第二話「行方不明」
結局、昨夜は一睡もできなかった。
半分閉じかけた重い瞼を持ち上げながら、蒸れたスニーカーを引き摺るようにして登校する。
この殺人的な日射しの中、僕を追い越していく周りの生徒達は皆、どうしてそんなに楽しそうにしているんだろう。
行きたくない。学校になんか行きたくない。
腹の底にあらゆる嫌な予感を抱え込み、吐きそうになりながら校門まで辿り着く。
その開かれた黒い門は、僕にとっては地獄の入り口そのものだった。
許されるなら回れ右をして引き返し、布団を被って何もかもから逃げ出したい。
でも、そんな大それた決断なんてできるはずもない。それが最初からできれば、こんな思いは味わっていない。
それに、逃げたところでその先で待ち受けているのは、逃亡を罰するための更なる地獄でしかないのだから。
だったら、せめてものマシと思える地獄に甘んじるしかないんだ……。
誰とも視線を合わせないように背中を丸めて俯きながら、僕は目立たぬように自分の教室へと向かった。
廊下から聞こえる教室内の喧噪に胃が縮み、ドアを開ける手が一瞬躊躇う。
絞首台に向かう死刑囚はこんな気持ちなのだろうか。それとも、死刑になるような犯罪者は罪の意識なんて感じることもなくて、もっとふてぶてしくするものなのかな。
なるべく注目を集めないように教室の前側のドアをゆっくりと引き開けた僕は、身体を滑り込ませるようにして教室へと入った。
ほんの一瞬、教室に溢れていた会話の流れが止まり、僕の心臓は竦み上がる。
すぐに何事もなかったかのように再開される同級生達の会話の渦に、僕は勘違いだと言い聞かせながら自分の席へと向かった。
でも、決して勘違いではないのだ。それが証拠に会話を中断したまま、じっと僕の方を睨むように見つめている奴らがいる。
そいつらはいつも最後尾の窓側の席に陣取っている。一番左前の僕の席からは真後ろにあたる位置だった。
この席だって、席替えのときに半ば強制的に決められたものだ。
努めてその視線に気付かないよう、間違っても目を合わせないように、僕はそそくさと席に着く。
「おい、【クズ】。無視してんじゃねえよ」
けれど、そんなのはただの虚しい努力でしかなく、椅子越しに背中を乱暴に蹴られた。
目線を上げられない僕の目の前に、机に座る相手の腰が映る。逃がさないと言わんばかりに、正面から僕が座る椅子の背もたれ目がけて、振り下ろすように片足を引っ掛けられた。
「こっち見ろや、殺すぞ」
どうしようもなくなり、両手を膝の上で握り締めてどうにか顔を上げる。こっちを睨み下ろしている目を見るや、僕は視線を横に逸らした。
いかにも不良っぽく茶髪に染めた短髪。焼けたやや黒くなった顔をすごませてくる前田は、いつも最初に因縁をつけてくる。
「お前、オレらに何か言うことがあるだろ?」
「……な、なにが……」
「決まってんだろ!」
僕の返事が気に入らなかったのだろう。前田は椅子に引っかけていた足の裏側で、背もたれに蹴りをいれてきた。前田の大声にクラスの視線が集まるが助けなどはなく、視線はすぐに散らばっていく。
「お前、昨日虎石と行かなかっただろ」
そして、前田は僕の顔を覗き込むように顔を下げて、低く唸るような声で核心を言った。
僕はまともに彼の顔を見ることができなかった。
そう――その件に関してだけ言えば、悪いのは僕だ。
たとえ原因がこいつらにあったとしても、虎石くんとの約束を破ったのは僕なのだ。
「ちっ、黙ってんじゃねえぞ。なめてんのか」
「いや……そんなこと……」
「だいたいよ。お前昨日からずっとオレらのこと無視してただろ。ふざけやがって」
「…………ごめん……あ、その……虎石くんは?」
すごむばかりで自分の話が通ると思っている前田は質が悪い。このまま追及され続けるとろくなことにならない。僕は助けを求めるように視線を教室に巡らせた。
「虎石なら来てねえぞ」
「え……?」
「だーかーら! 来てねえんだよ。つーか、昨日の夜から連絡ついてねえ。どういう意味かわかるよなぁ、おい」
「や、休み……ってこと?」
「そういうことを言ってんじゃねえだろうが!」
「前田、そのへんにしとけよ」
「あぁ?」
と、そこへ会話にならない会話を見かねたように横槍が入ってくる。今までタイミングを見計らっていたに違いない。僕は振り返った。
「い、五百瀬くん……」
「楠がびびってるだろ。まずはちゃんと立場を教えてやらないと」
「オレは悪くねえだろ、イモ。こいつマジで話通じねえし」
「楠は話せばわかってくれるよ。な?」
五百瀬賢。
前田とは違い髪は染めておらず、制服もきちっと着こなして校則違反で見咎められるような格好もしていない。知性を感じさせる人の良さそうな笑みを浮かべて前田の足を手で払いのけ、そのまま僕の肩に触れてくる。
でも、今の会話からも分かるように、五百瀬は僕の味方ではない。逆だ。前田を僕にけしかけたのもこいつだし、仲裁に入っていかにも良い奴を演じているが、僕のことをバカにしていることには変わりない。
五百瀬賢は、僕を地獄に陥れようとするグループのまとめ役なのだ。
「楠。前田も言ったけど、俺たち昨日の夜はお前に散々連絡してたんだよ。スマホは?」
「…………家に、忘れてきた。昨日は、その、充電がきれてたかも……」
「は、デタラメ言ってんじゃねえぞ。ヘタれて逃げただけのくせによ」
「前田、ここは俺に任せて。まあいいよ、その件は後で話そう。ホームルームまで時間がないから、これだけは正直に答えてくれ」
「な、なに……?」
「昨日の夜、楠と虎石が度胸試しに行くはずだった廃遊園地。楠は行かなかった。それは間違いないんだな?」
僕の肩に置かれた五百瀬の指が、ぐいと食い込む。じっと目の奥まで覗き込むように見据えられた僕は逃れる術などなく、言葉なく頷くしかなかった。
「そうか……。だとすると、まずいことになったかもしれないな」
「ま、まずい?」
深刻そうな表情を作って呟いた五百瀬は考え込むように、僕の肩から離した手で自分のあごに触れた。
腹の底で蠢いていた嫌な予感が、空っぽの胃を圧迫する。前田が言っていた虎石くんから連絡がないという意味。その詳しいところを、意味ありげな視線を向けてくる五百瀬は、声を潜めながら口にした。
「昨晩の二時くらいまでだったかな。例の廃遊園地に入る直前まで、俺たちは虎石とLINEをしていた。でも、やりとりしながら探索っていうのも度胸試しとしては面白味に欠けるってことで、探索を終えるまでは連絡を切ることにしたんだよ。俺はそのまま寝てしまったんだけど、今朝になっても虎石からは連絡がひとつもないんだ」
言葉を失う僕を見下ろしながら、そこまで言った五百瀬は肩を竦めた。
「まあ、連絡を忘れて家で寝過ごしているって可能性もないではないし、まだはっきりとしたことは分からない。でも、今の話を聞いて虎石から連絡がないってのは不自然だと楠も思うだろう?」
五百瀬の口調はまるで誘導尋問のようで、そうであることが決定しているみたいな口ぶりだった。
「仮にこのまま虎石が行方不明に……なんてことになれば、楠にも責任はある。違うとは言わせないよ」
「…………そ、そんな――」
僕が咄嗟に腰を浮かせかけたときと、ホームルームの鈴が鳴ったのは同時だった。ドアを開けて教室内をざっと見渡した担任が、教壇に向かいながら声を張り上げる。
「お前たち、さっさと席に着けー!」
「……ここからは長くなりそうだし、昼休みにでもゆっくりと話そうか」
僕から視線を外した五百瀬は囁くように、僕にしか聞こえないような声で言い残して自分の席へと戻っていった。
「逃げんなよ」
最後に前田が僕を睨んで机の脚に蹴りを入れて立ち去った。担任が一瞬こちらを見たけれど、特に何も言わずに朝のホームルームが開始される。
担任が言うには、どうやら虎石くんは風邪で病欠とのことらしい。
けれど、いっとき責め苦から解放された僕の頭の中では、五百瀬の残した言葉がぐるぐると回り始めていた。
その後の授業などまるで頭に入るわけもなく、後ろの席から感じる、刺すような、詰るような複数の視線から逃れるように、僕は始まりのきっかけとなった出来事を思い返していた。