*第4話*
誰もいない静かな薔薇園の中をてくてく歩く。月の光の他に王宮から漏れる光があるとはいえ、辺りは暗い。思わずため息が出た。王宮内の薔薇園だから、不審者に会うということはないだろうし、幽霊などというものも信じてはいないが、やはり怖いものは怖い。二人に追い出されてここまで来たけれど、やっぱり戻ろう。踵を返そうとした時だった。
「誰か、いるんですか?」
「え?」
薔薇園の奥から声が聞こえた。驚き過ぎて間抜けな声が出る。
「よかった!」
足音がどんどん近づいてくる。まさか、幽霊とかいうことはないだろう。幽霊なんて存在しない。そう自分に言い聞かせ、王宮へと急いで足を向けたくなる気持ちを抑えつける。
足音が私のすぐ側の茂みまで来た。恐る恐る視線をそこへと向ける。そこから現れたのは私と同じくらいの年頃の女の人だった。
「きゃっ」
突然、彼女が私に抱きついてきた。その勢いに耐えられなかった私はその場で尻もちをつく。
「いったぁ」
地面に打ちつけたおしりをさすりたいのだが、私に抱きついた彼女が離してはくれない。痣とかできてないよね?
「あの、どいてくれませんか?」
遠慮がちに彼女にそう言いながら手を伸ばす。私の手が彼女に触れたことで気づく。
震えている。
彼女の体をどけようとするのをやめ、優しく背を撫でた。すると、彼女の震えもしだいに収まっていく。
「す、すいません! 私ったら!」
勢いよく私から離れた彼女は、私に勢いよく謝った。
「いえ、大丈夫ですわ」
立ち上がりながら、さり気なく打ちつけたおしりをさする。痣はできてないかな?
「本当に助かりました!」
彼女がにっこり笑った。
「何があったのです?」
突然現れて、突然抱きついてきた理由がさっぱり分からない。教えてほしい。まさか、薔薇園で迷子ということはないだろう。この薔薇園は確かに入り組んではいるのだが、この薔薇園では頻繁に王妃主催の茶会が開かれるので、今夜の夜会に呼ばれるようなご令嬢たちが迷子になるということはない。今夜の夜会には、王妃のお茶会に頻繁に呼ばれるような高位の貴族しかいない。
「私、迷子になってしまって」
そのまさかだった。
彼女の話はこうだ。今日の夜会に出る予定だった彼女は昼に王宮を訪れたらしい。その時に、薔薇園の薔薇が見頃だから行かないかと、たまたま出会ったご令嬢達に誘われ、ついて行ったそうだ。最初はそのご令嬢達と一緒に薔薇を見ていたそうなのだが、気がついたらそのご令嬢達はいなかったらしい。その後、私に出会うまで、一人でこの薔薇園をウロウロしていたそうだ。
そのご令嬢達に悪気があったわけではないだろう。この薔薇園で迷子になるご令嬢など今日の夜会に呼ばれるようなご令嬢の中にはいないと思っていたはずだ。
「あの、名前を教えてくれませんか?」
「え?」
「あ、やっぱり駄目ですかね?」
駄目とかいう以前の問題である。私は、この国で唯一の公爵家である家の令嬢だ。しかも、もうすぐ破棄されてしまうであろうが、この国の王子の婚約者でもあるのだ。私を知らない貴族の女性など、ほとんどいない。
「そういうわけではないのですけれど」
歯切れ悪く、答える。身分が上の者に名を尋ねる時は自分から先に名乗るものなのだ。公爵家の令嬢である私よりも上の身分など、それこそ王族しかいない。今この国で王族と呼ばれるのは、現国王夫妻とその息子であるシェイナスのみである。
彼女はそのようなことも知らないのだろうか。今日の夜会に呼ばれているということは、それなりの家格をもつ家のご令嬢のはずである。そうでなくとも、貴族として知っていなければならない常識なのだ。ここで、悪役令嬢らしく彼女に向かって「何様のつもりですの? 貴族の常識も知らないのかしら?」などと言えればどんなに楽であろうか。乙女ゲームの中の悪役令嬢シェリルなら言えるだろうが、私には言えない。と、いうか今まで悪役令嬢らしく過ごしてきたことなどないのだ。ゲームの中のシェリルだって嫉妬に狂ってああなってしまったのであって、元は真面目で、優しい性格だったのだ。自分で言うのもなんだけど。
さて、彼女になんと言うべきだろうか。それとなく諭すべきか。
「あの、先にあなたの名前を伺っても?」
とりあえずさり気なく、名前を聞くことにした。
「え?」
なぜか、え?って返された。それはこっちのセリフである。しかもなぜそんなに不思議そうな顔をしているのか。
「先にあなたの名前を伺いたいのですわ」
私がそういうと、彼女は心底困ったような顔をした。なぜだ。
「お父様に誰かに名前を聞かれても、相手の名前を聞くまでは自分から名乗ってはいけないって言われてるんです」
だから、ごめんなさい、と彼女は続けた。え、ちょっと待て。
「え?」
思わず、声が出る。
「え?」
いや、だから「え?」と言いたいのは私だ。そこで、はっ、とした。まさか、ここまで貴族の常識を知らないってことは。
「あなたもしかして、カルラ・イーストですの?」
「え? どうして私の名前を知っているんですか?」
やはり、彼女がヒロインのようだ。