軌道降下――7
スコールのような暴雨が過ぎ去って数時間が経った。調査隊が滞在するP1ではすっかり日が沈み、彼らは降下して2度目の夜を迎えていた。少なくとも、時間の上では。
植物学者のケーリーは拠点であるプレハブを出て、外の景色を眺めていた。雨が降ったおかげで日中に比べれば辺りは涼しく、心地の良い快適な風がケーリーの髪をたなびかせている。
「明るいですね……」
視線の先に広がる景色は、まるで曇り空の日のように明るかった。だが確かに時間の上では夜である。恒星であるリギル・ケンタウルスを探しても、それは地平線のはるか下に潜っており決して見つけることはできない。空模様も大雨をもたらした積乱雲は風ですっかり流れ去り、綿のような小さな雲だけが漂っている。
普通の夜であった昨晩とは、明らかに様子が違っていた。気のせいか、森も昨日より騒がしい。
「あれのせいだよ」
不思議そうな顔をしているケーリーを見て、ウォレスは指差した。奇妙な白夜を生み出す正体。空に浮かぶ、巨大な三日月状の縞模様――第3惑星リュカオーンに向かって。
月の20倍以上の大きさで見えるそれは、まるで空を覆うかのように圧倒的な存在感を放っていた。青く輝くリュカオーンの上層大気が形成する木星のような縞模様と複雑な渦は、裸眼でも詳しく観察できそうなほど鮮明に見えている。
「あの巨大なガス惑星が恒星の光を反射しているからこんなに明るいんだ」
「つまり、凄い月光ってことですか?」
「その通り。まぁ、月なのはこちらだけれどね」
その明るさは、本当なら見えているはずの輝く星々を見えなくさせるほどだった。昨晩の満天の星空とは違い、今日の夜空に見えるのは欠けた青色の木星だけだ。原理的には月が見えるのと同じだが、天文学的なスケールの違いはそれを簡単に人間には理解させない。
「どうして昨日は見えなかったんです?」
素朴な疑問が彼女の頭には浮かんだ。それもそのはずだった。1ヶ月かけて満ち欠けを繰り返すならともかく、昨晩には見えなかった巨大な天体が今夜になって現れるなど、容易に考えられることではない。まるで突然別の世界にきてしまったかのような錯覚すら感じさせる。
「私も専門ではないから詳しくはないんだが……以前知り合いの天文学者に聞いたことがある」
その天文学者曰く、第2衛星アルカディアは、少し奇妙な軌道を持っているそうだ。通常、惑星を周回する衛星はその主星との近さのために強力な潮汐力が働き、公転と自転が同期する――潮汐固定の状態になりやすい。この場合、1回公転する間に1回自転するため、見かけ上衛星は惑星に対して常に同じ面を向け続けることになる。月が地球に対して常に同じ面を向け続けているのがその良い例だ。
本来であれば、アルカディアもその平均軌道半径から考えれば潮汐固定の状態になってもおかしくはない。その場合、アルカディアのリュカオーン側半球から見れば、リュカオーンは常にほとんど同じ位置に見えることになり、また逆半球では永遠にリュカオーンが見えない状態になる。
だが物理学の神は、アルカディアに別の道を与えた。
それは、2:3の軌道共鳴――2回公転する間に3回自転するという特殊な状態だ。これは公転軌道の離心率が大きい場合に起こり得る数学的奇跡であり、第2衛星アルカディアはいくつかの要因が重なった結果この軌道共鳴状態で安定していた。
この場合アルカディアのある軌道位置を見た時、例えば東半球がリュカオーンを向いた翌日には、逆に西半球がリュカオーンを向くことになる。つまりアルカディアは、リュカオーンが見える日と見えない日を交互に繰り返すのだ。さらに恒星と惑星、そして衛星の位置関係によっては、今日のように青く輝くだけではない日もある。不可思議な軌道がもたらす奇跡は、人類が見たこともないような天文ショーをこの星で永遠に繰り返してきた。
「リュカオーンの見え方はいろいろだ。楽しみにしておくといいよ」
「きっとこの星に知的生命が居たら、確実に信仰の対象になっていたでしょうね。存在感が違いますよ」
「確かに。しかし、影響されるのは知的生命だけじゃないはずだ。私はこの星の生態系に対しても大きな影響を与えていると考える」
「どういうことです?」
「昨日に比べて森が騒がしいというのは、君も気付いているだろう」
「それは早くから気付いていました。昨晩は昼に調査で入った原生林に比べるととても静かで、動物達の姿もあまり見られなかったと思います。しかし今日は……」
ケーリーは森の奥を見た。明るいせいもあるのだろうが、奥では何らかの中型動物の群れが低木の葉を食べているのが分かる。だが普通ならああいった草食動物は、夜になれば眠りにつくか、少なくともあまり動かないのが普通のはずだ。空を見ても、昨晩に比べて多くの有翼綱(地球の鳥に相当)が飛び交っている。夜にしては確かに騒がしい。
「昨晩に比べて動物たちは活発だ。おそらくこの光量が原因だろう。きっと彼らは今を夜だとは認識していないんだ」
「なるほど……しかしそれですと、彼らは寝ていないということになりますよ? この星の1日は約30時間もあるんですから、丸1日活動しているとなるとさすがに体力的に持たないのでは?」
少なくとも人間にとっては、この星の1日のサイクルには簡単には慣れないということがケイローン計画の時点から分かっていた。人間は24時間前後の体内サイクルで睡眠と活動を繰り返しているのだから、無理もない。
「地球の生き物なら、体力的に大変なのは仕方ない。身体が適応していないからね。だがこの星の生き物は違うだろう。地球でもキリンのように20分の睡眠時間で済む動物がいるように、この星の生き物だって極端に短い睡眠時間で十分だったり、もっと長いサイクルの体内時計で生きているはずだ。それに、仮に捕食動物が今日のような白夜で活動できるように適応したとしたら、捕食対象である動物達も白夜には起きて活動できるように進化したはずだ」
「彼らには彼らの進化があったということですか」
「その通り。見た目こそ親近感が湧くこの星の原住生物達だが、本質的には全く異なる生物だ。危険もあるが、だからこそ好奇心がくすぐられるんだろう」
その後しばらく森を眺めて、2人はプレハブの中へと戻った。
軌道降下2日目。輝くリュカオーンに見守られながら、彼らは1日の仕事を終えて眠りについた。