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人工星


 名前はなんとか聞くことができた。

 いつの日だっただろうか。

 ナナシが声を殺して笑うようになったのは。


 部屋はいつの間にか明るくなり、蔓が巻き付き、土だけだった鉢に花が咲き、埃や、かび臭さは本の甘酸っぱいにおいに変わっていた。

 ナナシはひどく痩せてはいたが健康だった。

「ねえ、レイン!」

「なんだ、本、読みたいのか?」

「うん……。読みたい」

「じゃあ、文字からだな……」

 レインは適当に開いた本の文字を指した。

「もじ……」

 ナナシは知識に対して貪欲だった。


 それから更に数か月後。


「ねえ、レイン!」

「なんだ?」

「どうして人は不可視な努力ほど棄却してしまうのに、可視できる努力は惜しまないの?」

 本を読ませすぎたと思った。

「さあな……。よくわからん。まあ、旅にでも出て自分の目で確かめるんだな」

「旅!」

 そう言ってナナシは目を輝かせていた。

「いや、適当に言っただけだからな。ここでの適当はいい加減って意味だぞ」

 それでも、ナナシの耳には届いていなかった。


 そして、今に至る。


「さて、行くか」

 レインが改めて言った。

「着いて行くとは言っておいて何なのだけど、こんな時間に行くのかい?」

「ああ、時間が惜しいからな」

「分かった。準備と戸締りするから少し待っててもらってもいいかな?」

「ああ。気が済むまで準備しな」

 ナナシは蔓が巻き付いた窓ガラスの鍵を丁寧に確認している。

 ハイビスカスが口紅を塗った女の子のような色で花開いていた。

 散らかった本を一冊ずつ、本棚に収納した。

 それから部屋中を歩き回ってから、ナナシは私たちのところに来た。

「待たせたね。もう行けるよ」

「わかった。じゃあ、電気、消すぞ」


 レインは照明を落とした。


 ナナシは深く目を閉じた。


「行ってきます」


 さっきも来た道を戻っていく。

「いやあ、それにしても、シラちゃんは凄い子だね。こうして見ていると!」

「え?」

 ナナシは嬉しそうに私を見つめていた。

「なんて言えばいいのかな……。レインみたいだ」

「レインみたい?」

「例えば少しいい加減なところとか、面倒くさがりなところとか」

「おい!」

 レインがツッコんだ。

「あっはは!冗談だよ。でも、なんて言えばいいかな。家族みたいだ」

 そう言われ、私はどう返せばいいのかわからなかった。

 だが、それは悪くないことだと思った。

 後はあたりさわりもない会話をしていたら時代が変わった世界へと戻ってきていた。


 暗雲は街の赤い光に照らされ、辺りは派手な装飾を施したように電気がぎらぎらと灯っている。

 夜なのに全く暗くない。

 車は目を光らせていた。

 暗いところを、あたりの光で隠していた。

「これが都会というものなのか!」

 照明に照らされるガラス越しのドレス。

 街灯の下でくっつくカップル。


 暗くない夜は人をこんなにも活気づけるものなのだろうか。


「凄い!凄いよっ!夜なのに煌々としているぞっ!あそこを走行しているオートモービルも真作だっ!」

 ナナシは興奮気味に目を大きく輝かせていた。

 傍から見ればただの変人だった。


「ねえ、レイン」

「なんだ?」

「夜は楽しそうだね」

「そうだな。夜は見えにくくなるからな」

「……明るいよ?」

「明るさじゃない……」

 私は聞こうとしたところで信号が切り替わった。

 交差点を人が隙間なく埋め尽くす。


 駅のホームへ辿り着いた。

 地べたを踏み鳴らす人。

 列を成して待つ人。

 静かに盛り上がる人の声が幾数にも重なり、巨大なコーラスを響かせる。

 細かく記載されたチカチカと光る電子掲示板。

 その電子掲示板が何かを案内していた。


 私たちは、汽車の止まるホームを目指す。

 そっちへ向かうにつれ、電子掲示板は消え、鳴りやまないアナウンスも、人の音もしなくなった。


「乗るぞ……」

 半日ぶりに列車の座席に腰を下ろした。

 私は空気が抜けたようにへたりと安心してしまった。

 人と会うことは、疲れることらしい。

 すぐに眠れてしまった。


「あはは、やっぱりシラは疲れてたんだね」

「みたいだな」

「なんだか歳の近い妹みたいだなあ」

 シラの寝顔をのぞき込むナナシが起こさないようにそっと呟いた。

「欲しかったのか?」

「そりゃあねえ、兄とは言わないけど、姉になるってどんなのかなって……」

 ナナシは寝入るシラの頭をそうっと撫でる。

「お兄ちゃん、元気かな?」

「お前の兄はお前が元気にやっていたら、元気だろう。兄妹なんてそんなもんさ。お前も寝とけ」

「うん。でもその前に……」

 そう言うとナナシは反対座席に置いてあった毛布を持ってきた。

「適当に布団を被せとかないと。勿論ここで言う適当は適切って意味でいい加減って意味じゃないよ」

「分かってる。お前も一緒に入っとけ。風邪ひかないようにな」

「うん。おやすみ」

「ああ」


 ガタンゴトン……。


 汽車が揺れる。


 窓の外には都市の赤い光が入り込み、仄明るく三人を赤く照らす。

 レインが窓から眺めた景色は地界で輝く人工星の群れだった。

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