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静かな沼のほとりで

 上手く言えないんだけど、と前置きをするのは絹の悪い癖だ。


「車とすれ違う度に、私が死んでいくような気がするんだけど」


 彼女の悪癖は口癖だけに留まらない。訳の分からぬ比喩表現やら、くどくどっ長ったらしい話やら。


「毎度のことながら言うけど、意味が分からん」


 俺の一蹴に、絹は少しだけ恨めしげな目をしてみせた。

 返る言葉がないのは、何かしら思うところがあるからなのだろう。


「上手く言えないと思うなら、もう少し頭の中を整理してから話すべきじゃないか?」


 早朝の通学路は、やけに静まり返っている。

 俺の声がいつもより大きく聞こえるのは、決して俺が声を荒げたからではない。

 立ち止まり、頭二つ分は下にある瞳を覗き見ると、淡い茶色の硝子の中に、呆れ顔の俺が映り込んでいた。


 我が幼なじみは、周囲からの評価が極めて悪いことに定評がある。

 俺自身、随分と風変わりな奴だなと強く感じることが多い。


 例えば、幼い頃から本にかじりついていたためか、やたらと言葉遣いが古臭いこと。

 例えば、本の語り手のように、長々と説明口調ばかり続けること。

 例えば、本のように言い回しが婉曲的なこと。

 要するに、完全に本の虫なのである。


 彼女はぼーっとしている時のほぼ8割近くは間違いなく本のことを考えており、そうした時にはこちらのどんな問い掛けも無視するのだった。


 俺がこうして彼女と登校するのは毎週、部活の朝練のない火曜日と決まっているのだが、そもそもこんな風に連れ立って歩くのは俺の本意ではない。

 親同士が古くからの友人関係であり、彼女のお守りを親づてに頼まれたからこそ、わざわざ学校に行く道を遠回りしているのだ。


 幼い頃ならまだしも、俺もこいつも、とうに異性と親しくする時期を越えてしまった。

 大して変わらぬ声や背丈であった日々は手を繋ぎ無邪気に笑いあいもしたものだが、背も体つきも声も何もかもがかけ離れたものに成長していくにつれて、それに比例するように二人の距離は自然に開いた。


 それでもこうして彼女と登校することをやめないのは、一度引き受けたことはやり遂げないと済まない性分だからだと思う。


 思う、というのは自分を客観的に見ているが故に生じる感情で、ひどく境界の曖昧で凡庸な見立てだ。

 そもそも、性分なんてものは常日頃から意識するものではないだろう。


 ただ、短いながらも今までに得てきた経験上、俺は確かに、頼まれ事にはとんと弱かったのだ。

「あれを直して」

「これを持って行って」

「買い物に付き合って」

 そうした依頼に首を横に振ったことは、恐らくきっと、なかったはずだ。


 友人からもしばしば「晴は面倒見が良いよね」などと言われるので、これは恐らくそれなりに的を射た自己分析だと思っている。

 ――…ああ、また、「思っている」などと曖昧な言葉を使ってしまったが。


「ねぇ、晴」


 ひたり、と静寂の間を縫うように、絹の涼やかな声が届く。


「私はね、整理してから話す、なんて器用な真似、出来ないの」


 そう言うと、未だ動けずにいる俺を置いていくかのように、彼女は一歩足を進める。


「胸から湧いた思いは、生まれ出るその瞬間にしか口に上らないものだと思うから」


 先に進む彼女の背を暫し見つめ、ようやっと俺も足を踏み出した。


「考えている暇なんて、ないの。

 そんなことをしてる間に、言葉は胸の中で腐っちゃう」


 恣意的な解釈だ。

 そんな風に切り捨てることも出来るような、瑣末な言葉たちを、しかし彼女は宝物のように口ずさむ。


「言わなくちゃ、今言わなくちゃ。

 後ではもう二度と言えないかもしれない。

 それこそ、私の呼吸が止まってしまったら、きっと二度ともう、言えない」


 その言葉を受け、絹が棺に納められる姿を思い浮かべてみる。

 きっとそれは、毒林檎を食べて眠りについた、かの姫のように、鮮やかな死となるのだろう、と。


 考えてすぐ、はっきりと脳裏にその瞬間を思い浮かべられた自分に軽く絶望する。

 そして間を置かず、こんなに簡単に死と繋がってしまう、薄氷の上を一人歩くような幼なじみを恐ろしく感じてしまう。


「あのな、絹」


 すぐに追いついて、その頭に手を載せた。

 顔をくるりとこちらへ向けさせて、言い含めるように告げる。


「冗談でも、そういうことを言うんじゃない」


「そういうこと?」


 幼なじみ殿は、心底不思議そうな顔で小首を傾げている。

 何が分からないというのだ。こんなにも単純な心配が、何故分からない?


「二度と言えないとか、呼吸が止まったら、とか。

 そんな簡単に、死を口にするな」


 今の俺に言えるのは、精々これだけだ。

 もはや昔のように、素直に感情を吐露することもままならない。しかしきっと、これで良い。


 あの頃は簡単に言えた甘っちょろい口説き文句も、今の俺には過ぎた口上だ。

 本音を言えば、きっとこの距離は更に広がり、もっと手の届かない所へ彼女は行ってしまう。

 それは俺の確信だった。誰に言われた訳でもない、根拠のない見立て。

 感覚で動くのは俺の十八番だ。


 俺も絹も、もう大人になりつつあった。

 遠くない未来、俺と彼女の道は別たれ、そしてそれはその後も交わらぬままの平行線を辿り、やがては消えていくことだろう。

 ならば今、無闇にこの縁を解くような無様な真似はしたくない。

 保守的だと揶揄されようと、これだけは固く決めていた。


 俺が彼女と共に歩くことを不本意だと思うのは、側にいればいる程、彼女への想いを抑えられなくなるのが怖いからだ。

 さりげない一挙一動にさえ、凍らせたはずの心が融け出して染み入ってしまう気がしたのだ。


 自分でさえ全てを知らない、暗闇の更に奥深くに潜む“うろ”の中へと落ちて少しずつ積もっていくそれは、言の葉にすらならずに心の器をひたひたと満たしている。


 絹は言った。考えている間に言葉が腐る、と。

 ならばきっと、永きに渡りこの胸に秘められた俺の想いはきっと、とうに形を成さずに朽ち果てているのだ。

 俺はそれを、寂しいことだとは思わない。

 寧ろ、それこそが俺を成長させたのだと、誇りにすら思うだろう。

 彼女へと降り積もる想いは、俺の幼い心をここまで育んでくれた。

 見守ることの温かさを教えてくれた。


 もし彼女が言うように、腐るのを待たずにそれを告げていたら、俺はいつまでも迷い子のように頼りない、小さな頃と変わらないままだったに違いない。


「晴は昔から、変わらないね」


 呆れたような言葉には、しかし全くとげは含まれていない。

 小さい肩をより竦ませて、柔らかな唇をにぃ、とつり上げる。

 昔から変わらない、幼なじみ相手だからこその気安いこの表情は、立ち位置をしっかりと固めたはずの俺をいとも容易く引きずり落とす。


「――…何がだ」


「私がどんなに荒唐無稽で支離滅裂で曖昧模糊としたことを言っても、その全てに本気で答えてくれる。正面から向き合ってくれる。私を見放さない。

 面倒くさい、というポーズは取るけど、でもそれは結局はただのポーズにしか過ぎないよね。

 最後には私を全て受け入れてくれる」


 どんな決意で俺がここにいるかも知らないで、本の虫たる彼女は俺という一個人を暴こうとする。

 それこそ、本の中の登場人物の性格を言い当てるような気楽さで。意気揚々と、言葉を紡ぐ。


「私はね、晴。多くは要らないんだ。

 陳腐な言葉で言いくるめようとする奴とか、他人を中傷して貶める奴とか、そういう奴と肩を並べて笑いあう趣味はない」


 少しずつ近づきつつある学び舎の姿が、次第に明瞭に視界を占めるようになった。

 傍らの幼なじみは、そんなことを言いながら、俺の隣に「肩を並べている」。

 それの意味するところを思い、自然とまなじりが下がりかける。

 けれど慌てて気を引き締めてその緩みを正す。


「こういう私を嫌う輩は多い。

 でもね、晴が側にいてくれたら、他の奴らは全て敵でも良いなんて、そんな風に私は思うんだよ」


 投下された爆弾は、俺が沈めた想いを“うろ”の底からかき混ぜていく。

 折角少しずつ治めていた胸中が、凍らせた思いが、ない交ぜになって少しずつとろとろと融けて、解けていく。


 胸を射るこの想いは、何だ。

 頬を伝う雫は、汗か、涙か。


 時の止まるような瞬間から生還し、動揺を無理やりに抑えつける。

 俺のそんな努力なんて、彼女の知るところではないだろう。


 しかしそれでも、彼女は、澄んだ瞳で俺の答えを求めている。

 自分の放った言葉に俺がどう返すのかを、絶対的な信頼感とともに見守っているのだ。


 さて、上手い返し方はないものか、と汗ばむ手を握り締めて思案している内に、気づけば予鈴の鳴る学校に足を急かされる羽目になった。

 普段は特に何も感じない規則的な鐘の音に、今だけはと最大級の感謝の意を心中で表した。

 これで暫く、返事を保留に出来る。

 大切な相手だからこそ、一時の衝動に任せて傷つけるような真似は避けたかったのだ。


 次に会うのは一週間後の今日である。

 火曜の登校の時以外は、幼なじみというのが嘘だと感じられる程に、俺と絹とは顔を合わせない。

 まぁ、それは俺がそうなるように意識して行動しているからに他ならないのだが。


 今となっては、普段の己の行動に拍手喝采を贈りたい。

 彼女の避け方は嫌という程に熟知している。

 なればこそ、返答を考える時間も生まれよう。


 校門をくぐり、クラスの違う絹とは下駄箱で別れ、そのまま級友たちの待つ我がクラスへと急ぐ。

 チャイムが高々と校舎を駆け巡る最中に、俺はこの身を俺の居場所へ滑り込ませた。

 彼女も間に合っただろうか、と、少し離れたクラスへ向かった彼女を想いながら。

 冒頭の女の子の「車が通る度に…」という一言は、大学生時代、大学の最寄り駅から大学まで歩く道すがらに唐突に頭に思い浮かんだフレーズでした。

 その言葉を言いそうなキャラを作っていったらこんなよく分からない女の子が出来上がっていたという罠。

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