短編「光の篭、罪の雪」
舞台はマカオの寒れた廃ドック。現地の特殊部隊と共に犯罪組織の壊滅作戦が最終フェーズを迎えている。
激しい爆発音が廃ドックを揺らし、マカオの夜をオレンジ色に染めていた。
ICPOのチームとは完全に分断され、通信機はノイズを吐くだけの塊と化している。
頭上を切り裂くローター音が重い空気をかき乱す。
崩れた天井の隙間からサーチライトが焚き付けられ、光が通路を舐めるたびコンテナの影が歪んで揺れた。
近藤は一本道の通路の中央に立っていた。
逆光の中に三人の敵が黒い影となって浮かび、背後には崩れた倉庫の闇だけが広がっている。
「……Damn」
残弾ゼロ。ここまで来る間にとっくに打ち尽くしていた。
近藤はベレッタを床へ放り捨て、使い込まれたトンファーを抜いた。
ここからは身体に刻んだ技術だけが生存の証明になる。
前を塞ぐ三人が銃口を上げた瞬間、背後の闇から鋭い声が飛ぶ。
「Move right! Stay low!」
近藤の身体は考えるより早く動いていた。
サーチライトが作る細い影へ滑り込み、その頭上を掠めた銃弾が正面の男の胸を正確に貫いた。
近藤はそのまま低く旋回し、二人目の懐へ踏み込む。
それと同時にトンファーが唸りを上げ、男の腕を正確に打ち抜いた。
体重を乗せた一撃が男の体勢を崩し、側面の扉と一緒に吹き飛ばした。
長い年月をかけ磨いた動きが、意識より先に体を動かす。
次の一歩で大きく足をスライドさせ、後ろへふらつく男の胸を狙って強烈な一撃を叩き込む。
骨が軋む鈍い音とともに男は背後の机へ叩きつけられ、積み上げられていた資料が四散する。
旋回してきたサーチライトが室内を真白に照らし、舞い上がった膨大な紙片が光を反射して雪のように散った。
紙片が落ちきるまでのわずかな空白の中で、近藤は男に最後の一撃を叩き込んでいた。
ローター音だけが遠ざかっていく。
足元には資料が散らばっていた。
不正の記録、脅迫の材料らしい写真、売られていく少女たちの記録、色違いのパスポートや粉の袋、束ねられた札束が床を覆っている。
近藤は肩で息をしながらその光景の中に立ち、酸欠で震える自分の指先を一瞬見つめていた。
「ゴトッ」と背後で物音がした。
射撃音の後、近藤が二人目を引き離した時には、声の主もまた無駄のない動きで残りの一人を倒していた。
立ち上がった男が瓦礫に足を取られ、鈍い音を立ててよろけていた。
「……いったぁ」
吐き捨てられたのは現地の言葉ではなく、聞き慣れた母国の響きだった。
「……日本人、ですか」
近藤の動きが止まる。
呟きは、静まり返った倉庫街に吸い込まれていった。
ドックを照らしたサーチライトの残像が、網膜の裏で光を失っていく。
代わりに夜明けが窓の外に広がり始めていた。
カジノ街のネオンはまだ消えていないが、光はすでに夜の色を失い湿った空気の中でぼやけている。
数時間前まで銃声と暴力が反響していた場所とは思えないほど、波の音だけが規則正しく岸壁を打っている。
近藤は、肺の奥に残っていた熱い息をゆっくり吐き出した。
鉄の匂いが鼻の奥に残っている。血の匂いなのか、それともただ港の錆びた空気なのか、自分でも判然としなかった。
足元には、先ほどまで雪のように舞っていた資料が、無残に散らばっている。
泥と油、そして誰かの血を吸い、ただの汚れた紙片となってコンクリートに張り付いていた。
机の破片の横に倒れた男の首へ指を当てると、微かな拍動が返ってくる。
「……死んでませんね」
背後から煙草の匂いが漂い、くぐもった声が返ってきた。
「……律儀だな」
近藤は振り返る。
男は返り血と汗で汚れたシャツの袖を無造作に捲り上げ、煙草をくわえていた。
「あんたICPOか。……日本からの出向組だろ」
防弾ジャケットの文字を見たその目は、近藤の姿をなぞっていた。
そして、その口調には警察組織の内側を知る者の確信が混じっていた。
近藤はゆっくり立ち上がり男を見た。
使い古された服装と世捨て人のような目つき、その風体はどの作戦資料にも各国警察の連絡名簿にも載っていない日本人。
(Who the hell...)
喉元までせり上がった傲慢な問いを、近藤はかろうじて飲み込んだ。
淀み無いタクティカルコマンド、正確すぎる射撃、無駄のない無力化。
その端々に「こっち側」の残像が確かにあった。
「……なぜ、ここにいるのですか」
近藤は振り絞ったように言った。
「さあな」
成瀬は煙を吐きながら、少しだけ首を傾けた。
「……あなたは、組織側でも……今は、警察でも軍でもないように見えます」
構成員を倒していた。
組織側の人間ではない。
だが確実にこの男からは、軍や警察関係者の匂いがする。
男の指から煙草の灰がコンクリートに落ちた。
男はそれを足で払うと、窓の方へ目をやった。
しばらく何も言わない。
煤にまみれた額を、親指で強く擦った。
近藤の問いに対し、男は煙を吐き、海へ目を向ける。
「……昔、そっち側の理屈で動いてた時期もあった、それだけだ」
近藤はそれ以上聞かなかった。
聞けば、事情を語るのだろうか。
しかしその話は、この夜の空気には重すぎるように思えた。
空はすでに薄い青に溶け、倉庫の屋根が白く浮き上がっている。
遠くで、仲間たちのサイレンが潮騒を切り裂いて近づいてくるのが聞こえた。
男は短くなった煙草を落とした。
小さな火が一瞬だけ光り、つま先の下で擦れ消える。
近藤も窓から外の海の光を眩しそうに見ていた。
「この事件は私の最後の任務でした」
近藤は長かったICPOでの任務を思い出していた。
「帰るのか?」
「……ええ。日本に戻ります。」
男は一瞬だけ、朝日の眩しさに目を細め、自嘲気味に口角を吊り上げた。
「いいな、日本。」
その言葉は軽かったが、視線は海の向こうに固定されたままだった。
懐かしんでいるのか、それともただ遠くを見ているだけなのか、近藤には判断がつかない。
「あなたは?」
男は肩をすくめた。
「さあな。まあ、生きてりゃまたどこかで会うだろ」
近藤は答えなかった。
ただ朝の色に染まりゆくマカオの街を、静かに見つめていた。
さっきまでの喧騒がすべてが嘘だったかのように、マカオの街はいつもの一日を始めようとしている。
近藤はまだ知らない。
数年後、日本でこの男と再び会うことになることも、その再会が自分の人生を大きく変えてしまうことも。
港には、静かな朝だけが残っていた。
初めての作品になります。ジャンルの供給不足は自ら創って足すしかない。




