生ける屍が何を求めるのか
「MIOちゃん、MIOちゃん」
柔らかな声が聞こえた。
ぼんやりとした意識では、その声の主が誰なのか思い出せずに、視線だけを左右に動かす。
振り返れば、無表情の見慣れた顔があった。
「帰るよ。MIOちゃん」
ほんの少し、声に咎めるような色が混ざる。
帰るって、何処に。
声も出せない私は、そのままぼんやりと、見慣れた無表情を見ていたが、相手痺れを切らしたように私の腕を取る。
そこで「あれ?」と思う。
何で目の前の彼女は、私に触れることが出来るのだろうか。
しっかりと握り締められた腕を見て、違和感を感じながら首を捻る。
「……ねぇ」
声が出た。
「何?」
足を止めて振り返った彼女は、やはり無表情で長い前髪の隙間から黒目を覗かせる。
光のない黒目は、人によっては死んだ魚のようだと言うけれど、私はとても綺麗だと思う。
だって彼女は生きているし、光のない黒目でも、硝子玉のように透き通っていて、どんなものでも濁りなく歪みなく反射してくれる。
だからこそ、その黒目に映る、私自身を見て、変だなぁと思ってしまうのだ。
「私、死んでるよね?」
思ったことを、考えたことを、そのまま口に出しただけなのに、眼の前の彼女は無表情を崩す。
ぐしゃりと歪んだ顔に、私はやはり変だなぁと思ってしまった。
***
「コタール症候群……って何ですか?」
首を傾ければ、白衣を着た先生は今説明するから、とでも言いたげに目を細めた。
ノンフレームの眼鏡が蛍光灯の光に当たり、キラリと光るのが見える。
「自分がこの世にいないと思ってしまう病だよ」
「……?私、ここにいますよ」
背もたれのない回転椅子に座りながら、私は髪を揺らして首を傾げた。
しかし、先生の顔は強ばった状態で変わらず、私の顔をじっと見て首を振った。
「君、さっき自分で言ったこと覚えてる?」
白髪が混ざり始めた髪を掻きながら、先生が問い掛けるので、傾げていた首を戻して頷く。
「何か、自分から腐臭っぽいような。生臭い匂いがした気がして……内臓系の病気かなと思って」と、目に掛からない程度に切り揃えた前髪を弄る。
そうして、そんな私を見て先生は、カルテの上にボールペンを転がし、それだよ、と言うのだ。
何がそれなのか、私には分からない。
「その君の感じる匂いは、私には感じられない。もっと言えば、その匂いは君にしか感じることが出来ず、そもそもそんな匂いはしないんだよ」
膝の上で手を組んだ先生は、背中を丸めてそう言った。
だって匂いしますよ、なんて言えずに、前髪の奥で眉を潜めた私は、鼻を静かに上下する。
ほんの少し、気にしなければ気付かないような匂いだ。
スーパーの鮮魚コーナーで感じるような、あの生臭い匂い。
確かに感じるそれが、本当は存在しないのだろうか。
その場合には脳やら鼻やらが異常をきたしているのでは、と先生を見ても首を横に振る。
「これは別名だと歩く死体症候群と呼ばれていまして、もしかしたらそちらの方が有名かも知れませんが。今はその匂いだけでも、そのうち本当に自分が死んでいるのではと思うようになります。もっと言えば、自分には脳がないだとか、神経がなくなっているだとか……」
先生の言葉が右から左へ抜けていく。
歩く死体症候群、膝の上に揃えて置いていた手の平を見て、強く握ってみる。
あれ、私、生きてるよね。
***
確かに感じる腕の温もりに、生きてるんだ、なんて他人事のように思ってしまった。
思い出した病院での出来事。
だからと言っても、思い出したところで何も変わらずに、この手が離されればきっと私は、また歩く死体に逆戻りしてしまう。
日に日にぼんやりすることが増えてしまい、生きているのか死んでいるのか分からなくなる。
いや、もっと言えば、死んでいると信じ込む時間の方が長くなっている。
ぐしゃりと顔を歪めた彼女を見れば、困ったように笑っている私が映り込み、あぁ、生きてるんだって。
彼女の手に触れてみた。
「……帰ろっか」
今だけまともに戻った思考で、ゆらりと彼女の指に、私の指を絡めてみた。
温かくて柔らかい、女の子の手の平だ。
今度は私が彼女を引っ張るように歩き出し、何となく先程までいた場所を振り返る。
薄暗い墓地に並んだ墓石達が私を呼び寄せるのは、いつになるだろうか。
今度は、今度こそ、あの下に、私も。
絡んだ指を外すことなく、出来たら彼女も連れて、冷たい土に還ってみよう。