第七話「説得」
レインコートの男の言葉に地下室は静まり返っていた。
十秒もなかったけれど、僕にとっては停止したにも等しい時間だった。僕は床に転がる虎石くんと、唯一の出入り口である扉を塞ぐ男の間で視線をさ迷わせる。
「何を……言って……」
助けるか、見捨てるか?
そう言ったのか、この男は。
その真意を確かめるため、僕は半ば呆然としながら掠れた声を出す。
「考える必要なんてないだろう!」
でも、僕の思考を掻き消す絶叫が響き渡った。
「虎石くん……」
「そんなクソ野郎の言うことを真に受けるな! 助けてくれよ! 手足を縛られて動けないんだ……! 早く! 友達だろう!?」
「…………!」
そうだった。あまりの非現実的な状況に頭が追いついていなかったけれど、僕は虎石くんの無事を確かめる目的で来ていたんだ。
男の目的は分からない。扉にもたれかかる様子からは不気味な余裕を感じるものの、今すぐに襲いかかってくる気配はない……のだと思う。
僕は男の動くになるべく注意を払いながら、虎石くんのもとへと近付いた。
「早くしてくれ!」
「ま……待って。すぐに助けるから……」
横たわったまま身動きのとれない虎石くんは、顔を床に擦りつけながら動かして僕に訴える。
オレンジ色の灯りに染まって分かり難いが、彼は憔悴しきっているようだった。よだれの跡か口周りは汚れている。顔もろくに洗えていないのだろう。
一日と言ってしまえばそう長くないようにも聞こえるが、ずっとこんな状態で居たのだとしたら冷静ではいられないに違いない。
ともかく、まずは寝袋から虎石くんを出さないといけないのだが、どこかにファスナーとかがあるのだろうか。寝袋の構造なんてろくに知らないため自然ともたついてしまう。
「なるほど……しかし、本当に助けていいのか?」
そこへ、僕達の様子を見ていた男が話し掛けてきた。
何気ない……けれど、含みを持たせるような問い掛けに何かを感じて、僕は思わず手を止めて振り返る。
「楠! いちいち耳を貸すな! 異常者なんだ……まともじゃないんだよ!」
「ずいぶんな言われようだな。だが、始める前にルールは説明したはずだ。お互いに説得は自由だと」
「……ルール?」
虎石くんと男が交わすやり取りに混乱する。男に対して虎石くんが憎悪らしきものを抱いているのは当然としても、いったい二人の間に何があったのか。
「ゲームだ」
そんな僕の疑問に答えるように、男が口を開く。
「虎石正也と俺は、互いに差し手としてゲームをしている。俺から無事に脱出できるかどうかを賭けてな。そのゲームの駒として、楠信司くん。君を選んだ」
「クソ野郎があ! 勝手なこと言ってんじゃねえ!」
「説明中だ。少し黙れ」
フードの奥から男の長い溜息が聞こえたかと思うと、彼は扉から背を離して歩み寄ってきた。
何をする気だと僕は全身を強張らせる。けれど、僕が完全に身構える前に男の行動は終わっていた。
あまりにも無造作に、ボールでも蹴り上げるかのように、男は虎石くんの腹に爪先をめり込ませて振り抜いていたのだった。
「ぅげぇ……!!」
寝袋に詰まった虎石くんが無抵抗に床を転がる。身体をクの字にして悶える彼を、男はそこから更に何度も踏みつけ始めた。
「まだ威勢がいいな。自分のおかれている境遇に納得もしていない。虐げる側が、やられる側に回ったのだから当然か」
「てめ……! やめ! やめろ……が!!」
「黙っていないと舌を噛むぞ」
どうにか強気な声で抵抗するだけで為す術などあるわけもない虎石くんを、男はひたすら足蹴にしていく。その光景を前にして、僕は呆然とするしかなかった。
僕の顔は蒼白になっているだろうか。足下からじわじわとせり上がる寒気に背筋が凍りつく。
この男はヤバい。おかしい。異常だ。
麻痺していた感覚が、今更過ぎる警鐘を鳴らし始めている。
だけど、どうすればいい?
歯の根が噛み合わず、足が竦んでいる。
男は異常であっても冷静で、隙がない。上手く言えないけれど、しっかりとした目的に基づいて行動しているように思えた。
目の前で虎石くんに振るわれる暴力。だけどそこに衝動じみた激しさは無い。彼を黙らせるための淡々とした行為に、僕は戦慄していたのだった。
「楠ぃ……! とめてくれ!!」
「――!!」
虎石くんの懇願に、僕は我に返った。
ガンガンと頭痛がして、身体の何処かしらから湧いてくる熱に目眩がする。
止めないと。
「やめて……ください!」
動かない足を無理に前に出そうとした結果、ほとんどつんのめりながら僕は男の腰に抱きつく形になっていた。頑強な男の下半身はびくともしなかったけれど、動きが止まる――そう思った次の瞬間に、彼は腰を軽く捻って僕を振り払った。
「どういうつもりだ?」
「ひっ……」
無様にも床に尻餅をついた僕の眼前に、黒い影が立ち塞がり問い質す。僕は咄嗟に両手を翳して身を縮めた。
「もう一度訊く。何故、俺を止めた」
「そ、そんなの……目の前で、友達が……酷い目に遭っているんだから、当たり前じゃないか……!」
「当たり前、か。その割には彼が助けを求めてからようやく動いた、という感じだったが?」
「う……うるさい!」
「くくっ」
せせら笑って肩を揺らすと、男は屈んで僕と目線を合わせてくる。そこで僕は初めて、ぼんやりとではあるが男の顔の輪郭らしいものを捉えることができた。
三十代後半~四十代くらいだろうか。中途半端に髭を生やした以外に特徴らしさも無い、言ってしまえばどこにでも居そうな凡庸な顔。
だが、目だけは違った。
重たげに下がり気味となっている瞼の奥から覗く両眼は、じっとこちらの心の隙間を覗くような陰気さを帯びている。男の目に射竦められた僕は、後ずさることも忘れていた。
「君は、友達だから虎石正也を助けたい。そういうことだな?」
「…………さっきから、何なんですか……」
「質問しているのは俺の方だ」
「……! そうだよ! それの何が悪いんだ!?」
「だそうだ、虎石正也」
「……ぅ……クソが」
男が立ち上がり、虎石くんを振り返る。苦しそうに呻き声を漏らす虎石くんは、男を恨めしそうに睨み付けるのが精一杯みたいだった。
「さて、楠くん。途中だった話の続きに戻ろう。現在、俺と彼はゲームをしている。彼――虎石正也の勝利条件は、この状況から君に助けられること。逆に俺の勝利条件は、君が彼を助けないと選ばせることだ」
そう説明を受けても、僕は何も言葉を返すことができない。
まず、この状況が理解不能なことは、依然として変わりない――
「と、言いたげな顔をしているな。それはそうだろう。何せ、君を差し手の駒として選んだのは偶々だからな。しかし、ある意味では必然でもあったのだと思うよ」
そう言うと、男は懐からスマホを取り出した。
「君を選んだのは、虎石正也の携帯から存在を知ったからだ。君の大凡の事情は把握しているよ。君はとあるグループからイジメを受けている。その一環として廃遊園地に虎石正也と度胸試しに来るはずだったが、土壇場で怖じ気づいて約束を破った。その罪滅ぼしをするために、今日ひとりでやって来た」
「ど、どうして……」
「全てこの携帯から知り得たことだ。この意味を考えるといい」
「……それは虎石くんのスマホ、なんですよね?」
「ああ。俺が子供の頃とは違って便利になったものだが、その反面自分が賢くなったと勘違いしやすくもなったな。相手の顔も声も聞かずに、名前だけで画面の向こう側にいる相手が本物だと思い込んでしまうのだから」
虎石くんになりすました男の誘導のまま、のこのことこの場にやってきた僕には、皮肉に対する反論の余地がなかった。
でも、なんで僕なんだという疑問がどうしても引っかかる。虎石くんのスマホから僕のことを知ったのは分かるにしても、イジメを受けているとか、そんな情報までどうして知ることができたのか。
「せいぜい考えろ。悪いが、それとは別にゲームは進めさせてもらう。君はさっき、友達だから虎石正也を助けると言ったな。このままだと、ルールに則れば俺は負けてしまうことになる」
偶然? 必然? 頭の中がもうぐちゃぐちゃで整理がつかない。
「だから、これから俺は君を説得しなくてはならない。虎石正也を助ける必要はないとね」
「楠……耳を貸すな……頼む……」
哀れみを誘う虎石くんの声も、今は遠くに聞こえる。僕は男の言葉の意味を頭の中で繰り返し、繰り返し考え続ける。
虎石くんは友達だ。友達が酷い目に遭っているのだから、助けるのは当然だ。
でも……でも、もしかして、あるのか?
説得するには理由が必要だ。
僕が虎石くんを助けない選択をとるに足る理由を、この男は用意できるというのか?
あるとしたら、それはなんだ?
「楠くん、賭けてもいい。こいつを助けたとしても、君に感謝なんかしない。喉元過ぎればなんとやらだ。何事もなかったかのように、君はもとの生活に戻ることになるだろう」
もとの生活……そう聞いて思い起こすのは、五百瀬達から受けた数々の仕打ちだった。
「友達だから助ける。聞こえは良いが、虎石正也は君を助けたことがあったか? 暴力を受ける君を、彼は一度でも助けたか?」
「……それは」
「こいつがしたことと言えば、クラスで孤立している君の様子を窺うために、時々声を掛けていたことぐらいだろう。あるいは、君がどれくらいイジメに参っているか遠回しに確認しようとしていた、と言い換えた方が適当かな」
「ぅ……」
腹の底から気持ちの悪い感情が込み上げてくる。男の言葉が不気味な魔力をもって、僕の心を容赦なく食い荒らそうとしている。
「でも……! 虎石くんは、僕を庇って……一緒にここに来ようって……」
「それは、一度君に行くことを了承させるための口実づくりの意味もあったんだろうな。しかし、本当の狙いは別にある」
嫌な考えを振り払うように抗弁する僕に、男はいとも冷静に切り返す。
「考えてもみろ。君が一人で廃墟の動画を撮ったところで、それを観てどう思う? 楽しいには違いないかもしれないが、連中が本当に見て嗤いたいのは君の醜態だ。肝心の君が映っていなくては楽しさも半減というものだろうさ。なら、少なくともそれを撮影する同行者が一人は必要になる。そうは思わないか?」
信じられない。信じたくない。
でも、男の言葉は重かった。説得力があった。
「ここまで言えば、流石に解るだろう。五百瀬賢と虎石正也はグルだった。最初から君に味方なんていなかったのさ」
僕の心の防波堤は呆気なく崩れ去り、黒々とした津波が巨大なうねりを上げて呑み込んでいくのだった。