*第5話*
これは予想外だった。ヒロインが侯爵令嬢となったのはつい先日のこととはいえ、ここまで貴族の常識を知らないとは。彼女は侯爵家で最低限のことを学ばなかったのか。そこまで考えて、はっとする。
イースト侯爵は意図的に彼女に何も教えなかったのではないか。
さっき彼女は私が名前を尋ねた時に「お父様に誰かに名前を聞かれても、相手の名前を聞くまでは自分から名乗ってはいけないって言われてるんです」と言った。つまり、イースト侯爵は彼女に自分よりも身分の低い者と接する時のことは教えているのだ。侯爵ともあろう者がその時に自分よりも身分が上の者との接し方を彼女に教え忘れたとかいうことはないだろう。侯爵は意図的に教えなかったと考えるのが妥当である。
だが、なぜ意図的に教えなかったのかが分からない。彼女のその言動で我が公爵家や王家の不興を買うことだって考えられたはずである。それにイースト侯爵家の品位を落とすことに繋がりかねない。
「あの……?」
「ごめんなさい。少し考え事をしていましたわ」
彼女の戸惑ったような声に慌てて反応する。
「何を考えていたんですか?」
彼女がコテンッと首をかしげた。さすがヒロイン。可愛い。しかし、正直に「あなたのことを考えていたのですわ」などとは言えない。
「大したことではありませんわ」
にっこりと作り笑いを浮かべる。するとつられたようにヒロインも笑った。
「そういえばまだあなたの名前を聞いてませんでした。なんていうお名前なんですか?」
「シェリルですわ」
「シェリルさんっていうんですか。可愛い名前ですね」
そういいながら微笑むあなたが可愛いです。ちょっと砕けた敬語のような言葉遣いとか、ちょっと荒い立ち振る舞いとか、イースト侯爵が何をしたいのかが分からないとか、いろいろ問題はあるけれど、彼女ならきっとこの笑顔でシェイナスを癒やしてくれるはずだ。言葉遣いや立ち振る舞いは私が変えてあげればいい。イースト侯爵についてはローナがなんとかしてくれるだろう。なんだ。なんの問題もないではないか。
「待っててシェイナス! このわたくしが絶対にシェイナスを幸せにしてあげますわ!」
ぐっ、と拳を握る。
「シェ、シェリルさん?」
はっ、ヒロインがいることをすっかり忘れていた。口元に手を当てる。
「なんでもありませんわ。お気になさらないで。うふふ」
失態だ。心の中の自分に三発ほどビンタをくらわす。
「シェリルさんって面白い方なんですね。シェイナスさんとは?」
「わたくしの婚約者ですわ」
・・・・・・あ。
しまったあああああぁぁぁぁぁぁぁ! もう三発と言わず、何回も心の中の自分にビンタをくらわす。いつかはバレるだろうとはいえ、シェイナスに会わせる前にカミングアウトしてしまうなんて。「シェイナスは私のものだから会っても手を出すなよ?」って言ってるのと同じである。
「どんな方なんですか?」
あれ? シェイナスに興味を示した?
「シェイナスはとっても優しい人ですわ。でも優しいだけじゃありませんの。頭もいいし、剣の腕だって立つのですわ。それに、わたくしが悲しい時はそっと抱きしめてくれて、寂しい時にはうんと甘やかしてくれますの。そして何よりシェイナスはこの世の誰よりも格好いいのですわ!」
ぎゅっと拳を握る。シェイナスの素敵なところなんて多すぎて言い尽くせない。再び口を開こうとした時だった。
「そんなに褒めてくれるなんて、僕のお姫様は本当に可愛いね」
「シェ、シェイナス!?」
なんてことだ。にやにやした顔で薔薇の向こうからこちらを見ているシェイナスは全てを聞いていたに違いない。自分が何を言ったのかを思い返すと顔から火が出そうである。穴があったら入りたい。いや、いっそのことそこの薔薇の茂みに突っ込もうかな。
「ふふふ。駄目だよ、シェリー。そんなことをしては。シェリーの綺麗な肌に傷がついてしまうよ」
心の声が漏れてたらしい。公爵令嬢としてあるまじき失敗である。気をつけなければ。
「ところで、そちらの方はどこのご令嬢かな?」
私の隣までやってきたシェイナスがヒロインへと顔を向ける。あぁ……。覚悟していたとはいえ、好きな人が違う女性を見つめている姿を見るのは辛い。そっと顔を下へと向ける。
「え、えと……」
ヒロインが困ったように視線を彷徨わせる気配がした。そういえば、ヒロインは相手の名前を聞くまでは自分の名前を言わないんだった。私の口から名前を聞いたとはいえ、本人の口から聞いたわけではないからどうしていいのか分からないのだろう。
「イースト家のご令嬢のカルラさんですわ」
ヒロインがシェイナスに名前を聞こうとする前に私がヒロインの名を告げる。さすがにヒロインがシェイナス相手に先に名前を聞こうとするのはまずい。
「カルラさん、こちらはわたくしの婚約者のシェイナスですわ」
そして、ヒロインにもシェイナスを紹介する。疲れる。三年ほど老け込んだ気分である。
「なるほど。では最近イースト家の養子になったというご令嬢は君のことだね」
「ご存知でしたか」
シェイナスがヒロインを知っていたことに驚いたが、シェイナスなら知っててもおかしくないと思い直す。
「あ!」
突然ヒロインが声をあげる。
「カルラさん?」
シェイナスと顔を合わせて首をかしげる。ヒロインがシェイナスに向かって指を指す。え? ちょっとヒロイン? 何をしてるの? 先に名前を聞くことよりもまずいよ! 礼儀作法的にはレッドゾーン通り越してブラックゾーンだよ!
「あなたが王子様ね!!」
ヒロイン何をしてるのーーーーーーーー!?
心の中で大絶叫した。