フロンティア計画――1
宇宙への船出は星と星、つまりインターステラーの旅に他ならない。我々の寿命を超えた、遥かなる目的のために立ち向かうのだ。一人一人のためではなく、人類という種のために。
――ジョン・ブランド「インターステラ―」より
シリク・サムリンは、真っ暗な低温睡眠装置の中で目を覚ました。
ひどい空腹感を感じる。低温睡眠という名の仮死化処置のせいで、胃の中身はすっかり空になっているのだろう。おかげで、目覚めの気分は最悪だ。
まぶたを上げると、その微細な動きをモーションセンサーが感知したのか、明かりが灯り始めた。眩しさを感じさせないために、内部灯はゆっくりと明るくなっていき、装置の内部がだんだんと識別できるようになってくる。その光景は、感覚的にはついさっき見た光景と全く同じだ。まるでうたた寝をして、ふと目が覚めた時のような、全く時が進んでいない感覚……
すると突然、装置の内部に音楽が流れ始めた。“クラシック”と形容してもよさそうな心地の良い音楽が、さっきの明かりのようにフェードインしてくる。そしてある程度音量が大きくなったところで、今度は“言葉”が、狭い棺桶のような空間に流れ込んできた。
『おはようございます。シリク・サムリン様――』
流れてきたのは、女性的な声質をした人工音声だった。
『行動手順に基づき、低温睡眠が解除されました。現在、搬出準備中です。しばらくお待ちください』
聞き心地の良い良質な人工音声だったが、そんなことよりも“行動手順”という言葉が、彼の耳に強く残った。“緊急対応“ではなく、“行動手順”?
――――着いたのか!
途端に、心臓の鼓動が速くなったのが分かった。緊張と喜び、2つの感情が身体を巡り、心が混乱しているのにも気付いた。
そして少し遅れて、1つの事実が頭に浮かんだ――地球を発って、16年が経ったということに。
ついさっきまで感じていた“全く時が進んでいない感覚”が、ただの勘違いだということを、彼はにわかには信じられないでいた。
もちろん、時間的感覚がないのには理由がある。仮死化処置で脳の活動がほとんど止まっていたために、夢はおろか、最低限の生命維持を除く思考はほぼ完全に止まっていたためだ。
だがそれだけの時の経過が、彼にとっては“一瞬の内に過ぎた”という感覚の方は、強く感じていた。なにせ彼にとって目が覚める直前の記憶とは、低温睡眠装置に入り、眠りにつくときの記憶なのだから、その間を全く感じなければ、勘違いするのも無理はない。
自分の身体を確認するべく、自然と彼の頭は動いた。16年という時の経過が自分の身体にどんな影響を与えているのか、無意識に心配になったからだ。だが、無重力という環境に慣れていない彼は、仰向けの態勢から少し焦って顔を上げたことで、予想よりも頭が高く上がってしまった。人生のほぼすべての期間を地球の重力下で過ごしてきたせいで、身体は1Gの抵抗を考慮した力を出す。だが、無重力ではそんな抵抗は存在するはずもないために――高く上がった頭は、そのまま装置の天井に当たった。わずかな痛みが、彼の前頭部を襲う。
『お待たせいたしました。準備が完了いたしました。ただいまより搬出を開始いたします。危険ですので、搬出中はむやみに動かないよう、ご注意ください』
彼の行動とは裏腹に、人工音声は搬出準備の完了を伝えてきた。モーションセンサーも、彼の無重力に対する理解にまで助言するほど高機能ではない。
サムリンは、とりあえず案内に従うことにした。“目が覚めてもむやみに動かない”という注意を、出発前に受けたことも今更ながら思い出していた。
それに頭をぶつけたものの、目視で身体を見ることはできた。入院服のような簡素な布きれに隠されていない足や手には、特に変な模様やしわ、傷などは付いていなかった。低温睡眠中の生命維持に使われていたはずの超極細針の跡も、全くない。
自分の身体は16年間無事だった――それが最終的に彼が下した決断だった。ぶつけた頭を下げ、目覚めた時と同じような仰向けの姿勢になる。すると、装置の天井が足の方へ向けて流れ始めた。
外部から見れば、サムリンは引き出しのように低温睡眠装置の内部に収納されていた。だが今、彼の身体は頭側からゆっくりと搬出されている。
頭が装置から出た時、彼の視界に映るものは、狭い棺桶のような空間から白々とした広い空間へと変わった。低温睡眠モジュールのS-01だ。
目の前には、網目の大きいメッシュ板と手すりがある。無重力のモジュール内を移動する際のガイドだ。そのまま視線を頭頂部の方へ向ければ、個人ロッカーも見えたはずだが、そこまで顔は動かさない。
代わりに、顔を右に向けた。そこには、同じような低温睡眠装置がいくつも並んでいる。背中合わせの形でそれぞれ50個横に連なっており、合わせれば100個の装置が、S-01に設置されていることになる。
そのうち、いくつかの装置は、サムリンと同じように内部で眠っていた人間を搬出している途中であった。行動手順に基づき起こされた、基幹要員達だ。
安心感に包まれる。見たところ、皆無事のようだ。16年という超長期間の低温睡眠には、徹底した安全管理が施されているものの、それ相応のリスクはあると聞いた時には、正直鳥肌が立った。だがこうして他の基幹要員の姿を見られると、そんなリスクなど微塵も無かったかのように感じてしまう。
『皆様、おはようございます。行動手順に基づき、皆様の低温睡眠は解除されました。指示に従い、準備を整え、運用管制室にお集まりください』
装置の中で聞いたものと同じ声だ。運用管制室に集まるよう、繰り返し案内している。
数秒が経って、装置の動きも止まった。搬出が終わったようだ。身体を固定していた最後のベルトが自動で外れ、身体は自由になった。
とりあえずで身体を起こし、周りを見渡す。すると隣には、同じように辺りを見渡す1人の女性がいた。ふと、目が合う。
「おはようございます、サムリン代表。気分はどうかしら?」
聞きなれた声だ。感覚的には4年前――だが低温睡眠中の期間も含めれば20年以上前から付き合いのある、最も信頼できる仕事仲間の1人だ。
「とにかくお腹が空いたよ……目覚めの良い朝とは言えないな」
ありのままを伝えた。実際、こんな空腹感は幼少期以来味わっていないかもしれない。
「なら問題ないわね。さぁ、仕事を始めましょう? 行動手順通りに起こされたってことは、私達、ついに着いたのよ」
女性は、サムリンの答えなど気にしなかった。確かに、空腹感を感じるのは想定内だ。特段、異常があるという訳ではない。事前に説明だって受けている。
「さっさと動きましょう。皆を連れて運用管制室に行かないと。“私達の一挙手一投足が人類の未来を決定づける”と言ったのはサムリン代表、あなたでしょう?」
彼女の表情は、空腹感など感じさせなかった。むしろ、希望に満ち溢れたかのような、喜んだ顔をしていた。
――タフな奴だ。
だが、それこそが彼女を――ライラ・ヴァレンティンを研究主任、そして副代表として選んだ理由だ。学識があり、行動力もある。なにより、これから暮らす“アルカディア”に行ったことのある、数少ない人間の1人だ。
「あぁ、分かっているよ……」
サムリンはまだ低温睡眠後の気持ち悪さが抜けていなかったが、とにかく動き始めた。何をすればいいのかは出発前に言われている。まずは個人ロッカーから服と荷物を取り、着替えて……あぁ、早くお腹を満たしたい。
募る気持ちを抑えながら、彼は手すりやメッシュ板を巧みに使い、個人ロッカーへと向かった。他の基幹要員達も同じように動いている。
彼らの仕事は、既に始まっているのだ。