる選択」
尻餅をついた床を中心に、ぽっかりと暗い穴が空いたかのように錯覚する。
黒い男が告げたのは、虎石くんの醜悪な事実。
でも、心のどこかで僕は受け入れようとしていたのかもしれない。
虎石くんが僕みたいな何も無い奴に、何を好き好んで近付いてくるのか前から疑問に思ってはいたんだ。
そういう理由ならば、納得がいく。腑に落ちる。
実に狡猾だ。まんまと騙されていた。
「楠……おい、まさかそんな奴の言うことを信じたわけじゃないよな……?」
茫然自失とする僕の耳に、虎石くんの声が聞こえる。男の後ろで横たわる彼の表情は、切羽詰まっているみたいだった。
「俺がお前をハめようとしただと? デタラメだ……異常者の言うことなんか信じるな! それを言うなら、こいつが俺をハめようとしてるんだよ。頼むから騙されないでくれ!」
「…………」
虎石くんから目を逸らした僕は男を見上げる。食い違う両者の言い分のどちらが正しいのか、判断する材料を僕は持っていない。
「面の皮の厚いことだ。しかし……ここであっさり証拠を見せるのも、ゲームとしてはフェアではないかもしれないな」
僕の視線を受けた男は肩を竦めた。虎石くんの言い分など歯牙にもかけていないのだろう。どころか、彼の抵抗を面白がっている風にも見えた。
「では、こうしよう。楠くん、現段階で虎石正也を救うか救わないかを決めろ。簡単な二択だ。俺を信じるか、友人を信じるかだ」
「いま、ここで?」
「そうだ。ただし、何度も言うようだが俺は君に友人を見捨てて欲しい。だから、メリットを提示しよう。君が見捨てる選択をするなら、虎石正也が黒幕だったという証拠を見せようじゃないか。証拠が何であるのかは、言わなくても解るな?」
男が右手に持つスマホを軽く弄ぶ。
「俺は何の根拠もなく五百瀬賢との関係をほのめかしたわけじゃない。俺が君と連絡をとっていたのは、虎石正也の携帯だ。この中には到底言い逃れなどできない証拠が山とある」
「信じるな!」
「喚くのなら、お前も本気で説得すればいい。なんならメリットとして、ここで自分を助けたら、もう楠くんを二度とイジメないとでも誓うか?」
「ふざけんな! 俺に何の恨みがあるってんだよ!」
「いや――恨みはない。哀れんでいるだけだ」
「はぁ……!?」
「なんなら、救ってやりたいと思っているよ」
男の不意を突いたような冷えた声。支離滅裂にしか聞こえないその台詞に、虎石くんが絶句する。
当然、僕にも男の真意を読み取ることはできなかった。けれど、不思議と彼が嘘をついているようにも思えなかった。
ともすれば、恐怖に支配された僕の感覚が狂ってしまっただけなのかもしれない。
しかし、男は本気なのだ。本気でこの訳の分からないゲームを行っていて、本気で僕に選択を迫っている。
「そこまで言うんだったら、証拠を……証拠を見せてくださいよ」
「それは駄目だ。見せてしまったら、彼に勝ちの目が無くなるからな」
「考えろ、楠! 嘘だから証拠も見せられないんだよ! 全部嘘っぱちだ信じるな!」
信じるな、とさっきから虎石くんは同じことばかりを繰り返している。この時の僕の目には、彼の姿がどこか滑稽にすら見えていた。
彼を信じる根拠を僕は持っているのか? 改めて考えてみようとしたけれど、駄目だった。こんな疑問を抱いている時点で手遅れなのだ。
僕はその事実を確かめずにはいられない。
その気持ちはもう、揺るがしようがない。
だが、男が語るメリット云々は、それとこれとは別問題でもある。この男がやっていることは明らかに犯罪だ。それを見過ごすってことは、僕自身が犯罪の片棒を担ぐってことにもなる。
仮に虎石くんを助けると言って、こいつが素直に解放する保証もない。こいつ自身も言ったことだ。人は簡単に嘘をつく。
信じろ、と虎石くんが繰り返す言葉と同じくらいに、この男の言うこと全てを鵜呑みにだってできはしないのだ。
結論の出ない、堂々巡りの思考。
その末に僕が出した結論は、やはり卑怯なものだったに違いない。
「……虎石くん。友達なら、分かってくれるよね。信じたいから……確かめるんだ」
「楠……?」
「そのスマホを……見せてください」
「それはつまり、見捨てるということで良いのか?」
僕は男の持つスマホを指さす。冷静な男の声が、狭い地下室に低く響く。
自己嫌悪に震える身体と激しい動悸を必死に抑え込み、僕は首を縦に振って返答の代わりとした。
まずは男の言い分が嘘であるのかを確かめる。虎石くんがシロであるのなら、そのときに救う手立てがないかを改めて考える。逆にクロであるのなら――その先は考えないようにした。
そんな言い訳を最大限に正当化して、自分の知りたいことを優先したのだ。
「はっきりと口にしてもらいたかったが、まあ良いだろう」
今まで勿体ぶっていたのが嘘のように、男はあっさりと僕に手にしていた虎石くんのスマホを差し出した。
「楠いいいいい!! てめえええええええええ!!」
何かの線が切れたような虎石くんの怒号に罪悪感を抱きながら、僕は立ち上がってスマホを受け取る。
ロックは解除されており、画面にはとあるグループのLINEの会話が表示されていた。
『クズ同好会(5)』
クズとはもしかしなくても僕のことだろう……五人のメンバーがいるみたいだった。
会話を主導している『イモ』というのは五百瀬、他の三人は前田、田川、川上か。
だが、それだけでは数が合わない。あと一人、『イモ』と同じく多くの発言を残している。
このスマホの持ち主。そのプロフィールに載っている名前は、『トラ』。
灰色の疑念は黒に変わった。
「…………ぁあ」
膨大な会話の量に目が滑り読む気も失せる。それ以前に、連ねられた文字の羅列を理解することを僕の頭は拒んでいた。
目を剥き、悪意の詰まった端末を握る両手が石のように固まる。
読んでいられない。見ていられない。正気ではいられない。
怒ればいいのか。悲しめばいいのか。己の愚かさを嗤えばいいのか。
あらゆる醜い感情をかき混ぜたスープが、僕の腹の底で沸騰する。
「ちくしょう……ッ!!」
溢れかえる激情に理性の蓋が決壊する。僕は腕を振り上げて、スマホを床に叩きつけようとしていた。
だが、その行動を予期していたのか。衝動的な行動にも関わらず、振り下ろす直前で僕は男に手首を掴まれた。
「それはまだ使える。壊すような真似はよせ」
空いたもう片方の手で、男が僕の手からスマホを取り上げる。
「文句があるなら、そこの友人にぶつければいい」
「……虎石くん」
「楠……裏切りやがったな……!」
虎石くんは悪びれた風もなく、悔しそうに顔を歪めていた。
怒りたいのは僕の方だというのに、彼はさっきまで男に向けていた以上の憎悪の眼差しを僕に向けている。
解らない。理解不能だ。理不尽だ。
「なんでだよ……なんでだ!」
「あぁ!?」
「なんでなんだよ!! 僕は何もしていないのに!!」
「うるせえ! 今からでも遅くないからお前はさっさと俺を助ければいいんだよ! 身体を張ってでも俺を助けろよ! でないと承知しねえぞッ!!」
「………ッ!!」
「は……友情に亀裂が入った用で何よりだな。それが通用しなくなったかと思えば、次は脅しか。つくづく愚かというか……学習しないな」
「黙れよ犯罪者! お前だってこのままタダで済むと思ってんじゃねえぞ! 絶対に許さねえからなあ!!」
化けの皮が剥がれるとは正にこのことかと思ってしまう。憤激する虎石くんのあまりの様子に、僕は内で煮えたぎる心に冷や水をぶちまけたような思いだった。
「ふざけんな」
気がつけば僕の足は前に進んでいた。男が道を譲り、見下ろす僕を忌々しそうに睨み付ける虎石くんの視線と真っ向からぶつかる形となる。
「なんだよ、楠。一丁前に怒ってるのか? 役立たずが!」
「……役立たず?」
言い訳すらないのか。取り繕いもしないのか。
「そうだろうが! 玩具にもなりきれない奴が調子に乗ってんじゃねえぞ!」
僕はこんな奴に少しでも気を許そうとしていたのか。罪悪感を抱いていたのか。
「絶対にタダじゃおかねえからな! この【クズ】があ!!」
なんだこいつは。なんなんだ。
気持ち悪い。こんな奴に躍らされていた自分自身にも、反吐が出る。
「ふざけんな……! ふざけんな! ふざけんなよ!! ゴミみたいに転がってるくせに偉そうに……! そんな奴の言うことを聞くと思ってるのか!! 今のお前の方が、よっぽど【クズ】だッ!!」
「……! てめえ!」
「あの男の言っていることは、全部本当なのか!?」
「は……あぁ、そうだよ。お前には言ってなかったが、五百瀬と俺は昔からのツレだよ。あいつ、高校になって頭黒くして大人しくなったと思ったら、やることは相変わらずだ」
先ほどとは打って変わり、あっさりと五百瀬との繋がりを虎石は認めた。ふてぶてしく口端を品なく吊り上げる表情が悍ましい。
「おっさん、賭けはあんたの勝ちだ。それで? これからどうするってんだよ。まさかとは思うが、本気でこいつをそのまま帰す気はないんだろ」
そして、虎石はもう僕との会話を打ち切って、少し離れた位置に無言で立っている男へと矛先を向け始めた。
「こいつを逃がすのは、あんたにとってもリスクだろうが。通報されるかもしれないし、そうでなくてもこいつはヘタレだからな。ここで見ちまった以上、いずれはボロがでる可能性は捨てきれない。だとすれば、帰すわけには行かないよなあ?」
この場で自分が助かる道がなくなるや、僕を道連れにすることを目的とした挑発的な発言だった。驚いていいのか呆れていいのか、とんでもない身の振り方の変えようだ。
けれど、それは僕も懸念していたことでもある。未だ目的がはっきりとしていない男が、この現場の目撃者である僕を易々と帰す道理はない。そう考えるのが、常識であるはずだった。
「いや、約束は守る。楠くん、君は責任をもって家に送らせてもらうよ。今後のことは、道すがら話そうじゃないか」
「なんだと!?」
「……彼をどうする気なんですか?」
「どうもしない。これからの話次第だが、このまましばらく監禁させてもらうだけだ。俺は、殺しはしないよ」
「そうですか……。なら、どうでもいいです」
「おい、待てよ……。何勝手に話を進めようとしてるんだ。本気で俺を置いていく気かよ!」
うるさい。どうでもいいって言っただろう。
もう喋るな。口を開くな。耳障りな声を聴かせるな。
果てしない疲労感に、虎石に対する怒りよりも虚しさが勝ろうとしていた。
「良い決断だった。行くとしよう」
「ぁ……」
ぽんと男に肩を叩かれたことで、強張っていた拳が緩む。
僕は両手に残った痺れを払うように手の平を浅く開閉すると、最後に床に転がる【クズ】を見下ろしてから踵を返した。
「楠! 本気かてめえ!!」
「負けを認めた時点で終わりだよ、虎石正也。お前には、もう自発的に助けを求めるチャンスは巡って来ない。せいぜい自分の悪運を信じて助かるのを待つことだ」
地下室を出て扉を閉めるまでの間、ずっと喚き散らす大声がうるさかった。
振り返らない。引き返さない。話の通じない相手の言葉など理解する必要はない。
自分の選択が正しかったのか。間違いだったのか。
それすらも、どうでもいい。
僕は目の前の出来事から一切耳を塞ぎ、出口へと続く暗い階段を上り始めたのだった。