冬と少女と事件
冬だった。
寒かった。
雪が降っていた。
大粒の雪は音も無く降り続け屋根や街灯や川や道路の雪の上の雪や女の子がさしている傘の上や涙に濡れた迷子の少年の心や地球の最北端の巨大な氷山あるいは最南端の大陸に雪が降っていた。
寒さは棘のように衣服の隙間から肌に突き刺さり背筋が丸くなり息は煙を吐いている白く冷気に直接さらされている顔の表面が凍ってしまっているかのような感覚があった。
冬だった。
紛れもなく。
俺は想像を絶する寒さの中をあてもなく道を歩いている。それだけで俺の精神が少しおかしな様子になっているのが分かるだろう。寒さの中をあてもなく歩く人間なんてまともなものじゃない。しかし、家に居たくなかったのだった。家に居ることと、厳寒を秤にかければ寒さを取らざるを得ないような気持ちだった。だから、少しおかしいと言う。家に居たくない理由? もちろん、妹のせいに決まっている。
正面から赤い傘をさした俺と同い年くらいの少女が歩いて来た。雪で狭まった道だった。少女も俺に気がついた。俺と少女は目を合わせた。まるで侍が切り結ぶ瞬間のように俺と少女は一瞬だけ視線を合わせた。いつも幸福を感じているような優しい微笑みをたたえた瞳だった。口元も同じように微笑んでいるように見えた。黒く長い艶やかな髪がさらさらと揺れている。愛らしい容姿をしていた。赤い傘をさしていた。赤い傘の上に、雪が積もっている。彼女の黒いロングコートの肩にも、雪が積もっている。俺と少女の距離が縮まる。
そして少女は俺の目の前でまるで新体操の選手のように見事な回転で滑って転んだ。
受け身をとらなかった。
俺はそっと隣を通りすぎようとした。
しかし少女は動かない。
ぴくりともしない。
雪のように舞ったりもしない。
彼女は雪の地層に埋もれる化石だ。
周囲には誰の姿もなく、人影一つなく、雪が落下してくる極小さな無音のつぶやきだけが耳をつんざいている。
このまま少女を放っておいたら雪に埋もれてしまう。次に出会えるのは桜の季節。
「大丈夫?」
よく見ると少女がぷるぷる震えている。
「大丈夫?」
少女は顔を上げた。
その顔は涙で濡れていた。
あたたかい涙。
「う、うう腕が折れました……!」
少女は右手を左手で包んでいた。大事な物を守るように。
腕が折れているようには見えない。しかし、ここまで痛がっているのだから本当に折れているか、あるいはヒビくらいは入っているのかもしれない。
「病院に行きます」
腕を押さえながら立ち上がり、ふらふらと歩き出した彼女は、その場で滑った。
とっさに腕を伸ばして彼女の背中と肩を支えた。
彼女は転ばなかった。
ただし顔を真赤にした。
傘の色に似ている。
彼女はどうやら良く滑る人間らしい。これ以上転んだら本当に腕が折れるかもしれない。俺には直接的には関係ないことだが、一度声をかけてしまったという行きがかり上、見過ごすのも悪い気がする。
「病院まで着いて行ってもいいでしょうか? その、転ばないように」
「……いいですよ」
口ごもるようにして小さな声で言った。
俺は彼女の横を歩いた。
滑らないように歩くのに集中しているようだった。
しかし彼女は1分毎に滑っては、うっ、とか、はっ、とか可愛らしい気合を入れて危うげなバランスを保っている。何とか転ばずに済んでいるようだが、精神衛生上よくない。
「俺の手につかまってください」
「そうします」
あっさり彼女は痛くない方の手で俺につかまった。
恥や世間体よりも安定性を重視した選択だと言える。
俺達は歩き続けた。
彼女は俺につかまった事で、ある程度滑らずに歩く事ができるようになったみたいだ。
「ところでどこの病院に行くつもりですか? こっちに病院なんてあったかな」
「えっ……無いんですか?」
彼女の眼が見開かれる。信じられない、なんでこっちに歩いて来たの? という表情。
「いえ、知りません。あなたが歩き始めたからついてきただけです」
「あなたがついてきてくれたからこっちにあるんだと思ってました」
俺と彼女は数秒見つめ合った。感情のない目で。
「ああ、そうなんだ……勘違いさせて申し訳ない」
「あ、いえ、そういうつもりじゃないんです……着いてきてもらったのは私の方だし……」
彼女は顔を伏せる
「あっちに病院がありますよ。案内しましょうか」
灰色の空の彼方を指さす
「ぜひ、お願いします」
彼女は俺の手につかまったまま歩く。
くっついた腕から少しずつお互いの体温で暖められる。
それが何となく不快だ。初対面の人間に触れる事。
「腕、大丈夫ですか?」
「あんまり痛くなくなってきました」
彼女は腕をじっと見て言った。
「そうですか」
「ええ」
彼女は意を決したように顔を上げる。
「あの、わたしこうやって誰かに助けてもらったの、はじめてです」
「そうですか。俺もです」
道の脇に植わった木から、大きな鳥が飛び立ち、その反動で枝に積もった雪が落ちる。
俺達は雪の中を歩き続けた。
病院の前についた。
「それじゃあ俺はこれで」
俺は踵を返して立ち去ろうとする。
「あ、ちょっと待って下さい。お礼をしますから」
意外な事を言われた。
「いえ、お礼なんていりません」
「いいから少し待ってて下さい」
とてもお礼をしようという態度ではなかった。まるで怒っているかのような語気だった。それに自分で気がついたのか、彼女は一瞬きょとんとした顔を見せてから、何事もなかったかのように病院に入って行く。
俺は仕方なく追いかける。
広い待合室にたくさんの老人が集まっていた。
そこには老人しかいないようだった。
彼女は受付から戻ってきて、待合室のベンチに座った。それから俺の方を見て、こっちこっちと手を振った。俺は彼女の隣に座った。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
彼女は真剣な表情で言う。
「いいですよ」
「全然腕が痛くなくなっちゃったんですけど、どうしたらいいでしょうか」
彼女は不安げな調子で言う。
「一応診て貰った方がいいんじゃないですか。後で痛くなったら困りますよ」
「なるほど……そうですね!」
彼女は快活に笑う。
絶対折れてないな、と俺は思った。
彼女は診察室に呼ばれ、すぐに戻ってきた。
「あの、ただの打撲でした」
「そうだと思ってました」
「私も実は、ここに向かってる途中から、骨折してないなぁって、思っていたんです」
彼女はいたずらっぽく言う。
「それなのに病院に来たんですか」
「成り行き上、そうなりましたね」
彼女はにっこり微笑んだ。
俺はまあいいかと思った。生きていればこういう事もある。
「腕が折れてないなら一安心ですね。じゃあ、そろそろ俺は帰ります」
「あ、待ってください。まだ診察料を払っていません」
「それはあなたの問題であって、俺は帰っても問題ないんですよ」
「そしたらばらばらになってしまうでしょ」
「ばらばらになると何か不都合があるんですか?」
「お礼できないじゃないですか」
「お礼はいりません」
「お礼はします」
「結構です」
「もう!」
彼女は小さく怒りの声をあげて頬をふくらませてそっぽを向いてしまった。
なかなか強情な人らしい。
女性を怒らせるのはよくない。
よくないことがおこる。
俺にはわかる。
「それではお礼をしていただきます」
「そうです。最初からそう言っていればよかったんです。ぜひ、そうなさってください。わたしを助けてくれたあなたには感謝しているんです。願いをなんでも叶えてあげます」
彼女は真剣な顔で言った。
「なんでもですか?」
「なんでもです」
俺は考えた。
どう答えるのが一番の得策か。
やはりここは飯でもおごってもらって、それで解決というのが一番手っ取り早いだろう。
「それじゃあ御飯を食べさせてください」
「えっ、そんな……いきなりですか?」
「えっ、いきなりですかね……?」
彼女は頬を赤らめて俯いた。
「少し恥ずかしいです」
「そうでも無いと思います」
「男の人と女の考え方は違うんです」
そういう問題だろうか、とも思ったが俺は女の考えていることに詳しいわけでもない。初対面の男性に助けてもらった際、女性ならではの気軽なお礼の仕方、飯を奢る以外のオーソドックスな選択肢が他にもあったのかもしれない。
「……そんなものですか。女の人の考え方には疎くて」
「ふふ、正直なんですねっ!」
彼女は楽しそうに笑った。
俺はなんだか少しだけ気が滅入ってきた。
彼女は呼び出され、受付で診察料を払った。
すでに腕を押さえていないところを見ると、もう全然痛くないんだろう
「じゃあ行きましょう。わたしについてきて下さい」
「ええ。お願いします」
「タクシーを呼びます。病院の前にはすぐ来ます」
「わかりました」
タクシーがすぐ来た。
二人で後部座席に乗り込むと、彼女は行き先を告げる。
「わたしの家までお願いします」
なんで彼女の家に行くんだろう、と思った。
着替えでもするんだろうか。
それを聞く前に、運転手が話しかけてくる。
「お嬢ちゃん、彼氏でも出来たのいかい?」
どうやらタクシー運転手と顔見知りらしい。
「ちょっと平田さん、か、彼氏なんてとんでもないですよとんでもない。ですよね? とんでもですよね?」
俺の顔を見ながら、親しげにとんでもとんでもと呼びかける彼女をみた時、俺は何か大きな間違いを犯したような気がした。
「平田さん、この人は恋人というわけじゃないんですよ。まだ俺は名前も知りません」
「あ、名前を聞いていませんでしたね。なんていう名前なんですか?」
そろそろ気づいていた。
質問に質問で返された事でなんとなく推測に決着がついたというべきか。
この人はたぶん、物凄くマイペースな人だ。
率直に言えば――巧妙に隠してはいるみたいだが――天然というやつなんだろう。天然というのはボケ野郎という意味だ。
病院に行った辺りから俺に慣れてしまったらしく、一応は敬語らしき物を使ってはいるが、ほとんど友達に話しかけるような気安さが生まれてしまっている。
「俺は彰です。菊田彰」
「わたしは桜庭小春です。よろしくおねがいしますね」
そして小春は照れたように微笑んでみせた。
絶対に真似できないような笑顔。
「若いってなあ、いいもんだねぇ」
小さく呟いた平田さんの眼が雪の彼方を見ているのがバックミラー越しに分かった。
タクシーが豪邸の前に止まった。
「ここがわたしのうちです。彰さん、降りて」
「立派なお宅ですね」
巨大な門から長い道が続いている。その終点に学校のような大きさの窓がたくさんある大きな茶色の家屋が見えた。
「そうですね、よく見ると大きいかもしれません」
平田さんありがとうございました、と小春は運転席に言う。
タクシーは金も受け取らずに走り去った。
何故、小春がマイペースなのか、あるいは何故天然なのか分かった気がした。
門が自動で開いた。
玄関まで続いている長い道に雪がないのはロードヒーティングでも敷いてあるんだろうか。
「友達がうちに遊びに来るのって、小学生の時以来だから、なんか楽しいです」
「そうですか」
「彰さんは楽しくないですか?」
「……こんな大きな家に入った事がないから、なんだか緊張しますね」
「大丈夫ですよ。きっと彰さんの家と同じです」
そんなわけはない。家は平屋だし、屋根のペンキを塗り替えるのは俺の仕事だ。たぶん、小春はこの家の壁を修理したり殺虫剤をまいたりしたことがないと思う。
玄関についた。小春がインターフォンを鳴らした。
中から鍵の開く音がして、中学生くらいの小柄な女の子が出てきた。眼が大きくて強い光を放っている。小春の長い髪とは対照的にショートカットで、上下のジャージを着ている。野良猫を彷彿とさせるしなやかさとたくましさがあった。
俺としては執事が出てくるかと思ったので、少し残念だった。
「……姉さん、おかえり」
どうやら小春の妹らしい少女は俺をじろじろと観察している。値踏みされているらしい。
「ただいま。この人は彰さんだよ。彰さん、この子は妹の一夏。よろしくおねがいします」
「はじめまして、彰です。よろしくおねがいします」
それ以上は何も言えなかった。小春と俺には何の関係もないからだ。何の関係もない人間の妹に自分を紹介する時のうまいやりかたを、俺は誰からも聞いたことがない。
「……一夏です。よろしく」
「それじゃあ彰さん、入ってください。何もないところですが」
一夏の鋭い視線を体中に浴びながら中に入る。
中は冗談かと思うくらいの広いエントランスになっていた。左右に別れる階段まである。小春はすっかりくつろいだ表情で、俺に上着を脱ぐように促した。こんなに広い空間なのに、何故か暖かった。
「彰さん、こっちです」
悠々と歩いて行く小春の後ろを追いかける。
「……どこの馬の骨か知らないけど、姉さんに何かしたらただじゃおかないから」
背後に居た一夏はそう言い放つと、そのままパタパタ走って小春と並んで歩いた。少し間を開けて、俺はついていく。長い廊下だった。無数の部屋があるようだった。
まったく、相当面倒な事に巻き込まれてしまったみたいだ。
俺は、一体ここで何をしているんだ?
帰りたい。
家に居たくないという理由で散歩していた俺だが、今すぐ帰りたい。
けれど、ここまで来てしまったら御飯とやらを食べて行くしかなさそうだ。
ここで帰ると告げた所であの小春が簡単に帰してくれるとは思わないし、子鬼のような一夏がどんな反応を示すかまったく想像出来ない。
通された部屋はリビングらしき広間だった。
暖炉がある。
10人くらい座れそうなテーブルがある。
テレビが無駄に大きい。
「その辺りに座っていてください」
俺はソファーに座った。
そして電源のついていないテレビを見続けた。
キッチンから声がする。
「ねえ、あいつ何者なのよ。どこで知り合ったの? 何しに来たの? なんで料理なんて作るの? お姉料理なんて作った事ないじゃん!」
一夏の声が聞こえてくる。どうやら小春は俺に料理を作ろうとしているらしい。廊下で一夏に言ったのだろう。先に俺に言ってほしかった。俺は手料理なんて食べたくない。
「あの人は彰さんだって教えたじゃない。姉さんが転んで、痛がってたら、病院に連れて行ってくれたんだよ。それで、お礼がしたいって言ったら御飯が食べたいって言うから、頑張って作ることにしたの」
頑張ってくれるらしい。
「転んだって、大丈夫なの?」
「病院に行ったけど、折れてなかったよ」
「はあ……。そう、大体わかった。あの人は姉さんが連れて来たんだね」
「? そう言ったでしょう。いっちゃん、卵出して」
「……たぶんだけどさあ、あの人、お姉に料理作ってくれって言ったわけじゃないと思うよ」
「えっ、なんでそう思うの?」
「だって、普通レストランとかで食べるでしょ」
「……そうなの?」
「……そうだよ」
「……そうなの?」
「……うん」
「で、でもね、わたしは手料理の方が感謝してるって感じするけどなあ」
「それはそうだけど……そういうのってもっと仲良くなってからするものだし、いきなり男の人を家にあげるのは相手にも失礼かもよ」
「……そうなの?!」
慌てふためく小春の顔が、なんとなく目に浮かぶ。
俺は頭を抱えている。
「じゃ、じゃあ謝らないと!」
「もう遅いよお姉。諦めて料理作ろ。そしてさっさと家に帰してあげよ。きっとあいつも早く帰りたいなって思ってるよ」
「…………」
会話を聞くつもりはなかったが、することもないので、全部聞いてしまった。
二人は声を潜める事もなく話していたからだ。
会話から想像するに一夏の方がしっかりしているようだ。その分口も悪いみたいだが。
無言の息苦しい時間が過ぎて、目の前に盆が運ばれてきた。
「あ、彰さん、御飯できました」
「ああ、ありがとうございます」
盆に乗っているのは茶碗と箸だけだった。
茶碗の中には黄色くてべとべとした米が入っている。
何故か背筋がぞっとした。
「これは何ですか」
「卵かけチーズ御飯です」
「……」
「あっ、もしかして彰さん、卵アレルギーですか? それともチーズアレルギーですか?!」
「アレルギーはありません」
「……おい、早く食えよ。それならすぐ食えるだろ」
「いっちゃん、お客さんに失礼な事言わないの!」
一夏は最早遠慮なしに俺を憎悪し始めたようだ。
小春は潤んだ瞳で俺をみつめている。
「いただきます」
小春と一夏に見守られながら卵かけチーズごはんを口に運んだ。
いつかどこかで食べた事のある味だった。
「……美味しいですね」
「はぁ~~よかったあ。一夏、美味しいって!」
小春は嬉しそうに笑った。
一夏は鼻で笑った。
俺はほとんど噛まずに一瞬で卵かけチーズごはんを胃に収めた。
ここから去らねばならない。
「ごちそうさまでした」
「よし、出て行け」
「もういっちゃん! 照れてるの」
「な、なんで見ず知らずの男に照れるのさ」
「帰ります。どうも、ご馳走になりました。ありがとうございました」
姉妹の会話には触れず、いち早く帰ろうと思った。
「あんなので良かったらいつでも食べにきてくださいね!」
嬉しそうな小春に、何か言おうと思ったが、俺が言えることは何もなかった。
「おい、ぼうっとしてないで出て行けよ」
一夏が眉根を寄せて睨んでいる。
やはり子鬼のようなやつだった。
俺は一夏の頭を殴った。
もうこの家には近寄らないつもりだったから、ちょうどいい。
「あ、痛い! なんで叩くのよ! お姉ちゃんこいつおかしいよ! 狂ってるよ! 見ず知らずの年下の女を、お、おお、いきなり殴ったんだよ! はあ? ふざけんなよこの、ばか! くず!」
俺は一夏の頭を殴った。
「ぐあああああああああああああああ!!!!!!」
怒りと悲しみ、そして絶望感が入り混じった絶叫。
まるで子供のような身も世もない叫び。
実に爽快だ。
「一夏さん、はじめて会う人と話す時は敬語で話しましょうね」
俺が話しかけると、一夏は頭を押さえて小春の後ろに隠れる。
小春は口元を手で抑えてくすくす笑っている。
「彰さん、一夏とすっかり仲良くなったんですね」
「子供の面倒をみるのは慣れています。妹がいますから」
「それなら、私と同じですね! わたしにも妹がいますから」
「知っています」
一夏は小春の背中から殺意のこもった眼差しでこちらを睨んでいる。
「あの、本当にもう、帰っちゃうんですか?」
「そうですね。そろそろ帰ります」
「それじゃあ送っていきます」
「いえ、結構です。俺を送って行ったら、今度は俺が小春さんを送っていかなきゃならなくなる」
「そしたら、二人共ずっと家と家を往復する事になって、楽しそうですね」
「辛そうですね」
「じゃあ、今日はここに泊まっていかれたらいかがですか?」
「どうしてそうなったんですか。お気持ちは嬉しいのですが、帰らせていただきます。家で家族が待っていますので」
「ご家族で、何か用事があるんですか?」
「何一つありません」
「それなら、みなさんで泊まっていかれてはいかがですか?」
「どうしてそうなったんですか。お気持ちはありがたくちょうだいしますが、俺は帰ります」
「……泊まって行けば」
「ほら、妹もこう言ってますし」
俺は驚いていた。
一刻も早く追いだそうとしていた一夏が、泊まるよう言ってくるなんて。
「お前が泊まったら、二度と帰れなくしてやるからな! ばーか!」
どうやら泊まると死ぬらしい。
この姉妹と話していると、話が一向に進まない。
俺はありがとうございます、ありがとうございますと言いながら後ずさりして玄関を目指した。
小春と一夏は泊まれ、泊まれと追撃をかけてくる。
俺は何とか玄関の扉を開けた、
「あ、彰さん、あの、連絡下さいね!」
小春が俺のポケットに何かを突っ込む。
俺はとにかく外に出た。
それから振り返らずに走って逃げた。
「彰さーん、またねー!」小春の声。
「死ねーーーーーーーー!!!!!」一夏の声。
自動で開く門が開き、桜庭邸のテリトリーを脱した。
九死に一生を得た気分だった。
ため息をついて、自宅に向かって歩き出す。
街を散歩していただけなのに、なんだか恐ろしい経験をした。
心を落ち着かせるために、街の中を少し歩く。
そうしてみると、いつもの慣れ親しんだ退屈な世界が広がっている。
これはこれでいいものだ。
今回の経験から学んだことは、無闇に人を助けないという事だ。
情けは人のためならず、という言葉もあるが、情けは基本的に藪蛇なんじゃないだろうか。
――家に帰ろう。
俺はそう思い、家路につく。
雪で狭まった道を、正面から俺と同い年くらいの少女が歩いてくる。
――どこかで見たことのある光景。
目の前で少女が転んだ。
――どこかで見たことがある光景。
俺は早足に少女の脇を通り抜けようとして足をつかまれた。まるで魂をつかまれたように心臓が跳ね上がった。
「あの、すみませんが、助けていただけないでしょうか」
地面から声が聞こえる。
俺はため息をついて、目を閉じた。
「どうしたんですか?」
「腕が折れたみたいなんです」
「たぶん折れてはいないですよ。その痛みは病院に着く前に消えます。お礼もいりません。お腹はいっぱいです」
「何言ってるかよく分からないけど……ほら、見てくださいよ」
俺は少女を見た。
まるでガラス細工のように透き通った瞳の少女。吸い込まれそうな眼、というのはこういう事を言うのだろう。
少女は腕を上げていた。
手首の上辺りから変な方向に腕が曲がっていた。
「ね? これ絶対折れてますよね」
「……折れてますね」
「ふあああ」
ふあああと言って、女の子は白目を向いて気絶した。
血とかが苦手な人なんだろうか。
自分の腕が折れているのを直視したら気持ち悪くなるのはわかるが、何も気絶しなくてもいいだろう。
これから何か、よくないことがおこる。
俺にはわかる。
周りには誰一人いないし、人影ひとつ見えないし、雪はしんしんと降り積もり続け、彼女の腕は、今度こそぽっきり折れている。
俺はため息をついた。
それから、彼女に呼びかける事にした。
「大丈夫?」