*第1話*
「シェリーは僕が幸せにしてあげる」
「じゃあ私がシェイナスを幸せにしてあげるわ!」
今でも忘れることのない幼い頃に交わした大切な約束――。
「僕たちは両想いだね」
そう言って幼い彼は私に天使のような笑みをみせてくれた。
暖かく愛しい思い出が、黒く染まっていく。
私の目の前には成長した彼がいた。
「あなたには失望したよ。もう僕に近づかないでくれるかな?」
抑揚のない淡々とした声で彼はそう言った。そしてそのまま私ではない女の子の肩を抱く。
やめて! 他の女の子に触らないで!
そう叫びたいのに声が出ない。私は呆然と彼を見つめることしか出来なかった。
「シェイナス……」
肩を抱かれた女の子は潤んだ瞳で、泣きそうな声で、彼を見上げる。
やめて! そんな目で彼を見ないで! 彼の名前を呼ばないで!
そう叫んで取り乱したいはずなのに、公爵令嬢としての矜持がそれを許さない。
「あなたとの婚約も今日で解消だ」
冷たい目をした彼が無表情に言い放つ。そして肩を抱いていた女の子の背をそっと押し、部屋から出ようとする。
「待って! シェイナス!」
私が彼の名前を呼ぶと彼はぴたりと足を止める。そのことに安堵した私はほっとしたような顔を浮かべた。
「シェイナ……」
「軽々しく僕の名前を呼ぶのはやめてくれるかな? 不愉快だ」
無表情で言いきると彼は今度こそ部屋を出ていった。
*******
「シェリル様、起きて下さいまし」
「**・☆?;♢※!」
侍女の声で目が覚め、私は勢いよく跳ね起きた。勢いよすぎて首が痛い。首に手を当てながら、辺りを見渡す。何てことはない。いつもの見慣れた私の部屋だ。
「おはようございます」
今のは、夢?
妙にリアルなだった気がする。
「ノノ?」
勢いよく跳ね起きた私をさっと避けたノノは私の朝の準備にとりかかっていた。私の言語崩壊を華麗にスルーするところはさすがとしか言いようがない。
「寝ぼけてらっしゃるのですか? 早くベッドから出て下さいませ」
ノノは呆れた顔を隠そうともしない。いつものことだ、別に気にしない。素直にベッドを降りた私はノノが用意していたお湯で顔を洗い、ノノの手を借り昼用ドレスに着替える。
髪を結ってもらう為に鏡台の前に座り、鏡を見る。あの思い出すのも辛い夢の中の私と全く同じ顔の私が映っている。私の髪に優しくノノが触れた。
「それで、どんな夢を見たのです?」
こうやって聞いてくる辺りもさすがである。だからこそ普段の言動が主人に対するものではないような気がしても何も言えないのだ。
「本当にひどい悪夢でした…わ……」
ちょっと待って。
あれは本当にただの悪夢?
違う! あれは……
「シェリル様? シェリル様!!」
「誰か! シェリル様が! 誰か!!」
ノノの慌てたような声がどんどん遠ざかっていく。
あれはただの夢なんかじゃない。あれは……
思い出した。
前世の私はゲームが好きだった。RPG、アクション、リズムゲーム。なんでもやった。そんな中私が特別ハマった乙女ゲームがあった。
『やかんと恋せよご令嬢』
ネーミングセンスの欠片もない本当に乙女ゲームとして売る気あるのかと文句言いたくなるようなタイトルである。だが私はこの謎タイトルに惹かれて買ったのだ。ちなみにやかんとはこのストーリーのナビゲーション役の名前である。見た目ももちろんやかんだ。
その「やかんと恋せよご令嬢」の舞台はまさしくこの世界そのもの。私の婚約者であるシェイナスは攻略対象のひとりだった。よくある腹黒系王子である。もっとも、今の私が実際に接していた限りではその片鱗は見ていないが。
もちろん、前世の私が一生懸命プレイしたキャラはシェイナスだ。あの素敵な声と顔に胸を撃ち抜かれたのだ。シェイナスはなかなか攻略しにくいキャラでとある攻略対象のストーリーを途中まで進めないと出会うことすらできないといういわゆるシークレットキャラである。しかも攻略の邪魔をしてくるキャラまでいるのだ。……私のことだけど。とにかく1番難易度の高いキャラなのだ。
そしてさっきの夢は悪役令嬢であるシェリルが断罪されるシーン。シェリルは誰にも気づかれないようにヒロインに嫌がらせをするのだ。健気なヒロインはそのことを誰かに告げることはないのだが、とある夜会でシェリルはヒロインを別室へと呼び出すのだ。そこでシェリルはヒロインを侮辱する言葉の数々をぶつけるのだが、その現場をシェイナスに見られるのだ。そして、今日の夢のシーンへとつながっていく。その後、シェリルがどうなったかは分からない。乙女ゲームのストーリーにはシェリルのその後はなかった。
なんて言うか泣けてくる。なぜ悪役令嬢なのか。なぜ私はヒロインに生まれ変わらなかったのか。どうせ乙女ゲームのキャラクターに生まれ変わるのならばヒロインがよかった。もうこの際、悪役令嬢なのは諦めるからせめて私のところに、ナビゲーション役のやかん来い。
「シェリー」
こんな風にシェイナスから名前を呼ばれることもなくなるのかと思うと切ない。
「シェリー」
ヒロインがシェイナスを選ばなければ、私とシェイナスが婚約を解消することはない。だがシェイナスはこんなにも魅力的なのだ。シェイナス以外の攻略対象に会ったことはないがシェイナスよりも魅力的な男性などこの世界に存在しない。そう断言できる。ヒロインがシェイナスを選ぶことは間違いない。そして、私はたとえそうなってしまったとしてもヒロインに嫌がらせをするつもりは全くない。シェイナスとヒロインが仲良くなっていくさまを指をくわえて見ているしかないのだ。
「シェリー」
こんな風に名前を呼ばれるのは今だけ。ストーリーがはじまってしまえば、シェイナスもヒロインに惹かれていくのだろう。もう私の名前を呼ぶこともなくなるのだろう。あの断罪のシーンのように、彼は私をあなたとしか呼ばなくなるのだ。
「シェリー」
いつまでこんな風に呼んでもらえるのか、ストーリーのはじまりはいつだったか。確かイースト侯爵家の夜会だったような、と思い出してはた、と気づく。
ストーリーはすでに始まっている。
「シェリー、目を覚まして……」
その声にばちっと目が覚めた。私の願望による幻聴だと思っていたのだがベッドの横にはシェイナスがいた。シェイナスがずっと私の名を呼んでくれていたらしい。そのことになんとも言えない幸せに包まれる。忙しい身であるのにも関わらずこうして来てくれたことが嬉しい。不謹慎だけれども。
「シェイナス?」
そう呼びかけたつもりだったが喉がカラカラで声が出ない。シェイナスは真剣な顔で私のお腹のあたりをずっと見つめていて私が目を覚ましたことに気づいていない。
「シェイナ……」
もう一度名前を呼びかけ、はっ、とした。シェイナスは断罪のシーンで私に名前を呼ばれることが不愉快だと言っていなかっただろうか。もしかしたらすでにそう感じでいるかもしれない。そう思うと、名前を呼ぶこともためらわれる。
「シェリー?」
シェイナスと目が合うとシェイナスがほっとしたような顔になった。シェイナスの方へ右手をのばすと、シェイナスがぎゅっと両手で私の右手を握ってくれる。この手はそう遠くないうちに他の女の子のものになるのだ。泣きたいけれど、シェイナスの前で泣くわけにもいかない。唇を噛みしめて耐える。
「シェリー、からだを起こせる?」
私はこくりと頷いたがからだにうまく力が入らない。シェイナスに手伝ってもらってやっとからだを起こすことができた。すかさずシェイナスがそっと水の入ったコップを差し出してくれる。
「ありがとうございます」
私がお礼を言うと、シェイナスはにっこり笑った。
「愛しい婚約者のためだからね。このくらいはお安い御用だよ。それにしても、シェリー……」
シェイナスは表情を暗いものへと一変させた。そして噛みしめていた私の唇に指を当てる。
「あなたの可憐な唇に傷がついてしまう」
顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かった。いつからこんなにもシェイナスは色っぽくなったのだろう。
「こ、このくらい大丈夫でふわ」
あまりの恥ずかしさに舌を噛んでしまう。シェイナスがふふっと笑った。
「それならいいのだけれど」
穴があったら入りたい。枕に突っ伏したくなる衝動を必死に抑える。
「シェリル」
「え?」
突然シェイナスに抱きしめられた。シェイナスの肩に顔が押しつけられて、シェイナスの顔が見えない。
「どうしたの? 今日は様子がおかしいよ。何か悲しいことでもあったの?」
その言葉に涙が零れそうになる。この人はいつもそうだ。つらいことや悲しいことがあった時に私がどんなに隠そうとしてもこの人にはバレてしまうのだ。そしていつもこうやって抱きしめてくれる。いつもならその時に話してしまうのだが今回はそういうわけにはいかない。
「体調がよくないだけですわ。少し休めば大丈夫です」
「それならいいのだけれど」
シェイナスはそう言って離れていった。本当はもっと抱きしめてもらいたかった。この胸の内をさらけ出してしまいたかった。
「お気遣いありがとうございます。殿下」
その気持ちを飲み込み、この作った笑顔の下に隠す。公爵令嬢の名に恥じないこの笑顔、完璧でしょう?
私が殿下と呼んだことにシェイナスが目を見開いた。
「シェリー?」
「殿下もそろそろ帰らねばならぬ時間でしょう。お時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした。わたくしのことでしたら本当に大丈夫ですわ」
「やっぱり今日のシェリーはおかしいよ」
私の肩に手を伸ばしてきた、シェイナスの手をそれとなく払う。シェイナスが愕然としたような顔をしたが、気にせず拗ねたような顔を作る。
「もう! いつになったら気づいて下さるんですの? 好きな人にはいつも綺麗な姿を見てほしいのに。もう少し乙女心というのを理解して下さいまし」
私は遠回しにシェイナスの退室を促す。ちなみに半分は本音である。そこまで言われると、シェイナスも退室せざるを得ない。「またくるよ」とだけ言い残し、部屋を去っていった。
シェイナスがいなくなると、それを待っていたかのように入れ違いにノノが入ってきた。
「シェリル様! お身体はもうよろしいのですか!?」
普段なら絶対に出さないほどの大きな声で私の側へ駆け寄ってくる。
「もう大丈夫ですわ。それよりノノ、わたくしはどのくらい寝ていたのです?」
ノノが落ち着いた頃を見計らって尋ねる。
「お倒れになったのは今朝のことですよ」
私は窓の方へと顔を向ける。今は夕方頃か。意外と長い間寝ていたらしい。
「シェリル様、お腹が空いておりませんか? 何かおもちいたしましょうか?」
ノノの言葉に私は首を横へと振った。
「今は何もいりませんわ」
全く食欲がわかない。ノノが心配そうな顔を見せたが今は気遣う余裕がない。
「今日はもう着替えてお休みなった方がよろしいでしょう。着替えをおもちいたします」
ノノの言葉に素直に頷く。そして、今朝ドレスに着替えていたはずの私が寝間着を着ていることに気がつく。ノノが着せ替えてくれたのだろう。突然倒れた私をノノがどんな気持ちで着せ替えてくれたのかを考えると胸が痛かった。
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綺麗な寝間着に着替えた私は一人となった部屋で考えていた。考えるのはシェイナスのことばかりだ。
いずれ彼はヒロインと恋に落ちるだろう。そんな彼に私は何ができるだろうか。昔、幼い彼と約束した。
「シェイナスを幸せにする」と。
その為にならば私はなんでもしよう。
シェイナスとヒロインの恋では私は一番大きな障害となるだろう。それならば私は彼の幸せのために身を引こう。ヒロインとの恋を一番に応援しよう。
「そんなのいやですわ」
涙がこぼれる。でもそれしかないのならば……。
できることなら彼の隣で、私自身の手で、彼を幸せにしてあげたかった。それが叶わなくなった今、こうするしかない。
彼には幸せでいてほしい。
今の私のたった一つの願いだ。
涙を拭い、右手を強く握る。
「シェイナスの幸せはわたくしが導いてさしあげますわ!」
右手を高くあげる。
ヒロインとシェイナスが初めて出会うのは7日後の夜会である。取り敢えず、ヒロインと接触をはかることに決め、私は眠りについた。